第十二夜

3月1日

『よう!久しぶりじゃねぇか』


「…………あぁ、久しぶり」


 深夜零時。


『調子はどうだ?』


 自身の放つ、仄明るい光に照らし出されたヒデオは、底冷えする格技室に俺が姿を現すと声を弾ませ此方へと寄ってきた。

 話をすること自体が久しいと言っていたヒデオ。

 それが今となっては俺と話すことを停滞する時の中で楽しみとして認識してくれている様だ。

 生きていようが死んでいようが、人間という生物は、一度識ってしまうと、誰かとの繋がりを求めてしまうものなのかもしれない。


「……多少知ってるだろ?」


 音も無く宙を歩くヒデオに、言葉少なに応え、つかつかといつも座っている辺りへと進む。


『気付いてたのか?』


「全部じゃないけどな……」


 背負ってきた荷物を下ろし、腰を下ろした。

 やはり冷えた板張の床は、厚着をしていても体を芯から冷やす。長居をするのは難しい。

 前回格技室を訪れてから三ヶ月以上経っていた。昨年末、冬休みに入る前以来だ。

 理由は先輩達と七不思議の調査をしていたため、単独で夜の学校に来ていると知られないほうが良いと判断したからだった。

 しかしヒデオは、定期的に顔を出していた俺が姿を現さなくなったことを心配したのか、夕暮れ時に学校に居ると影から俺を見に来ていたようだった。

 一月の半ばの弓の月の時も、柳瀬先輩の復帰祝いの時も、文芸部の部室で作戦会議を行った際も、そして七不思議『その陸』に遭遇した先日の晩も…………

 蒼白い人魂が見付からないようこそこそと影で漂っているのを視界の端に捉えていた。


『そうか……明るい内に声をかけるモンでもねぇと思ってよ。悪かったな……』


 何に対してなのか、ヒデオは謝った。見かけたのは必ずしも明るい内というわけではなかったが、声をかけたくともかけられない状況だったということを彼なりに言い訳したのだろう。

 別に怒っているつもりは無かった。

 重かった荷物を開け、中から詰め込んできたものを取り出す。最低限の量にしたつもりだが嵩張るものが多い。出すのよりも片付けるほうが手間がかかりそうだ。


『……何してんだ?』


 反応がろくに返ってこないことが不満なのか、人がせっせと作業する横でヒデオは憮然とした表情でこちらを見下ろす。


「防寒対策だよ。俺はここにいると寒ぃんだよ」


 下に敷く座布団。家にあったブランケット。魔法瓶に入れたお茶。カイロ。


『なら、帰ればいいじゃねぇか……あっ!あれか!お前また書けねぇとかなんとかで煮詰まってるんだろ?』


 ヒデオはどこか嬉しそうに、ここに居座るための準備をする俺を茶化すようにそう言う。

 人の気も知らないで馬鹿にするように言うヒデオに、少しムッとして、俺は例の藍色の本を取り出した。


「大体書けたよ。『その陸』までは」


 頁を開き、床に開く―――――


『……お前……とうとうあれを見たんだな……』


 藍色の本を覗き込み、ヒデオは苦い顔で呟く。


「ヒデオ……知ってたのか?」


『……知ってはいた。だが、あれが『陸』だっつーことは知らねぇ』


「どういうことだ?」


『お前も知っての通り、学校なんていう場所は怪談話で溢れてるんだよ』


 僅かに自嘲するように鼻を鳴らしてからヒデオは言った。


『俺はそん中でも、まぁ古株なほうだ。だから前にお前に云った通り三つ目が終わった後に『体験者』が一気に選ばれるなんつーことも知ってる』


「前に教えてくれたな……じゃあ、お前はずっと『その参』だったってことか?」


『いや、違う。俺がそんな事を知ってるのは、ただ他のヤツより俺が校内をわりかし自由に動けるからだ』


 それも前に聞いた話だ。

 ヒデオは校外から来る悪しき存在から学校を護る役目を担っているため、他の怪異が存在していなければ、人魂の姿ではあるが自由に移動が出来る。

 他の怪異に関しては、『その伍』のように場所に縛られていたり、『その肆』のように一定の場所なら姿を変えて現れることが出来るものもいる。

 そして、多分『その陸』に関しては場所だけではなく、その危険性から空間までを仕切られているのではないかと俺は考えていた。


『だからよ、俺は学校内を見回っている間に『体験者』や『記録者』っていうのが三つ目が起きた後に一気に来るっつーのを知ったわけだ』


「なら、ヒデオは『肆』とか『伍』とかだったっていうこともあるのか?」


『……あるな』


「じゃあ、『漆』は?」


『それはない。『漆』だけは本当にあるのかすら解らねぇ』


「あるのかすら解らない?」


『あぁ、もしかしたら俺が知ってるどれかなのかもしれねぇが…………そもそも『体験者』を三人以上見たことが……痛っ!』


 そこまで言って、ヒデオは痛みに顔を歪めた。またしてもそれは怪異ですら言えない、七不思議という呪いに深く関わる部分なのだろう。

 元々、こうして『記録者』と怪異が仲良く肩を並べて話をするなんてことが想定されていたとは思えないが、怪異ですら越えられない呪というものが福寿の七不思議にはかけられているのだ。


「無理すんな。……まぁ、その……座れよ?」


 いつになく頭を抱え込むようにして痛みを堪えるヒデオに、俺は切出しにくかった事を伝えた。


『は?』


 案の上、今まで苦しんでいたとは思えない間の抜けた声が返ってくる。


「だぁかぁらっ、座れ……って言ってんだよ」


 自分で言っていて恥ずかしくなってきて、思わず顔を逸らした。

 盛大に吹き出す声が聞こえる。

 どうせそんな反応をするだろうことは分かっていた。

 しかし、二十秒程笑った声が響いた後、背けた頭の後ろで冷たい冷気が動く。

 睨むように顔を戻せば、ヒデオは笑ったまま俺が用意した座布団に胡座をかいていた。


『幽霊にわざわざ座布団用意してやるなんて、お前は律儀だな』


「うるせー」


『お前と違って、俺は寒くないんだぜ?』


「わぁってるっつーの……いいから!話を戻せ。アンタはこの話を知ってるって話だっただろ?」


 ニヤニヤとこちらを見てくるヒデオをそれ以上茶化すなと制して、俺は藍色の本を示す。

 ヒデオはわざとらしく肩を竦めた。


『……あぁ、知ってる。アレは俺よりも昔からここにいるからな』


 ヒデオが言う昔からというのが、怪異になってからのことなのか、それとも生きていた時のことなのかは判らない。

 けれど、『裏』を知った今となってはどちらでもあり得る話だった。


『多分だが、今話されてる怪談の中じゃ一番古いかもしれねぇ。前まではプールの辺りをウロウロしてたんだが、学校を建て替えてからは見なくなった』


 だとすると、今の空間自体が移動してしまうあの現象は建て替えた後からということになる。

 それ以前は『体験者』が条件の日にプールに行けば見ることが出来たということだ。杉浦が『記録者』だった頃にはそうだったという事になる。彼はあと一つ書けなかったということだから、多分アレを目にはしているのだろう。

 赤い池と血に染まった大地の中で見ることと、日常使用することのある学校施設内で見ること。

 はたしてどちらが精神的にダメージを負うのか、それは計り知れない。

 あの弓の月の日から丸三日。外傷は特に無いはずなのに、有馬先輩は目を醒まさなかった。

 有馬先輩の父親は仕事で家を空けることも多いらしく、母親も既に離婚しているので、入院の手続き以外の身の回りのことは昔からの付き合いがある宮城先輩が受け持っていた。

 元々有馬先輩に対して甲斐甲斐しく世話を焼いているところはあったが、あの時自分だけが蚊帳の外で、いざという時に何も出来なかったことに宮城先輩は少なからず責任を感じているようだった。

 そのため、改めて話すと言ったあの時の話は、有馬先輩が目を醒ました後のこととなった。


「和希くん………」


 有馬先輩が目を醒ましたという連絡を受け、俺が病室に駆け付けると、宮城先輩は随分疲れた顔をしていた。


「……先輩、具合は?」


 リクライニング式のベッドに座り、ぼーっと壁を見ている有馬先輩は、杉浦の表情に似ていた。

 もしかしたら、もう声が届かないのではないかと不安に感じながら声をかけると、ゆっくりと壁に据えられていた視線がこちらへと向く。


「心配かけて……ごめんね」


 乾いた唇から紡がれた言葉は、笑みを作ろうとして失敗していた。

 それは心配かけまいと笑おうとしている分、悲痛で目を逸らしたくなる表情だった。

 どことなく、何十年もの歳月を過ごしてきたかのような顔の二人に、俺はかける言葉が無かった。

 訊かなくてはならなかった。今しか訊けないのだから。

 言わなくてはならなかった。話すと言ったのだから。

 けれど、切り出せるような雰囲気ではなかった。


「……先輩、その……」


 何とか話の切り口を求めて口を開いたものの、言葉が続かず消えていく。


「…………もう、いいよ」


 口を開いては閉じるを繰り返していた俺を制止したのは、一番知りたいであろう宮城先輩だった。


「もう、止めましょう?」


 両手で顔を覆うようにして宮城先輩は言い直す。声は泣いていない。必死で堪えているようだった。


「……この三日間、凄く怖かった。翔子がもう目を開けなかったらって……優一さんの様になってしまったらって……もう、充分よ……」


「……ミヤちゃん」


 病床から手を伸ばし、有馬先輩が宮城先輩を慰めるように頭を撫でる。

 宮城先輩のほうが幼い子供で、それを宥める有馬先輩のほうがずっと年上に見えた。


「……眠っている間……翔子は……ずっと魘されてた……助けて、熱い、水をって……私は何も見ていないけれど……知るべきではなかったことは解った。私達が推し量っていいものではないことだけは解った……」


 掌で覆った声は、どんどんとくぐもっていく。


「…………だから、もう止めましょう?」


 それでも、顔を上げた宮城先輩の頬に涙の筋は無かった。自分が泣くべきではないと、堪えているような凛とした彼女らしい表情だった。


「……有難う、ミヤちゃん。それと、心配かけてごめんね」


 有馬先輩は今度こそ優しく、今にも泣き出しそうな宮城先輩に笑いかける。


「解った……もう止める。これで終わりにする。でも、最後に話させて……」


「翔子!」


 頭を振った宮城先輩の目頭から、留まっていた涙の粒が舞った。


「お願い……和希くんには、話さなきゃいけないの……でないと、あの人達が可哀想……」


 嫌々、と子供のように首を振る宮城先輩を諭すように、有馬先輩は言う。

 二人のやり取りに、俺は口を挟めなかった。

 例え、『記録者』であることを気付かれたのだとしても言葉を挟む余地が見当たらなかった。

 太平洋戦争時、福寿は旧制中学校だった。

 戦禍が激しくなるにつれ、在籍している生徒は勤労学徒として駆り出されるようになっていった。

 当時の福寿の校庭には、生徒達が避難するための防空壕が生徒達自らの手で掘られ、存在していた。

 それは現在の運動施設の入口前、渡り廊下に繋がるその辺りに位置しており、駐輪場、立て替え前はプールだったところにはあまり大きく無い溜め池があった。

 終戦間近のある時、不幸なことに焼夷弾が着弾した。

 その際、避難していた多くの方があの場所で亡くなった。

 痛ましいことに、中には即死ではなく焼けるような痛みと熱さに水を求めて池へと這いながらも命を落とした人もいるとのことだった。

 空襲による火事で、弓の月が浮かぶ夜空は、夕焼けのように赤く染まっていたという。


「…………あの時……初めは怖くて……その……気持ち悪いって思っちゃったんだけど……突然声が聞こえてきて……意識を失った後もずっと……多分あの人達の見た景色が……想いが……私には見えたの……」


 言葉を選びながら、現代に生きる俺達には決して理解出来ない想いを有馬先輩は伝えようと話していた。


「だからっ!……だから、和希くん。誤解しないであげてっ!あの人達は、本当に一生懸命、私達じゃ考え付かないような大変な世界を精一杯生きた人達だから……」


 まだ目が醒めて間もない状態だというのに、有馬先輩は必死に、掠れる声を張り上げて訴えた。

 『渡り廊下に棲む魔物』なんていう、間違ったタイトルを非難するように、その場にいる俺や宮城先輩だけでもきちんと認識して欲しいと、繰返し、何度も何度も訴えた。


「……翔子……有難う教えてくれて……」


 咽を掴まれているかのように、詰まって、つかえて言葉が出ない情けない俺に代わって無限に伝えきることの出来ない想いを受け止めようとしたのは宮城先輩だった。

 「話さなくていい」と、「聞きたくない」と言っていた彼女のほうが、俺よりずっと大人だった。


「……そうだね……今生きてる私達が間違えてちゃ駄目だよね……」


 取って付けた言葉ではない、心からの返答で、もう泣いていることを隠すことなく宮城先輩は手を伸ばし、有馬先輩を抱き締める。

 二人が抱き合い涙する中で、俺はひくつく咽を抑え、拳を握り、歯噛みした。

 有馬先輩から聞いた『その陸』の真実を話すと、ヒデオも俺と同じように歯を食い縛るような、何とも言えない表情をした。


『校舎が建て替わった時を機にもう消えちまったと思ってたんだがな……』


 怪異は情報で存在する。父さんが言っていた言葉だ。

 『記録者』が役目にすら辿り着けない年月が重なり、生徒達の間で語られる話もその凄惨さから段々と曖昧になっている『その陸』の話は、きっと近い内に消えてしまうことになるのだろう。


「なぁ?消えたらさ、どうなるんだ?」


 ヒデオに限って成仏とか、天国とかの言葉が出てくるとは思えない。「解らない」という言葉が返ってくるだろうと思いつつ、そう訊いた。

 ヒデオも含め、自分がこれからやろうとしていることが彼らの存在を消してしまうことになると思うと、何か救いが欲しかった。


『吸収されるんだよ、机にな』


 しかし、ヒデオから返ってきたのは予想外のことだった。


「机って……『呪いの机』か?」


『あぁ、そうだ。前にお前が言ってたダミーの話ってやつも、そのいくつかはそうやって消えていったヤツのことなんだろうな』


「いや、それは違うんじゃ……」


『俺もお前と話すようになって色々考えたんだよ。……それで最近はそう思うようになった。だってそうだろ?なんであの話だけは、俺らみたいな怪談の本体がいねぇんだ?』


「あの話だけ………………?」


 ヒデオはなんとなしに言っただけだろう。だが、その言葉が俺の中の最後のピースになった。


「……そうか……」


『何か解ったのか?』


「あぁ、ヒデオのお陰だ……」


 答えて、今まで見返すことの無かった藍色の本の頁を開く。

 七不思議『その弐』。

 随分前に書き終え既に『済』という焼印が入った頁。

 俺は佐川の「高知から電話があった」という話を基に『過去に直接的、間接的問わず、七不思議に関わって死亡した体験者の意識の集合体。』と書いた。

 これで『済』印が付いた以上間違っているわけではない。けれどこれで全て正解ではなかった。

 何故なら、この記載の続きに俺は『各七不思議の発生場所、及び前体験者と何かしらの接点がある者を体験者として選出する。』と書いたのだ。

 それなら、もし建て替え等の理由で発生場所が使われなくなってしまったら?もし過去の『体験者』と関係のあるものが現れなかったら?

 そうなれば『体験者の選別』が破綻してしまう。

 災害や事故、部活の廃部、校則の改訂、そういった状況が重なることによって『体験者』が選ばれなくなることだって全く有り得ないことではない。

 そして、それで困るのは決して『記録者』だけではないはずだ。七不思議を構築する怪異も忘れ去られ、消えてしまうかもしれないのだから。

 だとしたら『体験者の選別』の正確な記載内容としては『七不思議に関わった全ての死者』といったところだろうか。

 ヒデオが言ったように、過去七不思議に組み込まれていた怪異も『意識の集合体』として組み込まれているというほうが自然な考えに思われた。

 だが、大事なのはそこではない。肝心なことはそれでも『済』の印がついたこと。

 正確ではない記載でも『済』が付くということは重要な語句が入っていれば、抜けがあっても構わないということなのだ。


『あー…………どういうことだ?』


 訥々とつとつと話を展開していた俺にヒデオはついていけずに音を上げた。


「『記録者』は全部を理解して、何もかもを正確に書く必要は無かったって事だよ。前に言ってたろ?『表』は適当でもって。それと一緒だよ」


 あの時もヒデオは言いかけて途中で痛みを感じて言葉を切った。でも、俺はヒデオが溢した言葉をしっかりと拾いあげていた。


『あ、あぁ』


 ヒデオもその事を覚えていたようだった。微妙な顔で頷く。

 要するに、試験等でよくある重要語句が入っているかどうかが『済』が付くかどうかの判断基準なのだ。

 俺は頁を一頁めくる。

 そこにあるのは七不思議『その壱』。


「気にはなってたんだ。何で『その弐』には『済』が付いたのに『その壱』には付かないのか……それが今のヒデオの話で解った」


 『その壱』に『済』が付かない理由は『表』か『裏』に必要な言葉が抜けているからということになる。

 それは今までの話から考えると『裏』だ。

 『その壱・裏 記録者の選別』の抜けていた要因に俺が書き込んだことは『七不思議を形成する余多の怪談が遺した無念の想い。七不思議にかけられた呪い。』というもの。

 これ以上に俺が書き込めることは無かった。『呪い』という記載に関しては今年に入ってから若宮さんに云われて書き足した。

 これらが間違った事を書いていないということは文字が染み込み、印字されたことが証明していた。

 けれど、それでも『済』の印は付かなかった。

 だから、今はそれでいいと思っていた。印字されたことで正解なのだと思っていた。

 それよりも先々を埋めることで精一杯だった。

 目の前の難問よりも、解ける問題から解いていくほうが効率的だという学力試験のやり方と同じ方法を俺は選択していた。

 けれど、俺はもう既に知っていた。そこに書くべき話を。

 俺だからこそ識っていた。

 でも、認めたく無かった。

 あの時から、似ているとは思っていた。思ってはいたが、そうであっては欲しくないと願っていた。

 ヒデオは多分初めて会った時から解っていた。解ってはいたが云えなかった。若しくは俺も解っているものだと思って云わなかった。

 なんせ、ヒデオに『その壱』や『その弐』について本の記載を見せたことも、話をしたことも無かったのだから。

 それでヒデオは言ったのだ。「消えた怪談は机に吸収されるんじゃないか」と、「あの話だけ、怪異の本体がいない」と。

 俺に答え合わせをするつもりで、俺が既に知っていることとして。もう既に済んだであろう怪異だからこそ。


「……ヒデオ、有難うな」


『お?おぅ。なんだよ?いきなり』


「アンタのお陰で、七つ目の検討もついたよ」


『そ、そうか!そりゃあ良かった』


 ヒデオは、俺の礼に複雑な表情を見せた。

 ちっとも喜んでいなかった。

 当たり前だ。

 『記録者』が書き上げるということは、終わりがくるということ。

 若宮の神子の話では、「書き上げたその時呪いは解ける」とのことだった。

 それは俺とヒデオがこうして会うことが出来なくなるということ。ヒデオが他の怪談同様消えていくのを早めるということだった。


「だからさ……」


 半笑いのような、情けない顔をするヒデオに、俺は再び鞄を漁り、持ってきた物を取り出した。


『……甘酒?』


「礼だよ。これも酒は酒だろ?未成年の俺が用意出来るのはこれが精一杯だ」


 自分用に持ってきた魔法瓶の飲み物をカップに注ぎ、甘酒の缶をヒデオの前に置く。

 これは元々考えていたことだった。

 有馬先輩の話を聞いたその時から。

 その時はまだ『その漆』がどんな話か解っていなかったが、それでも今ヒデオときちんと決別しておくべきだと考えていた。



 もう三月に入った。

 学年末試験も終わった。卒業式まではもう十二日。

 学年が上がるのはそこからまだ一ヶ月ほどあるが『記録者』としての時間が残り少ないということには変りなかった。

 しかし『体験者』から七不思議の真実を聞けば聞くほどに、ヒデオとこうして話せば話すほどに、俺の筆は鈍り、書くことに葛藤が生まれていた。

 死にたいなんて勿論思っていない。自身を犠牲になんて毛頭考えていない。

 それに必ず書ききると約束した。終わらせると誓った。

 それを違えようとは思っていないのだが、やはり戸惑いと未練と罪悪感を感じずにはいられなくなっていた。

 だからこうして準備をしてきたのだ。

 未練がましいかもしれないが、最後にいつもより長い時間を共有し、杯を交わすのがいいんじゃないかって……

 目の前に置かれた甘酒に、ヒデオは大きく溜め息を吐いた。


『お前……どうせ俺の見た目で酒がいいとか思ったんだろ?』


「まぁ……それもある」


 実を言えば、一応相手は怪異なわけだし、お清め的な意味もあったのだが、何となく言い出し難かった。


『言うことは複雑なくせして、案外安直だよな、お前……』


「それは…………否定できない」


 確かに、ヒデオが言う通り、俺は色々知っている振りをしているだけで、知らないことが山程ある。七不思議に関わる中でそれを思い知らされた。


『でもよぉ……何より、お前……こんなの用意したところで、俺が飲めると思ってんのかよ?俺はお前とは違うんだぜ?』


 少しずつ湯気をひそめていく甘酒を前に、ヒデオは言う。

 もしヒデオがこんなような事を言ったとしたら、俺は何て言ってやるか決めていた。


「飲めないなんて決め付けだろ?」


 それは、ヒデオと初めて言葉を交わした日にヒデオに言われた言葉のオマージュだ。

 ヒデオは満面の笑みを浮かべた。人間味に富んだ生気溢れる笑顔を。


『なぁ、和希心……最後に教えてくれよ。七不思議の七つ目をさ』


「……俺もまだ確証があるわけじゃない。調べてみないと解んねぇけど……多分それは……『誰も知らない話』だよ」

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