一章 3

 3


(父様、母様、行って参ります)

 胸中で呟き、ツェリは目を開けた。王家の陵墓を見上げる。

 母は五年前、父は三年前に亡くなった。ツェリは遅くに生まれた末っ子なので、短い間しか共に過ごすことはできなかったが、思い出はどれも温かいものばかりだ。

「……っ、こん、けほんっ……」

 背後から押し殺した咳が聞こえて、ツェリは振り返る。少し離れた場所で、マリリアーナが身体を折るようにして咳き込んでいた。彼女の咳は前よりも酷くなっている気がする。

「お待たせ、マリナ。ごめんなさい、遅くなっちゃって」

「いいえ……っく、けほっ、申し訳……っ」

「無理に喋らないで。大丈夫?」

 ツェリが背中をさすってやると、マリリアーナは更に何度か咳をして、ようやく落ち着いたようだった。

「申し訳ありません。もう大丈夫です」

「そう? それじゃあ、戻りましょうか」

 王家の陵墓は王城の敷地内、ツェリの足で十五分ほどかかる北端に存在する。周囲には木々や草が茂り、小さな森のようになっていて、暑い季節でも木陰が涼しくて気持ちがいい。歴史だけは古く、繁栄していたころの遺産で、王城の敷地は異様に広い。離宮の維持費もばかにならないとレシエンツァが頭を抱えていた。

(やっぱり、一人でくればよかった)

 墓参りをするだけなのだから、一人で大丈夫だと言ったのだが、マリリアーナはがんとして聞き入れなかった。しかし、無理をして具合を悪くするくらいなら、命令をしてでも置いてくるべきだった。

(マリナの身体のことを考えたら、今回の留学はよかったのかも……)

 迷いに迷った末、ツェリは留学することを選んだ。明日、アールヴレズルを発つ。

 ツェリは、アサーティ教の敬虔けいけんな信者ではない。特に勉強が好きなわけでもない。けれど、想像してみた時、日々神に祈りを捧げている自分よりも、勉学に励んでいる自分の方が、少しだけ思い描き易かった。

 留学先のシーグルム王立学園は、生徒が帯同できるのは護衛官が一人だけと決まっているのだという。留学生でも例外はないらしく、ツェリには若い女性将校が同行してくれることになった。

 そしてツェリのいない間、マリリアーナはようやく休養することを承服してくれた。この機会にちゃんと休んで、身体を治してほしいと思う。

「あの……ツェリ様」

「なあに?」

「やはり、わたくしがご一緒するわけには参りませんでしょうか……」

「ええ?」

 驚いて足を止めたツェリは、マリリアーナを振り返った。侍女は至極真剣な顔をしている。

「わたくしは武官ではありませんが、きっとツェリ様をお守りいたします。この身に代えましても」

「うん……気持ちは嬉しいんだけど。わたしはマリナの命と引き換えに守ってもらったら、凄く後悔するし、わたし自身を許せないと思う」

 マリリアーナははっと目を見開いた。ツェリは苦笑しながら続ける。

「そりゃ、マリナがついてきてくれたら心強いわ。でも、護衛を一人しか連れてきちゃ駄目っていうなら仕方ないわよ。一緒に行っても追い返されちゃうかもしれないし。マリナはちゃんと休んで、身体を治すことに専念して」

 視線を落としたマリリアーナは、束の間の無言の後、小さく頷いた。

「……はい。お心遣い、ありがとう存じます」

「お礼を言われることじゃないわ。本当は、もっと早く休んでもらえたらよかったんだけど」

「いいえ、それは」

「うん。だから、いい機会だと思ってるの。年末のお休みには帰ってくるから、そのときに元気に会いましょ。約束。ね?」

「はい。お約束いたします」

「うん」

 強引に約束を取り付け、ツェリは歩き出した。しずしずとついてくるマリリアーナが言う。

「あちらで、素敵な婿がねが見つかるといいですね」

 冗談半分で言った話題を蒸し返され、ツェリは眼を瞬いた。最初に婿がねのことを口にした三の兄も、殆ど冗談のつもりだっただろう。ツェリとて、留学先で本気で婿を探す気はない。

「どうかしら……学校は勉強するところでしょう」

「わかりませんよ、わたくしの一の姉は王都の学校で知り合ったお相手と結婚しました」

「そうなの?」

 マリリアーナに姉が二人いることと、王立学校に通っていたことは聞いていたが、結婚相手の話は初耳だ。学問はすべて家庭教師がついていたツェリは、学校に通った経験がないので、上手く想像できない。

「一緒に貧乏国を立て直してくれる人か、わたしの持参金を一切期待しない人がいればいいんだけど……あら、噂をすれば」

 離宮の方から歩いてくる一団を目にしてツェリは呟いた。護衛と侍従を引き連れて王城へ向かっているのは、マリリアーナの義兄―――長姉と学校で出会い結婚したという―――、ノーフォード伯爵子息フェヴリスだ。

 向こうもツェリたちに気付いたらしく、足を止めて一礼する。

「ツァウラメラ殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「こんにちは。お久しぶりですね、フェヴリスさん」

「お元気そうで何よりです。……ツァウラメラ殿下とマリリアーナだけですか?」

「え? ええ、そうです」

 何を今更、というのを言外に含ませてツェリが答えれば、フェヴリスは表情を曇らせた。

「王城内とはいえ、供が侍女一人というのは、いささか……」

「あら、マリナはわたしには勿体ないくらい有能な侍女ですよ。ご存じでしょう」

 フェヴリスは何か言いたげに唇を動かしたが、ただ頭を下げた。

「出過ぎたことを申しました。―――ただいま到着したところにて、後程、改めてご挨拶に上がります。御前失礼を」

 一方的に打ち切り、フェヴリスは早足に去って行ってしまった。それを見送っていると、マリリアーナが申し訳なさそうに口を開いた。

「……義兄あにが失礼を申し上げました」

「そんなことないわよ。この間、アジュガ卿にも気をつけろって言われたのよね。最近物騒だからって」

 気にするなと手を振り、ツェリも歩き出す。今日はもう特に予定はないが、出立の前日にあまりふらついていると叱られそうだ。

(ノーフォード領って東側よね……)

 フェヴリスの父、ノーフォード伯の領地は東の辺境にあり、ヴィレスト国と接している。国土を俯瞰すると、王都はやや西寄りに位置するので、狭い国とはいえ登城するのは大変だろう。この時期にフェヴリスが王城にやってきたのが偶然だとは考え難い。

(ヴィレストと何かあったのかしら。それで報告にきたとか、シーエ兄様に呼ばれたとか……あとは、縁談に動きがあったとか)

 リーシャとツェリの縁談については、最初に聞かされたこと以上の話はない。ツェリの留学の他は、リーシャがユーフォリアと共に静養に行ったくらいだ。先日、無事に静養先へ到着したと連絡があったので、ひとまず安心だ。

 リツェルトとシュツィルがまだ城に留まっており、三人で何やらこそこそと動いているようだが、ツェリには教えてくれない。気遣われているのはわかっている。しかし、当事者なのに蚊帳の外に置かれているようで釈然としないものがある。

(あとで、兄様たちに時間があったら、もう一回訊いてみようかしら……明日出発だし、何か教えてくれるかも)



     *     *     *



 レシエンツァは書類をめくりながら息をついた。

 ユーフォリアとリーシャの静養は、国内のことゆえに迅速に進んだ。十日ほど前にはユーフォリアの生家であるディニシア家の別荘へ向かい、一昨日、無事に到着したと知らせがあった。とりあえず一月ほど滞在する予定である。小さな湖の中央にある小島に建てられた古城なので、警備上の問題も少ない。

 リーシャは思いがけず母を独り占めできるとあって、静養に行くことをとても喜びはしゃいでいた。ユーフォリアも嬉しそうだったので、心穏やかに過ごして、少しでも体調が安定すればと思う。

 明日にはツェリがシーグルム国へ向かって発つ。ツェリが向こうへ着くまで気が抜けないが、ようやく一段落といったところだ。

(次は、二国とのやり取りか……)

 リーシャが病を得たことと―――無論、本人はとても元気なのだが―――、ツェリが留学することは、相手方に伝えてある。今のところヴィレスト国とフルーフ国、どちらも沈黙を守っているようだが、今日登城したフェヴリスの話によると、ヴィレスト国は、なぜか西の国境―――フルーフ側でなく、アールヴレズル側に兵を集めているらしい。前例のないことなので、ノーフォード伯も慌てて息子を寄越したのだろう。

 詳しい話を聞くのは明日になるだろうが、話を聞いたとしても、現時点でレシエンツァにできることは殆どない。の国が何をしたいのか、目的が分からないうちは動けないし、演習だとでも言われてしまえば手出しはできない。

(まさか、フルーフじゃなくうちに攻め入ってくるわけじゃなかろうな? 意味がわからん。フルーフに背後を突かれるからそれはないと思うが)

 考えられるのは、リーシャの病が嘘だと踏んで、圧力をかけにきたことだ。睨まれたところでアールヴレズルとしては痛くも痒くもないのだが、万が一攻め込んできた場合に戦場になるノーフォードは気が気ではないだろう。

「恐れながら、陛下」

 遠慮がちに声をかけられてレシエンツァは顔を上げた。机を挟んで正面に、首席秘書官のヴェルクが立っている。

 既に今日の公務は終わり、執務室にはレシエンツァとヴェルクしかいない。いつもならば、あまり遅くまで仕事をしているとユーフォリアに叱られるのだが、今は不在だ。

「なんだい、ヴェルク」

「そろそろお休みになられてはいかがでしょうか」

「今何時だ?」

「十時を回りました」

「もうそんな時間か」

 レシエンツァは書類から手を放し、大きく伸びをした。

「休むのが遅くなりますと、明日にさわります。睡眠不足を解消するのは大変ですよ」

「……おまえ、言うことがユーファみたいになってきたな」

「畏れ多いことでございます。―――ユーフォリア様には、陛下がご無理をなさるようなら、ご報告申し上げるようにと『鳥』をたまわりました」

 ヴェルクの言葉を聞いてレシエンツァは天井を仰ぐ。

「わざわざ『鳥』を用意するなど、私はよほど信用がないのだな……」

 通常、特定の場所へ急いで連絡を取りたいときに使うのは鳩だ。しかし、鳩ではなく「鳥」と呼ぶときは、クーリエ鳥のことを指す。

 帰巣本能を利用する鳩と違い、クーリエ鳥は場所ではなく人間を覚える。どういう仕組みなのかは解明されていないが、一度覚えた相手は、どこにいようと迷わず帰っていく。二人まで記憶できるので、一回ごとに移送しなければいけない鳩と違い、一羽でやりとりが可能である。

 とても便利な反面、繁殖が難しいので恐ろしく高価だ。アールヴレズル国として所有しているのは四羽だけで、王家の人間と言えども個人で自由には使えないので、ユーフォリアは生家の「鳥」を借りたのだろう。

「こと、ご公務に置かれましては、陛下はしばしば、ご寝食をお忘れになりますゆえ。何よりも陛下の御身おんみが大切だというのは、我々アールヴレズルの民すべてに共通する思いでございます」

「そんなわけあるか。ヴェルクはいちいち物言いが大袈裟なんだよ。―――だが、まあ、今日はやめにしよう。明日早くにツェリの見送りがあることだしな」

 何事もなければ、妹とは五箇月ほど離れ離れになる。シュツィルとリツェルトには、あまり領地を空けては困るだろうと帰るよう促したのだが、二人ともツェリを見送りたいと未だに王城に留まっている。

(これだからツェリに、兄様たちは過保護だと言われるのだな)

 兄弟だけではなく、今は亡き両親も十分過保護だった。末姫にしてみれば、親が五人いるようなものだっただろう。

「ヴェルクこそ休んだらどうだ。私に付き合わなくてもいいんだぞ」

「……お言葉ですが」

 ヴェルクの目が僅かに細められ、あ、しまった、とレシエンツァは思った。青年秘書官は口元に薄く笑みを張り付けているが、目の奥は笑っていない。

「卑しくもアールヴレズル国王秘書官として、私の責務は」

「わかった悪かった。休む。休むから勘弁してくれ」

 まだ何か言いたそうにしていたが、ヴェルクは口を閉じて一つ息をついた。

御寝ぎょしんの支度は済んでおります。片付けは私が」

「片付けくらい自分でするよ。私の秘書官殿は心配症だな」

「私が心配症なのではなく、あなたが奔放すぎるのですよ、我が君」

 冗談半分で口にしたことに、珍しく軽口めいた言葉が返ってきて、レシエンツァは広げた書類をまとめながら小さく笑んだ。

「そういうことにしておくよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る