二章 1-2
カルネロは顔色を変えてツェリの背後に視線を滑らせた。つられて顧みれば、赤毛の少年が廊下を歩いてくるところだった。
(昨日の人……たしか、ライって呼ばれてた)
見覚えのある姿にツェリは思わず眉を寄せ、露骨すぎただろうかと慌てて表情を戻した。しかし、また手打ちだのなんだのと大袈裟に言われるのは御免なので、いつでも逃げられるようにそっと重心を移す。
「ライヴィス……」
歯の隙間から絞り出すように呻くカルネロには返事をせず、ライはため息混じりに言いながら近付いてくる。
「まったく、やーっと見つけたよ、アルト。ソールがおまえ連れてこいって煩くてさ」
アルテアは迷惑そうに顔を顰めた。
「おれ、今日は本読みたいんだけど」
「今日も、だろ」
「魔術ならライも使えるじゃないか。おれじゃなくたって」
「俺よりアルトのほうが上手いからだろ。ま、諦めろ」
ライが極めて軽く言うと、アルテアは本を抱え直して深いため息をついた。舌打ちでも聞こえてきそうな顔でカルネロが口を挟む。
「その平民を捜していたのならもう済んだだろう。それを連れてどこへなりとも行ってしまえ、ライヴィス」
ライはカルネロを無視し、笑いながらツェリに顔を向ける。
「姫はこちらで何を?」
軽い調子で話を振られて、戸惑いつつもツェリは事実をそのまま告げた。
「待ち合わせなの」
「セラと?」
言い当てられたので、仕方なく首肯する。するとライも心得顔で頷いた。
「なるほど。それなら俺たちと一緒にいらっしゃいませんか? 暇潰しにはなるでしょう」
「でも……、図書館棟でって約束したから」
「おい、ライヴィス。今、姫は俺と話しているんだ」
カルネロが言うが、やはりライは見向きもしない。間に挟まれる形になってしまったツェリは、二人を交互に見た。
ライは大袈裟なくらいの笑顔で言う。
「図書館棟からは出ませんよ」
カルネロとライ、どちらも断るという選択肢もあるが、それを選べるような空気ではなくなっている。ツェリは胸中で二人を天秤にかけ、カルネロよりはましかもしれないとライの方を選んだ。
「……なら、行っても?」
「大歓迎です。―――なんならおまえらもどうだ? お茶くらい出してやるぞ、カルネロ」
一転、
ライとのやり取りで多少落ち着いたが、まだ怒りが収まらないツェリは一言言ってやろうと口を開いた。しかし言葉を発する前にライに軽く肩を叩かれ、見上げると彼は片目を
「セラに振られて、次は何も知らない
そっぽを向いていたカルネロは、顔を強張らせると射殺せそうな目でライを睨んだ。その形相にツェリは背筋を寒くしたが、ライは意に介したふうでもなくアルテアとツェリを促して歩き出す。
カルネロたちの姿が遠くなってから、アルテアがぼそりと呟いた。
「気っ障。下手に煽るとますます恨まれるよ。カルネロが根に持つの知ってるでしょ」
「ああ、もうこれ以上ないくらいな。ま、あいつにどう思われたって、俺は別に痛くも痒くもない。むしろ次にどうくるか楽しみだね」
先ほど、文句を言おうとしたツェリをライが止めたことを言っているのだと気付き、ツェリはライを見上げて首をかしげた。
「だから止めたの?」
ライは僅かに目を見張ると、片頬だけで笑う。
「姫が無用な恨みを買うことはありませんよ」
「恨みって……酷いことを言ったのはあの人の方よ。人のことを『貴様ごとき』だの『それ』だの、人格を疑うわ」
カルネロがアルテアに対して放った暴言を思い出し、また腹が立ってきたツェリは急いでそれらを頭から追い出した。一体どういう思考からああいう言葉が出て来るのか、理解に苦しむ。やはり一度ひっぱたいてやれば良かっただろうかと思っていると、ライは苦笑して片手を閃かせた。
「逆恨みするのがあいつの特技なんです。段差に
「それにしたって、わたしが勝手に怒ったんだから、あなたが肩代わりすることないじゃない」
「カルネロは本当にしつこいんですって。一回『敵』と認定されるともう、くどくどねちねち煩い煩い。そんな昔のこと覚えてんのかよってことまで持ち出してくるんですよ」
「それじゃあ尚更……」
「俺はあいつに百回殺しても飽き足らないくらい嫌われてるんで。憎まれてるかもな。俺の葬式には絶対あいつからティエラの花と祝辞が届きますよ。ま、あいつより先に死ぬつもりはないですけど。だから多少乗っかったって変わらないんです。むしろ、姫の盾となることができて光栄に存じます」
芝居がかった仕草と口調で付け加えられ、ツェリは小さく息をついた。
「そういう言いかたはやめて。敬語も要らない」
ライは束の間、興味深そうにツェリを見て、すぐに胸に片手を当てて
「仰せのままに。……昨日はごめんな」
顔を上げたライに不意に砕けた口調で、しかし本当に申し訳なさそうに言われて、ツェリは目を瞬いた。それだけのことなのになんだか嬉しくなってしまい、笑いながらかぶりを振る。
「ううん、気にしないで。わたしも意地悪を言ったもの」
「俺の仕打ちを考えればあれくらいは当然。手打ちにされても文句は言えないよ」
「あれくらいで手打ち? 大袈裟ね」
冗談だと思って首を竦めて返せば、ライは意外そうに眉を上げてから小さく笑んだ。
「優しいんだな、ありがとう」
「ええ? そんなことないわよ」
「謙遜しなくていいって。―――ああ、そっちだ」
ライは階段を指差した。向かう場所は二階にあるらしい。階段を上りながら、ツェリは耳慣れない言葉を尋ねる。
「ねえ、さっき言ってたティエラの花って? このあたりにしか生えないのかしら。初めて聞く名前」
これにはアルテアが答えてくれた。
「年に二度、春と秋に花を咲かせる多年草。球根は食用になる。白、薄紅、紫などの色があり、慶事によく用いられる。年間を通して気温の低い、標高の高いところで育つ」
図鑑の内容を暗唱するように語ったアルテアは、一度口を噤んでツェリに向かって頭を下げる。
「アールヴレズルの王妹殿下とは存じ上げず、失礼を申し上げました」
改めて告げられたことに、ツェリは小さく息をついた。
「あたなもやっぱりそう言うのね。昨日は読書の邪魔をしたわたしが悪いのよ。そりゃ、スープの出汁はびっくりしたけど」
「お言葉ですが……」
「敬語もやめて。わたしはツェリなの、アールヴレズル国王の妹じゃないの。……いえ、妹だけれど、そういうのは忘れて欲しいの。公の場では仕方がないけど、ここには誰も咎める人なんていないわ」
アルテアは複雑そうな顔で言う。
「……ご存じかも知れませんが、私は平民です」
「ええ、さっきカルネロって人が特待生だって言ってたわね。じゃあ、凄く勉強ができるのね。いいなあ、わたしあんまり座学は得意じゃないの」
「いえ、あの勉強はともかく……平民で」
「うん」
それはたった今聞いたと、ツェリは頷いた。アルテアはますます複雑そうな、混迷を極めているような表情になった。
「……平民なんですけど」
「うん? それがどうかした?」
「いや……」
アルテアはしばし無言でツェリを見ていたが、やがて唇が笑みを刷いた。低く呟く。
「なるほど、ライの首が今も繋がってるわけだ」
「おかげさまでね、目玉スープの人」
「……おまえ、どっから聞いてたんだよ」
「ふふふ。主役が登場するには間が重要だ」
「バカじゃない?」
「な、バカって言う方がバカなんだぞ、バカ」
「証明できて良かったな、バカ」
ライとアルテアの子供のようなやり取りを聞いて、笑っていいものかどうか迷いながらツェリは二人に改めて名乗る。
「もう知ってると思うけど、わたしはツァウラメラ・バルトヘルム。ツェリって呼んで。あなたは?」
「おれはアルテア・ネーエルン。アルトでいいよ」
「わかったわ、アルト。これからよろしくね」
ツェリが言うと、アルトはやはり複雑そうな表情ながらも頷いてくれた。
「俺はライヴィス・サング・スクリトゥーラ。ライでいいから」
「ええ。ライもよろしくね」
安心したように目元を和ませたライは、自らの髪を一房引っ張った。
「そういえばツェリ、髪型変えたんだな」
「え? ああ……これはセラがやってくれたの」
昨日、ライと顔を合わせたのはほんの数十分だったはずだが、よく見ていると、ツェリは驚いた。
今朝、セラは起床の鐘の三十分前―――午前七時にツェリを叩き起こした。半分寝ぼけていたのでツェリはよく覚えていないのだが、気がつくときちんと制服に着替え、髪は綺麗に整えられて、左側の一房は編まれて赤いリボンが結ばれていた。葡萄酒のような深い色合いのリボンはセラの私物だという。着飾るのは公の場に出るときだけで、日常的にリボンなど結んだことのないツェリは遠慮したが、セラに押し切られてしまった。
「なるほど、セラの仕業か。可愛いよ」
「可愛いリボンよね。生地も素敵」
「いや、リボンも可愛いけどツェリが可愛い」
「……え?」
聞き間違いかとツェリはライを見上げた。彼は重ねて言う。
「ツェリに似合うよ、そのリボン」
どうやら耳の異常ではなかったらしく、ツェリは顔に血を上らせた。慌てて片手を振る。
「い、いいわよ、気を遣わないで」
「女の子を褒めて気を遣うなって言われたのは初めてだな。本当に可愛いって。なあ」
同意を求められたアルトが頷く。
「うん、似合うと思う。でも、ライは本っ当に気障だと思う」
「おまえな、女の子が可愛くなってたら可愛いって言うのは当然だろ。言わないのはむしろ失礼だろ」
「だから、そういうのを臆面もなく口に出すあたりがね」
「あ、ありがとう……」
ぼそぼそと呟いてツェリは俯いた。身内以外に容姿を褒められた経験はあまりないので、どんな顔をしていいかわからない。二人の視線を感じ、あまり見ないで欲しいと思いながら、ツェリは床を見つめて歩くことに集中した。―――だから、気付かなかった。
「きゃっ!?」
再び頭から誰かにぶつかってツェリは
「ご、ごめんなさ……あれ?」
「ソール? 何やってんだ」
ツェリの頭上から覗き込んだライの言う通り、廊下の角に立っていたのは黒髪の少年―――ソールだった。
「遅かったから」
「おまえな……だったら最初から自分で迎えに行けっての」
膨れるライには応えず、ソールはアルトを指先で招く。
「行くよ、目玉スープの人」
「ソールもどこから聞いてたわけ? 二つの意味で」
顔を顰め、しかし諦めた様子でアルトはソールについていった。それを見送り、ライが大きなため息をつく。
「ったく、自分中心って言うか周りを見ないって言うか。俺たちはともかく、ツェリには挨拶くらいしろっての。なあ?」
「わたしのことはいいんだけど……わたしたち、そんなに大きな声で喋っていたかしら」
廊下を歩いてきたライはともかく、ソールはおそらくずっと二階にいたはずだ。階段の中央は吹き抜けになっているとはいえ、二階の廊下まで聞こえていたのかと思うと、今更ながらに少々恥ずかしくなる。
首を捻りながら、ライはツェリを促して歩き出す。
「どうだかなあ。ソールの奴は神出鬼没だからな。いなくなったと思ったら、全然予想もしない場所から出て来るからな。案外近くにいたのかもよ」
「そうなの? 抜け道とかあんまり知られてない道とか、たくさん知ってるのね」
「…………」
ライはしばし無言でツェリを見ていたが、やがておもむろに手を挙げるとツェリの頭を軽く撫でた。
「な、何?」
「……あ、ごめん、思わず。ツェリは素直ないい子だなあ」
「何よそれ。どういう意味?」
「可愛いってことさ」
臆面もなく言われて、ツェリは目も口もぽかんと開いた。それから、慌てて首を左右に振る。
「な、なんなのさっきから」
「そういうところも可愛い」
「もう。からかっているのね」
「からかってなんかいないさ。俺は自分に正直なだけ」
やはり正面から言われて、ツェリは黙り込んだ。下手なことを返しては、ますますおかしなことを言われそうだ。
(お世辞もいい加減にしてほしいわ)
おそらく赤くなっているであろう顔を悟られないように、ツェリは俯き加減に足を速めた。
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