路面電車

紫鳥コウ

路面電車

 一匹の蝶が路面電車の天井にはりついている。


 はねがゆれるのは、その蝶がそうしたいからではない。


 びた鉄格子てつごうしの奥にひそんでいる、半透明の羽根も止まっている。


 開け放たれた窓から桜の花びらを乗せて流れていく、春の吐息のような風が、まどろんでいる蝶の翅を、こそばゆくゆらしているのだ。


 うららかな陽に明るく照りかえされた、桜並木。


 路面電車は、うっとりと、ゆっくり、ゆっくり、桜並木を抜けていく。


 ほほをうっすらと染めた少女。陽のひかりをうるさそうに、ぎゅっと目を閉じて、がたん、がたんという音とともに、力なく揺れている。


 その小さなてのひらは、母の手を、しずかに結びなおした。


 乗客は、ほかにだれもいない。


 桜の花びらが、また、いろづいた風の香りに乗って運ばれてくる。


 蝶の心をわずらわすものはなにもない。まどろみの向こうに誘われていく。夢へとみちびかれていく。甘くかぐわしい眠り。


 少女もまた、母の手のぬくもりに、こころをなでられて、そのこそばゆさにあまえていた。その母もまた、春のこもりうたをきいて……。


 路面電車は、春のひかりのたもと。


 桜並木を、向こうに、向こうに、消えていく。

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