3月9日

 朝。

 学年末試験の結果が出た。成績がずっと下降傾向にあった俺は、今回とうとう学年一位という結果を出すことが出来た。

 スクールバスを降り、アーチ型の校門を潜って登校する。

 この時間に登校している人間は少ない。

 部活に入っている者はもっと早い時間に朝練があって来ているし、それ以外の者からすれば始業まで時間があり過ぎる。試験の前ならば自習するために学校に早く来るなんて者も多いが、今は学年末を終えたばかり、受験生が焦る時期も過ぎている。

 そんな時間に何故俺が登校しているかと言えば、それはただ単にスクールバスの混雑時を避けたというだけの話ではあるが、何よりも癖になってしまっているというのが本当のところだった。

 七不思議に時間を割き、学業と両立するために一日の時間を効率的に使おうとする癖。

 だから、例え前日に寝る時間が遅くても、睡眠時間が殆ど無かったとしても、藍色の本を手にしてからずっとこの時間に登校していた。

 受験の合格発表やクラス割りが貼り出される掲示板の横を抜け、昇降口へと入る。

 昇降口にも登校する生徒の姿はない。

 来年も使う靴箱を開く。

 全てはここから始まった。

 開いた靴箱には、何も入っていない。

 俺は繭から教わった通りに、『その壱』の話に二重線を引き、消して書き直した。

 『記録者の選別』。その要因となっている話を書けたのは本当に偶然でしかなかった。たまたま知っている人の話だったからだ。

 けれど悲しいことに、書き直したものにはしっかりと『済』の印が付いていた。

 この話のどの部分が重要な語句であったかは解らず仕舞いだった。

 もしかしたら、過去の『記録者』である杉浦が書けなかった最後の一つは、『その漆』ではなく、この『その壱』ではないかと、書いてから思った。

 これは、俺でなければ決して書けない話だった。


「お!心じゃん!」


 特別なものが紛れ込んでいない靴箱を見つめてから、上履きを取出し履き替えていると、背後から声をかけられた。

 龍臣だった。


「もう部活終わったのか?」


「おぅ!今週末練習試合なんだよ。それで今日は早めに終わったんだ」


 ジャージ姿のまま此方へと駆けよって来ると、龍臣も上履きへと履き替える。


「寒くないのか?早く終わったんなら、シャワー浴びて着替えてくれば良かったのに」


「それがさ、他の運動部も週末試合ってとこ多いらしくて、バスケ部以外も早く終わってる部が多くてさー。混んでんだよー。まぁ、今日は大して動いてないから、教室で着替えればいいかなーって……」


 話しながら、自然と二人で並んでエレベータホールへと向かう。

 龍臣の話ではもう練習を切り上げているところも多いということだったが、まだエレベータを待っている人間もいない。

 丁度良いタイミングだったのかもしれない。


「今日は折角短縮授業だっていうのにさー、うちの監督「来年度は優勝だ」とか言っててはりきってんだよ。他の部活は試合前ってことで放課後休養日とかってのも多いっつーのに」


 龍臣の所属するバスケ部は、ウインターカップもいいところまでいった。

 来年度は二年。更に期待され、練習も厳しくなるだろう。


「まぁ、いいじゃねぇか。一年からスタメンで試合に出てんだし。三年間補欠って奴もいるんだから、恵まれてるって」


「……まぁ、それはそうだけどさー」


 運動部でもない俺にそんなことを言われるとは思っていなかったのか、龍臣は虚を突かれたような顔をした。

 エレベータは途中で止まることなく、教室のある階へと到着する。

 龍臣の言う通り、廊下には早めに朝練を終えた運動部の人間がちらほらと見られた。


「あ、大島。和希。丁度良かった」


 適当に知った顔に挨拶を投げ掛けながら教室に入ると、今度は前方から名前を呼ばれる。

 本来クラスが違う筈のその人物は、今は使うもののいない席に座り、友人と話していたらしく、俺と龍臣の姿を見付けると嬉しそうにこちらにやって来た。

 机が並ぶその間は、彼の大きな体には窮屈そうだった。


「お、佐川じゃん。珍しいなD組に来てるの」


「お前達に話したいことがあったから来るかと思って待ってたんだよ…………なぁ、今日の放課後って空いてるか?」


「バスケ部は今日も練習あんだよー」


「そうか、じゃあ仕方ねぇな。和希は?」


「悪い、俺も今日はちょっと約束があって空いてない。今日何かあるのか?」


「いや、今日じゃなきゃいけないってわけじゃないんだけどよ…………高知の墓参りに行こうと思っててさ、良かったら一緒にと思ったんだ」


 佐川は、先程まで座っていた生前高知が使用していた席を見つめてそう言った。


「高知もさ、本当だったら二年に上がってたんだよな……あいつ、俺なんかより強かったし、全国でも充分通用する選手になってたんだろうな……」


 ほんの一瞬、やるせない表情を見せた佐川は、すぐにサッパリとした表情へと切り替えた。

 友人の死という事実は、決して簡単に割り切れるものではない。傷は残る。

 それでも、それを言い訳にして前へ進まないのはただの逃げでしかない。


「なんか……ごめんな」


「いや、俺も突然言いだしたんだし、気にするこたぁねぇよ。でもさ、機を見てお前達も墓参りしてやってくれよ。そんなに遠くじゃねぇから」


 どうやら佐川は折をみては高知の墓へと足を運んでいるらしかった。


「あぁ……場所教えてくれるか?近いうち必ず行くからさ」


 俺や龍臣は、クラスの中でとりわけ高知と仲が良かったわけじゃない。

 だが、七不思議によって記憶が消された今となっても、俺達三人の中では死んでしまった高知に対しての想いみたいなものが確かに残っていた。


「そんじゃあ、俺そろそろ戻るわ」


 高知の墓がある詳細な場所を伝え終えると、佐川はそのままD組を出ていく。

 ふと、俺は彼に伝えておきたいことがあることを思い出し、二部屋先へ向かう大きな背中に声をかけた。


「なぁ、佐川?柔道部、この間の大会、全国まで行ったんだってな」


「あ?……おぅ」


 たった今部屋を出ていったはずなのに、俺とは歩幅が違うのか佐川とは五メートルくらいの距離が空いていた。

 廊下には、俺達だけではなく雑談を交わす生徒が数名いて、多少大きな声で話したところで誰も気にしているような様子はない。

 エレベータホールや階段からは教室へと向かう生徒の姿が見え始めている。

 話し声が耳に届く中に、「七不思議」と言うキーワードは聞こえてはこなかった。


「俺の知り合いにさ、格闘技やってる奴がいるんだけど……前にお前が闘ってるとこ見て「強い」って褒めてたよ…………だからさ、頑張れよな!」


 それは今しか伝えられないことだった。

 俺は武道なんて体育の授業でやったくらいだし、柔道部の試合を見に行ったことも無いのだけれど、学校を護っている英雄が「佐川は強かった」と言っていたのだ。

 単純に柔道の技術は佐川よりも高知のほうが上だったのかもしれないけれど、だからって佐川が「俺なんか」なんて自分を卑下する必要はないのだ。

 何十年にもわたって闘い続けてきた俺の名も無き友人が認めた奴なのだから……


「なんだよそれ…………よく解んねぇけど、ありがとな。その知り合いにも次は優勝するって言っといてくれよ!」


 佐川はくしゃりと顔を崩して笑って、力強くそう言うと、先程よりも幾分か胸を張って歩き始めた。

 咄嗟だったから訳の判らない言葉になってしまったが、伝えたかったことは伝わったようなので良しとする。

 踵を返すと、慌てて佐川を追いかけて行った俺が気になったのか、几帳面にも龍臣は戸口のところで待っていた。


「……心?お前、格闘技やってる知り合いなんていんの?」


「あぁ……いた」


 訊かれ、俺は敢えて「いた」と過去形で答えた。

 きっともう会うことはないだろう……





 日頃六時間授業をみっちりやっていると、四時間の短縮授業は非常にあっけなく感じられた。

 授業内容も学年末後の学年が上がる前ということもあって、今年度の残りを終わらせるというわけでもなく、来年度の予習というわけでもなくて、実に中途半端なものだった。


「心~。昼飯付き合わね?」


 帰り支度をしていると、この後も部活だという龍臣が寄ってくる。


「……別に構わねぇけど、部のやつらと行くんじゃないのか?」


「あー、その予定だったんだけど……なんか皆弁当持ってきてるらしくてさー。短縮授業だから学食もやってねぇし……牛丼屋でも行こうかなって」


「龍臣の奢りならいいよ」


 俺もこの後、人に会いに行く予定があった。なんでも従兄弟の知り合いにお祓い事で評判な神社の知り合いがいるという話を聞き、七不思議の全てを片付ける前に一度会いに行ってみようと約束を取り付けていた。

 昼食は行きがけに適当に済ませようと思っていたので、龍臣の申し出は本当は都合が良かったのだが、そう言った。

 学食以外で二人で食事なんて、夏休みのファーストフード以来だ。あの時は宿題を渡してシェイクしか奢ってもらわなかった。

 友人なんだから、たまには遠慮せずに甘えてみようかと思った。


「りょーかい!」


 龍臣は、俺がらしくないことを言ったことに笑って、そう言った。

 教室を出、二人で歩き出す。

 朝とは逆に、廊下やエレベータホールは帰る生徒で溢れかえっている。

 混雑を避け、階段へと向かった。


「あ!大島くんと……和希くん?」


 階段を上から下りてきたその人は、昇降口へと下ろうとしている多くの生徒の中から目敏く俺達を見付けた。


「あ、古谷先輩……」


 彼女の姿を見るのは俺からするとかなり久しぶりのことだった。

 直接話したのはたった一度きり。

 けれど彼女はかろうじて俺の名前を覚えていてくれたようだ。


「美織知らない?」


「いや、見てないっスね……水泳部は午後からミーティングがあるって休み時間に言いに来てましたけど……」


「うん、そうなの。一回帰ってからファミレスで集まることになってるんだけど……あ、もしかして大島くん本当は美織とお昼食べる予定だった?」


 以前古谷先輩と話した時は、初対面でしかも話の内容が内容だっただけに、びくびくとした印象を受けたが、これが本来の彼女なのだろう。溌剌としていて、明け透けな、年下にも分け隔てを感じさせない雰囲気が今の彼女にはあった。


「実はそうなんスよ。アイツ何か言ってました?」


「先約があったんだけど断らなきゃって言ってたから、相手は大島くんかなーって」


 そういうことだったか……と俺は苦笑する。


 「弁当を持ってこなかった」などと言い訳していたが本当のところは彼女にドタキャンされた代替案だったということなのだろう。


「なんか、ごめんねー。今回のミーティングは三年のお疲れ様会も兼ねてって急遽決まったからさ」


「はは、別に大丈夫っスよ。それに俺には心という『心の友』が居ますんで!」


 おちゃらけて、わざとらしく俺の肩に腕を回し龍臣は言う。調子のいいヤツだ。


「龍臣……それはダジャレか?」


 だからと言って、ちっとも腹はたたないのだが、俺はわざとらしく龍臣を睨んだ。

 そのやり取りに、古谷先輩は吹き出して、「仲いいねー」なんて言って笑う。


「まだ教室にいるんじゃないスか?」


 話を本題に戻し、龍臣は携帯を取り出しつつそう言った。

 確かにここにいたるまで姿は見ていない。だが、帰り支度をしている時にはC組のホームルームも終わっているようだった。


「連絡してみましょうか?」


「いいよいいよ、後でどうせ会うんだし」


 後で会うのが決まっているんなら別に探す必要もないし、なんなら連絡をすればいいんじゃないだろうか?連絡先を知らないわけでもないだろう。


「美織、朝の練習の時ロッカーにゴーグル忘れていってさぁ、この前もあったから、ちゃんとしなさいって言っておこうかなと思って……もうすぐ先輩になるんだしね」


 俺の考えていることが伝わってしまったのか、何も言っていないのに古谷先輩はそう言った。

 年下でも接しやすい明るさと気安さがあるが、先輩としてもしっかりしているからこそ尚親しみやすく後輩からは感じられるのだろう。


「……あれ?龍臣に和希?」


 噂をすればなんとやら、背後から聞こえた声は今まで話に出ていた羽山のものだった。


「古谷先輩まで……なんで一緒にいるの?」


 珍しい組合せに、まさか自分のことを話されているとは思わないのか、呑気な調子で近付いてくる。


「なんで、じゃないよ!美織がゴーグル忘れてたから届けに来たのっ!」


「え?嘘っ!私またやった?」


「もぉ~、ちゃんとしなよね!ちゃんと手入れしないと使えなくなるよ!」


「わー、ごめんなさい!有難う先輩!」


 砕けた口調で、それでもしっかりと言うべきことを云う古谷先輩に、羽山はわざとらしく大袈裟に謝って、差し出されたケース入りのゴーグルに手を伸ばす。

 しかし、羽山の伸ばした手は、すんでのところで空をきった。


「ちゃんと反省してる?」


 コントの様な絶妙なタイミングで、古谷先輩が差し出していたゴーグルを手の届かない場所へと下げたのだ。


「してます!もう絶対しません!」


 羽山は両手を合わせ、謝罪と懇願を表現する。


「二ヶ月後からは美織が後輩に教える立場になるんだから、こういんところからちゃんとしなきゃ駄目だよ?」


「はいっ」


 全て伝えたいことを相手に伝え終えると、ゴーグルを羽山へと渡し、「じゃあ、また後でね」と言って古谷先輩は去っていった。


「なんか……恥ずかしいとこ見られちゃったね……」


「まぁ、俺達も二年になるんだから、いつまでも新入生気分じゃ駄目ってことだよな」


 感慨深げに、龍臣はそう言った。

 確かにその通りだ。

 羽山にはきちんと間違えた時に注意してくれる先輩がいるというだけで、俺達が二年になることは変わらない。

 福寿に入学して、もうすぐ一年が経つのだ。


「…………なーんか、龍臣に言われると馬鹿にされてる感じなんだよねー」


「なんでだよっ!?そもそも美織が俺との約束ブッチして、その上忘れ物してるから悪いんだろぉ?」


「確かに忘れ物は私が悪いけど……別に約束してたわけじゃないでしょ?」


「いーや、俺は言いましたー。明日昼飯付き合ってくれって。一昨日」


 入学した当初から二人は軽口を叩き合ってこそいたが、今はそれが更に辛辣というか、互いに信頼しているからこそ包み隠さず話しているようなそんな感じがした。


「…………龍臣、時間無くなるぞ?」


 放っておくと、怒っているというよりは楽しんでいるようにしか見えない完全なる痴話喧嘩がずっと続きそうなので、俺は口を挟んだ。


「あ、そうだった!……俺には心という昼飯に付き合ってくれる心強い味方がいるんだった。というわけで、美織くん、サラバダ!」


「なんかいちいちムカつく言い方だわ。ごめんね、和希。そのアホのこと頼むわ」


「はいはい」


 直ぐにじゃれあいを再開しようとする二人に、俺は適当な返事をする。

 別れ際、しっかり「夜連絡する」、「部活頑張って」などという会話をしっかり交わして、羽山はまだ何か用があるのか教室の方へと戻って行った。

 改めて、階段を下り始める。

 一年の教室は四階にある。

 学年が上がる毎に三階、二階と階数は下がる。若いほうが体力を使えということなのか、とにかく教室がある四階まで階段を上るのも後少しだ。


「いやぁ、待たせて悪かったな。心」


「別にあのくらいは構わない」


「はは、止めてくれて助かったよ。美織と話すとなんか、いっつもあーゆー感じになっちゃうんだよ。まぁ、あれはあれで楽しいんだけど……止まらなくなるっつーか、付き合う前と変わってないってゆーか……」


「惚気かよ……」


「ち、ちーがうって……」


「…………はい、牛丼にサラダと味噌汁が追加されましたー」


「なっ、なんで!?」


「痴話喧嘩を止めた謝礼と、惚気たことに対する罰則」


「う゛……解りました」


 冗談半分で言ったのだが、龍臣は俺の要求を受け入れる。「心はシビアだー」とか言っているが、それでも「だったら付き合わなくていい」とか「奢るの止める」とは言わない。


「なんか……心、変わったな」


「そうか?」


「うん、前はそんな冗談言わなかったし、中学ん時も周りに合わせてるって感じで、いつも皆から距離置いてたし、誘っても全然付き合ってくれなかったじゃん?」


 悪口とまでは言わないが、龍臣はズバズバとそんな風に俺を評す。

 でも、否定は出来ない。多分俺は際立って仲がいい友達がいるわけでもなく、適当にその場その場で誰とも話すものの、どこかで周囲に対して壁を作っていたんだと思う。それは中学の時だけの話ではなく、最近まで。自分から誰かに話しかけていくとか、自ら知り合いを増やすなんてことも率先してすることはなかった。

 そういう性格を意識的に変えようと思っていたわけではないのだが、龍臣が言うように俺が変わったのだとするならば…………


「和希くんっ!」


 三階から二階へと階段を下りたところで、弾むような声が俺の名を呼ぶ。

 本日何度目だろうか……まるで俺が藍色の本を書き上げたことを学校中が知っているかのようだ。


「和希くん、ちょっと待って!」


 こちらが足を止めても、元々少し離れたところにいたせいか、もう一度高らかに声がかけられる。この人のこんな嬉しそうな大きな声を聞くのは久しぶりだ。いや、初めてかもしれない。


「和希くん、会えて良かった。この間の学年末の結果、首位だったみたいだね」


「はい、柳瀬先輩のお陰です」


「いやいや、僕は何も……君の実力だ」


「そんな事はないです。俺ここのところちょっと色々忙しくて、勉強時間も減ってたんで、先輩にヤマはってもらってピンポイントで勉強した結果ですよ」


 今回の学年末試験では、俺は約束通り柳瀬先輩に勉強を教えてもらった。と言っても、解らないところを教えてもらうというよりは、前年度の試験内容や現在俺の学年を担当している教科担任の性格傾向から柳瀬先輩に出題範囲の予想を教えてもらうという感じだった。


「柳瀬先輩も学年一位だったじゃないですか」


「いや、僕の場合はいつもより時間があったから」


 自虐的な言葉を言って、照れ笑いをし、柳瀬先輩はそう言った。


「二年の柳瀬司さんですよね?良かったら、今度俺にも勉強教えて下さい。俺は心みたいに出来よくないっスけど」


 隣にいた龍臣が思いがけず会話に入ってくる。

 柳瀬先輩が停学処分を受けたことは龍臣も知っている。

 それは火事があったその日、龍臣も学校にいて、羽山を運ぶ救急車で一緒に病院へと運んでもらったからだった。


「君は……大島くんだったね?」


「俺のこと知ってるんスか?」


「知ってるも何も、君が呼んだ救急車に僕は乗せてもらったお陰で助かったんだって、和希くんから聞いているよ」


「いや、俺はあん時、その……動転してて……心が全部やってくれたんです」


 二人はある意味初対面と同じようなものだった。

 救急車に乗り込む際、龍臣は羽山の事で一杯一杯で俺が担いできた柳瀬先輩のことなど目にすら入っていない状態だった。

 対して、柳瀬先輩は一酸化炭素中毒で意識が無かった。

 その後も、龍臣は羽山の病室に毎日見舞いに行っていたが入院病棟も離れていて出会す様なことも無かった。


「いや、君が救急車を呼んでくれたことに違いはないよ。ちゃんと礼も言ってなくて申し訳ない。本当に感謝してる。ありがとう」


「いや、えっと……はい」


 自分から声をかけておいて、礼を言われるとは思っていなかったのか、龍臣は照れと戸惑いを隠せない様子で返事をする。

 もしかすると、龍臣が柳瀬先輩に話しかけたのはあの時自分が羽山にばかりかまけていて何も出来なかったことを気にかけていたからなのかもしれなかった。ましてや、龍臣は校内にはいたものの放送室の火事の現場は見ておらず、柳瀬先輩が停学になるという事を知った時も学校に対して云える事はなかった。


「あぁ、そうだ!和希くん、君にも礼を云おうと思って呼び止めたんだ。ありがとう、君が学校に改めて話してくれたんだろう?」


「えぇ、まぁ……」


 声を跳ね上げ柳瀬先輩は俺に対しても礼を言う。


「丁度今担任から話があったんだ。職員会議で僕の停学を撤回することになったって」


「そうですか!良かったです!」


 笑みを浮かべそう言った柳瀬先輩の言葉に俺も声を弾ませる。

 先日。試験終了後に俺は学校に柳瀬先輩が火事を起こしたわけではないと今更ながら話しにいった。

 どうして今になって話そうと思ったかというと、それは学校は七不思議のことを全て知ってるんじゃないかと疑ってしまってからというもの、どんな形でも俺が新証言でも言えば学校の対応も変わるのではないかと思ったからだった。

 だから今更、柳瀬先輩からすれば本当に遅すぎると思われてしまうかもしれなかったが、何か動かなくてはいけない気がしたのだ。

 学校に伝えたことは「柳瀬先輩は、俺が見付けた時火傷を負いながらも消火活動をしていた」という事だった。

 学校は既に停学処分を決定し、停学期間も既に過ぎている。そのため、生徒が一人何か言ったところで、判断を覆すようなことはしない可能性も高かった。

 いずれにせよ、火を点ける事も、消す事も、柳瀬先輩はしていない。どちらも悪魔の証明でしかないのだ。


「僕と君が今回の試験で成績を出したというのも、停学が覆る要因になったみたいなんだ」


「そうなんですか」


 学校からすれば成績優秀者二人が関わっているというのは、たった一人の停学を判断を誤ったと覆すより、下手に騒がれて学校の評判を下げられるリスクのほうが避けたかったということなのだろう。

 他の七不思議に対して、どうしてあの話だけが現実においても被害が発生したのか。それについては今も解らないままだった。

 今まで『記録者』が本を書き進める度に火の手があがっていたとも考えにくい。同日に起きた『その肆』のほうでは撒き散らされた酸の痕跡は俺の傘にしか遺されていなかった。『記録者』が迅速に消火活動を行ったともいうのも可能性としては薄い。

 だとしたら、今まではあの話が七不思議として該当する事が無かったか、若しくは俺が『その肆』に構っている間に、『体験者』である柳瀬先輩が何か犯してはいけないことをしてしまったのかだ。怪異と現実との境界線が希薄になってしまうような事を。


「これから校長室に行って、話をしてくるんだ。謝罪という体の口止めってところかな」


 柳瀬先輩は、皮肉混じりに口の端を上げる。

 あの一件があってから背を丸めて、どこか自分を卑下しているような節があったが、その口調や表情は知り合った当初の彼を思い出させるものだった。


「大島くん、声をかけてくれてありがとう。今度は君も一緒に勉強しよう。勿論、和希くんも」


「マジっスか?学年首位二人に教えて貰えるなら鬼に金棒っス」


 「それじゃ」と火傷の痕が残る手を軽く挙げ、柳瀬先輩は校長室がある方へと歩いていく。


「柳瀬先輩!俺放送部入ろうかと思ってます!やらなきゃいけないことが終わったら、その時また改めて話します」


「あぁ、待ってる」


 俺の言葉に柳瀬先輩は歩みを止めずに顔だけを此方に向けて笑んだ。浮かべた笑みはとても柔和で、皮肉も自嘲も混じっていなかった。

 胸の支えが取れたような思いで、俺達は再び階下を目指して歩き出す。

 二階から一階へ。

 朝、思わず立ち止まってしまった靴箱の前。もう感慨に耽ることもなく、靴を履き替える。


「龍臣、悪いんだけど、先行っててくれないか?」


「ん?どうした?」


 佐川に羽山、古谷先輩、柳瀬先輩、ここまで来るとなんとなく会うような気がしていた。


「すぐ追い付くからさ」


 相手はこちらに気付いていない。そのため、龍臣に詳しくは言わずに駆け出す。

 一台の自転車を間に挟むようにして歩く二人の女子生徒。

 駐輪場から通用門を抜けて下校する姿が、辛うじて見えた。


「有馬先輩!宮城先輩!」


 今までと違って俺から声をかける。

 少し距離があったので、気付かないで行ってしまうかもしれないと思ったが、彼女達は足を止めてくれた。

 昇降口から通用門までは大体五十メートル。門を出たところで手を振り待ってくれている二人と、先に牛丼屋へ行くよう言い置いた龍臣を少しでも待たせないために俺は一気に走り抜ける。

 勉強ばかりで体力が全然無かった俺は、この一年で少しだけ体力がついた。


「帰るところですか?」


 息切れすることなく辿り着く。


「ええ、流石にこの前の一件で私も翔子も部活を引退したの」


「これ以上、後輩に迷惑かけられないしね」


 何故か顔を見合せ苦笑した二人は、随分スッキリした顔をしていた。

 有馬先輩は身体に異常が無かったものの、精神的疲弊が色濃く、不眠やフラッシュバックがあり入院が長引いた。


「退院、おめでとうございます」


 退院したのは先週のことだった。その時には二人共救急搬送されたその時の晩に起きた出来事をもう憶えてはいなかった。


「ありがとぉ、なんか大袈裟になっちゃって申し訳無い。結局ただの貧血だったのにさ」


「ただの、って楽観しちゃ駄目よ翔子。鉄欠乏性悪性貧血。無理をして、精神的負担を抱え込めばまた倒れる事があるんだから」


「そういう診断だったんですか?」


「そうなの。あ、でも悪性とか言うと聞こえ悪いけど、本当にそんな大病ってことではないから」


「まぁ、それはそうね。女性はよく発症することがある病気よ。突発的な環境要因ではなく、身体が元々鉄分を吸収しにくくなっていて、頻繁に貧血症状になってしまうっていうもの。誤解を招く様な言い方をしてごめんなさい」


「そうだよ、ミヤちゃん。ちゃんと鉄分とビタミンを摂るようにすれば改善するってお医者さんも言ってたし。わざわざ和希くんを心配させる言い方しなくても……」


 七不思議による記憶の修正で、有馬先輩が倒れたという事実はそういうことになったようだった。

 対策として事前に救急車を呼んだためか、学校で何かあったということではなく、宮城先輩が通報した内容が採用され、それに沿う形で記憶が修正されたのだろう。


「ホントは、卒業までに七不思議を調べなきゃって躍起になってたから、そのプレッシャーだったんだけど、お医者さんにそれは言えなかったんだよね」


「仕方無いですよ、言ったらもっと大事になったかもしれないですし」


 七不思議が原因で病気になったなんてことになれば、身体的な検査だけでなく、精神的な検査もしなくてはならなくなってしまったかもしれない。


「丁度私達が受験生だったから、進学にあたって精神的負担がかかったという事になったわ。良いのか悪いのかって感じよね」


 宮城先輩は眉根を寄せる。

 要は、世間一般的には有馬先輩は受験ノイローゼとか言われるようなものとして見られてしまうという事なのだと思う。

 その風評がたてば、それが何かに影響してしまう可能性もないわけではない。

 でも、現時点ではそれは判らないことだった。


「そうですか……」


「でもっ、大丈夫だよ。周りに何て言われようがもう気にしないことに決めたの。今回の事も……お兄ちゃんのことも」


「……杉浦さんのことも?」


「うん!だって私にとっては、優しくて頭の良いお兄ちゃんに変わらないもの。今は昔みたいに笑ってくれないけど、だからって兄妹であることを隠す必要なんかないんだから」


「そうね、その通りだと思うわ、翔子」


「それにね、私達はあの夜のこと憶えてないけど、でも確かに私はお兄ちゃんと同じ経験を出来たんだと思うんだ」


 二人は、記憶を失った。なのにも関わらずこんな風に七不思議に対してそう考えられているのは、これもやはり宮城先輩の案の成果だった。

 宮城先輩は、俺からの話や今までの調査結果等から、情報が失われる事を避けるために二週間後に自分宛に宅配便を送っていた。

 そこには、今まで解ったことや杉浦のメモの内容、俺が話したこと等、七不思議に関わることが数十枚に渡り纏めてあったという。

 彼女からすれば、それは映像での記録が残らなかった時の保険だったのかもしれない。でも、その事については、俺や有馬先輩にも知らされていなかった。

 結果、彼女達は記憶を失って尚、自分達のしてきた事を知っていた。

 そんな事が為されている等、俺を含め七不思議という不可思議な力ですら計り知れなかった。そのため、柳瀬先輩の時には発生した俺が杉浦のことを知っているという事実や本物の七不思議の六つ目までを彼女達は解っているのだった。

 『記録者』や『体験者』ではない人間がそこまで真実に迫れることなど今まできっと無かったことだろう。

 それもまた七不思議の力でいつか消されてしまうのかもしれないが…………本を俺が書き上げた今、それがどうなるのかは判らない。

 やはり宮城先輩は本当に凄い人物だ。

 けれど彼女がそこまで出来たのは、有馬先輩や杉浦、同じように被害に遭った柳瀬先輩の為だったからこそなのかもしれない。


「私はやっとお兄ちゃんと同じところに立てた」


 有馬先輩は胸を張りそう言った。


「その上でこうやって前と変わらずいられるんだから、卒業したって、福寿の生徒じゃなくなったっていつかお兄ちゃんがどうしてあんな風になってしまったのか解るような気がするんだ!」


「そうね、それに優一さんが昔の彼を取り戻す方法もね」


 二人は、長年の呪縛から解き放たれたかのように強く、清々しい表情で頷きあった。

 福寿の七不思議は、名門校にかけられた壮大な呪いだ。

 多くの人が関わり、失われた命があり、築かれた歴史がある。

 それら全てが記憶の修正や流れ行く時の中で忘れられていく。

 でも全て消えてしまうわけではない。

 七不思議の話の基となった人達、『記録者』や『体験者』として関わった人達、命を落とした者や忘れてしまった者、それら全ての生きた軌跡や想いは、胸の奥の脳すら知らないその場所に脈々と受け継がれ、残っているのだ。


「呼び止めてしまってすみません」


「ううん、退院してからバタバタしてたから、卒業前にちゃんと話せて良かった」


「私達これから優一さんのお見舞いに行くの。和希くんも良かったら一緒にどう?」


「あっ、そうだね!和希くんにも是非お兄ちゃんに会ってもらいたいな」


 以前の様に隠すようなことはなく、大手を振って杉浦の見舞いに行くという二人は、勿論俺が一度杉浦に会ったことがあるという事は知らない。

 虚ろなまま、会話することも出来ない杉浦の様子を思い出すと、深い付き合いとは言えない俺のような相手に紹介したいと言える有馬先輩は立派だと思った。

 それほどまでに杉浦優一は有馬先輩にとって大切で誇れる人物なのだ。


「すみません、今日は先約があって……今度是非」


 俺が杉浦優一に会いたいと思っていることが伝わるようにと、言葉を選びそう言った。今度はお忍びではなくきちんと見舞いをしたい。そして「俺が貴方の想いを引き継いだ」ときちんと伝えたかった。


「そっか。じゃあまた今度!」


 有馬先輩は誤解した様な素振りもなく、そう言った。手を振りながら去っていく二人に会釈をし、踵を返す。

 高知の墓参りに続き、杉浦の見舞いという用事がまた一つ増えた。

 机にしがみついて勉強ばかりしていた俺が持っていなかった人との繋りが、予定となってスケジュール張を埋めていく。

 『その陸』の『裏』については、タイトルを含め元々藍色の本には何の記載もなかった。

 杉浦優一は俺より三代前の『記録者』で後一つを残すところまで辿り着いていたということなので、その次の代から今回の俺に到るまでの『記録者』が何も書けなかったことにより、こうなってしまったのだろう。

 年月の経過と共に、『記録者』が書けないことが続き、口伝も尾ヒレがついて変化してしまった。そのため、『その陸』の怪異はもう殆んど本来の姿を保てておらず、消える間近に近いものだった。

 だから、『その陸』の『裏』は完全に俺の創作物といっても間違いではない。

 けれど、有馬先輩から聞いた話を基に俺なりに有馬先輩の想いも込めて書いたつもりだった。そのせいで『その陸』は他の話とはなんとなく違った文体、雰囲気になってしまった。

 それでも『済』の印は付いた。

 どれがまでは判らないが、重要語句は押さえられていたということだ。

 それは、『表』も『裏』も結局のところは『記録者』次第。『記録者』の記述によって七不思議の話は形作られているということを示していた。


「和希くんっ!」


 互いに背を向け、数歩進んだところでもう一度有馬先輩が俺を呼ぶ。

 振り返ると、自転車を宮城先輩に預けた有馬先輩が一人でこちらへ駆け寄ってくるところだった。


「和希くん、これ……」


 近くまでくると完全に見下ろす形になる有馬先輩が手に持っていた封筒を差し出す。


「これ、渡しておくね。もう私には必要ないから」


 女の子らしいクマのキャラクターが描かれた封筒を受け取り中身を確認する。

 中には折り畳まれたメモ紙がぎっしり詰まっていた。


「先輩、これって……」


「お兄ちゃんのメモ。和希くんはこれからも福寿に通うんだし、この先も七不思議について調べるんじゃないかと思って……」


 メモには、以前見せてもらった有馬先輩宛の手紙と同じ杉浦の筆跡の文字がぎっしり綴られていた。


「本当は危険なんだから止めなさいって止めなきゃいけないのかもしれないけど……」


 メモは所々破られていたり塗り潰されている。

 元はメモ帳一冊分くらい書き貯められていたものなのだろう。明らかに途中のページが欠損していて前後の文が繋がっていないものなんかもある。


「でも、多分自分自身が納得しないと、誰かに止めろって云われたって止められるものじゃないと思うから」


 有馬先輩は、「もしいらなくなったら捨てちゃって」と付け加えた。

 本音を言えば、もうそれらは全て知っていることだったし、来年度になればいらなくなってしまうのかもしれないが、彼女がけじめをつけるためにはこのメモを手放す必要があるのだろうから、その手伝いが出来るならと、受け取ることにした。


「有難うございます。……あ、有馬先輩。ちょっとこれ見てもらっていいですか?」


 有馬先輩の言葉を聞きながら、杉浦の手記に目を通していた俺は、その中の一枚を示しそう訊ねた。

 それは、学校内で話されている怪談のタイトルが羅列されている頁だった。他の頁と違って一つのタイトル以外はそのまま残っている。

 俺はメモを太陽の光りに当たるように翳し、更に上から携帯のライトを当てる。


「ん?あぁ、透かしだね。私達もそうやって解読したみたいだね」


 記録を抹消するならば、他の頁の様に破るなりしてしまうほうが確実な方法だ。

 だがそこはボールペンで上から塗り潰すという形で消されている。その方法では読もうと思えば読めてしまう。

 だとすると、この部分はそれほど七不思議にとって重要性の高くない内容ということだ。言い換えれば、七不思議に抵触するのに、知られても構わない情報ということだった。


「有馬先輩、この話知っていますか?」


 有馬先輩の身長に合わせ、自分が影になってしまわぬように気を付けながら、透かしたそれを見てもらう。


「多分だけど……知らないわ。他にも時代的なものなのか聞いたことない話もあるけど……」


「有難うございます。それじゃ、また」


 話を終わらすように封筒にメモを収める。


「うん。それじゃっ!」


 有馬先輩も俺が話を切り上げると、それ以上問答を重ねはしなかった。

 貰った封筒を鞄に仕舞い、改めて踵を返す。

 ちょっとのつもりが、随分話し込んでしまった。

 龍臣は、もう牛丼屋に着いてしまったかもしれない。

 そう思い、歩みを速めた。

 有馬先輩に最後に訊いたのは、最終確認だった。

 もう既に『済』の印が付いてはいるが、改めて過去の『記録者』の目線も加味して確認しておきたいことだった。

 杉浦のメモで黒く塗り潰されていた話。

 それは七不思議の『その漆』に該当する話だ。

 ヒデオと話している時にそれに行き当たった俺は、その話が『その漆』であることを確かめるためにクラスメイトや友人に話を聞いて回った。だが、誰からもその話は出てこなかった。

 それは、入院する前、怪異に遭遇する前の有馬先輩からも知っている限りの福寿で出回っている七不思議を教えてもらった時にも、二十以上ある中に含まれてはいなかった。

 それだけなら時代的な問題と、有馬先輩が言っていたように考えることも出来るが、二十年以上前に書かれた親父のレポートにもその話はない。

 その上、他のケースのように似たような話も誰からも聞かれなかった。

 これだけの怪談話が話されてきた中で、誰もその話を知らないのだった。

 それが、本来欠番とされる七不思議『その漆』。

 『記録者』だけが知ることの出来る話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る