第3話 引っ越し①

「ふう、あらかた荷ほどきは終わりましたかね」


 見知らぬ部屋、見知らぬにおい、そして見知らぬ光景。

 積まれた段ボールのゴミが玄関で小さな丘のようになっており、そして部屋の前では見目麗しい美少女が頬を流れる汗をタオルで拭いている。


 ――これが引越しというものか。実にいい、い……い。


「……ぜぇ、ぜぇ……な、なんとか、終わった……!」

「雰囲気台無しですね。どうしてそこまで息が上がってるんですか」

「う、運動不足だから、だろうな」

「ためらいもなく認めちゃうんですね」


 はあ、とため息をつく相坂さん。


 なんか彼女にはいつも呆れられているような気がするけど、俺の今の評価ってどんな感じなんだろう。ミジンコよりは上だよね?


「運動不足もできれば直していきたいですが、もっと大事な部分が故障しているんですよね…………」

「なんかいますごく失礼なこと言いました? 人のことを故障しているとか言いました?」

「課題は山盛りですね」


 勝手に俺の課題を山盛りにしないでほしい。こう見えてもちゃんと生きてきたのだから、そんなに盛り沢山じゃないはずなんだけど。


 あと、相坂さんの顔がちょっと輝いているのが怖い。あれ、言葉と裏腹にこの人めちゃくちゃワクワクしてない? これもしかしてだけど、次の日とかに死ぬほどキツい筋トレメニューとか渡されるやつじゃないよね? 俺の腹筋、いきなりシックスパックになっちゃったりしないよね?


「大丈夫ですよ。筋トレはじっくりゆっくり、ですから」

「俺の心を読まないでほしいし筋トレをやりたいなんて一言も言ってない‼」


 俺のテンションとは裏腹に口角が上がっている相坂さん。この人、育成ゲームとか好きなタイプだろうな……。


 それから二人で残った段ボールを整理する。俺がカッターナイフでガムテープの張ってあった部分をすべて切り裂いて、相坂さんが丁寧に折りたたんでいく。絶対に口には出せないが、新婚夫婦の共同作業みたいで少し楽しかった。


 二人で黙々と作業をしていると、相坂さんがふと口を開いた。


「ああ、そう言えば言い忘れてましたけど。私、この部屋の隣なのでよろしくお願いします」

「わかりましたー……ってえ⁉」


 相坂さんは銀色の髪をぱっと流してふうと一息ついている。


 いやいやいやいや。


「そんななんていうことのない事務連絡みたいに言わないでくださいよ!」

「? 事務連絡ですが」


 ちなみに部屋の位置としては、マンションの8階の一番奥に嘉瀬先輩の部屋、そして俺の部屋と来ている。


 ということはつまり。


「…………別に私と隣人になったところで何も起こらないでしょうが……。何を期待しているんですか」

「い、いや⁉ べ、べつにそういうことじゃないけど」

「…………はあ、なんでこんな男に惚れる女が複数もいるんだか……」

「え、何か言いました?」


 ぼそっと何かをつぶやいたので俺は思わず聞き返すが、相坂さんはこちらを嫌悪的な目でじっと見ていた。


「な、なんですか」

「いや、本当にそんなセリフを言う男がいるんだなあと」


 いよいよ相坂さんの俺に対する好感度は最底辺まで落ちてしまったらしい。目がゾウリムシを見ている目だ。いや、ミジンコとゾウリムシでどっちが上か知らんけど。

 というかそもそも、俺なんかしたか?


「それよりも」


 相坂さんは自身のスカートをぱんぱんと払って立ち上がった。


 ちなみに彼女は休日だというのにスーツ姿で、妙に違和感がある。


「引っ越し作業も一段落したので、お世話になるお隣さんに挨拶をしに行きましょうか」

「え、あ。おはようございます」


 ばちーん。どこからともなく出てきたハリセンで頭をたたかれる。


「――いってえぇッ⁉」

「すみません、叩けばその陳腐な脳みそが治るかなと思いまして」

「俺の脳みそ、昭和のテレビだと思われてる⁉」


 てか、どうしてハリセンを持ってきているのかは聞いてもいいのかな? 明らかに最初から叩く気あったよね!


「あなたは一回一回説明をさせないと気が済まないんですか」

「いや、いきなり言うから……」


 俺は不平をこぼすが、相坂さんが聞いている様子はない。

 

 相坂さんは仕方ない人ですねと前置きしてから、呆れたように言葉を出した。


「――嘉瀬真理に、挨拶をしに行くんですよ」

「…………」


 嘉瀬真理、という単語が出てくるだけで緊張感が走ったのが分かった。

 単に俺が意識をしすぎなのかもしれないが、それでも彼女の名前を呼ぶというのはどこか弛緩した雰囲気を緊張させた。


 だがそんな俺をはた目に、相坂さんは話を進めていく。


「引っ越しをしたら隣人に挨拶をする、というのは日本の文化らしいですからね」


 そう言って彼女がバッグから取り出したのは、緑色のタッパーだった。


「それは?」

「私があらかじめ作っておいたおでんです。これを渡しにいってもらいます」

「おでん」


 今は新緑の芽吹く4月の頭。いささか季節外れではあるけど……。

 というかちゃんと前もって料理を作ってきてくれたのか。お仕事とはいえ、さすが相坂さんという気がする。


「ちょうどお昼ご飯を食べる時間でしょう? どうせだったら彼女と一緒に食べたらどうですか」

「い、一緒に⁉ 俺と先輩が、一緒に⁉」


 と、そんなことを考えていたら相坂さんからとんでもない言葉が出てきた。

 一緒、だと……。


「挨拶するだけなんじゃあ……?」

「せっかくの機会です。作りすぎたので一緒に食べませんか、くらい言えば十分でしょう」


 十分でしょう、じゃないよ。簡単に言わないでほしい簡単に。


「ほら、善は急げです。早速行きましょう。突撃、隣の晩御飯です」

「お昼ご飯だしそういう番組じゃないでしょうがぁぁぁああ‼」


 あと、相坂さんはどうやら少し古めのテレビっ子らしい。





 ――――――――――――――――――――






 俺が嘉瀬先輩の部屋の前に立つ。

 相坂さんは俺のいた部屋の扉を開けて、そこから顔を少し出してこちらの様子をうかがっている。


 ――よし、配置OK。あとは、俺がインターホンを押すだけだ。


 押す、だけ。押す、だけ。オス、ダケ。


「――早く押さないと、ハリセンですよ」

「最悪の脅迫だ…………」


 それでもこればかりは勇気のない俺を叱咤してくれているのだと分かった。

 というか、そういう解釈にした。


「ふう」


 深呼吸をする。

 胸のあたりで固まっていた緊張が、空気と混ざり合って希釈された気分になる。


「よし、いくか」


 知らない人に会いに行くわけじゃないし、あとはなるようになるだけだ!


 ピンポーン。


 ――な、鳴っちゃった‼


「……頼むから、そんな小学生みたいな反応しないでくださいね」


 や、やかましいわい‼


 そして相坂さんは顔を引っ込めてしまう。

 彼女は嘉瀬先輩に顔を見られるわけにはいかないからだ。


 途端に、孤独感が押し寄せてくる。

 もう一回深呼吸、深呼吸、深呼吸。


 ガチャッ、と音がした。


 そして現れた。


「もしもし……どなたですか?」


 それはもう絶世の美少女であり、傾国の美少女だった。


 長髪の黒髪がたなびく、姿かたちが完全無欠の美少女。


 桜色の唇に、春も彼女を歓迎しているらしい。


「あっ」


 春風がなびくその一幕に、嘉瀬真理は存在していた。

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