第惨夜
6月3日
梅雨入りにはまだ随分日があるというのに、六月に入った途端に雨天が訪れた。
細い糸を垂らしたような雨粒が、しとしとと降り続いている。
一週間前、病院へ緊急搬送された親父は一命をとりとめた。
事故だった。
空港から自宅へと向かう途中、工事現場の足場が崩れ、決して軽くはない鉄骨が降り注いだ。
それでも命を落とさずに済んだのは、奇跡に近いことだった。
あとほんの少しでも何かが違っていたら、確実に即死だったと医者は言っていた。
「心!おはよ!」
まとわりつく湿気と、傘の重さに鬱陶しさを感じながら歩いていると、少し離れた所から呼び止める声が響いた。
ビニール傘超しに龍臣が此方へ走って来るのが滴にぼかされ揺らいで見える。
「悪い、入れてくれ」
飛沫を跳ねさせ駆けてくると、決して大きくない傘に長身を滑り込ませてくる。
「おはよう。もう昇降口そこだろ」
目前に迫った昇降口を示し、暗に「狭い」「腕が辛い」という意を込めそう言う。
しかし龍臣は「まぁ、いいじゃん」といつも通りのニヘラ顔でサラリとそれを受け流した。
仕方無く、残り少ない通学路を歩幅を合わせゆっくりと歩き出す。
「朝練は?」
「もう終わった。雨のせいで体育館ビショビショでさー、整備ばっかに時間とられちゃうのよ。だから早め上がり」
傘からはみ出た肩にかかる雨粒を指先で弾きながら龍臣は言う。
大きなドラムバックを持ってはいるが、龍臣はジャージ姿のままだった。
「なら、シャワー浴びて着替えてくりゃ良かったじゃん」
「んー、まぁそうなんだけど……その、混んでたしさ」
体育館は、今いる昇降口がある側の丁度真裏。
シャワー室や屋内プールのある運動用施設は、体育館から校庭を横切った先にある。
校舎内を一度経由する必要はあるが、渡り廊下を使えば、雨に濡れずに運動用施設に移動する事も可能だ。
いずれにせよ、態々校舎を隔てた裏側である昇降口側に回る必要性は無かった。
始業まではまだ一時間以上ある。
龍臣のように早めに朝練を切り上げた生徒は校内にいるが、用も無いのにこの時間にわざわざ登校してくる生徒はいない。
俺以外には……。
ここ数日、俺は登校時間を早め、始業までの時間に学校で勉強していた。
勿論、それは親父の事故があってからの二日間、早退を含めて三日間分の遅れを取り戻すため。
まぁ、遅れを取り戻すと言うと聞こえがいいが、実際には休んでた分の授業内容をノートを借りて写すためと言うのが実際のところ。
自宅でやってもいいのだが、何分家の中がバタついているため落ち着かないのだ。
「……そうだな、シャワーの数ちょっと足んないよなぁ」
誤魔化し笑いをした龍臣の心中を悟って、俺はそう言った。
「なっ?心もそう思うだろっ!?」
「あぁ」
だって、龍臣は雨の中俺の事を待っていたのだろうから。
理由は大方予想がつく。
今日が水曜だからだ。
「ところで、親父さんの様子どうだ?」
昇降口へと入り、傘に残った雨粒を屋外へと払い飛ばす。
雫が減ったところできちんと畳み、扉の脇に設置されたクラス毎の傘立てへと突っ込む。
「それ、昨日も訊いてなかったか?」
「いやっ、そうだけど……でもっ、お前毎日病院行ってんだろ?」
「まぁな、母さんだけだと大変だし。あの人直ぐテンパるから……」
龍臣は、そのまま靴箱に向かってもいいものを、態々傘立てまでついてくる。
「容態、良くねぇのか……?」
「まぁ、まだ事故からそんな日も経ってねぇしな」
「そっか……」
「ま、母さんがテンパるのはいつもの事だ。あの人達いつまでたっても新婚気分だから」
突っ立ったままシュンとする龍臣を軽口を言って宥め、靴箱へと向かう。
すると、案の定龍臣は後についてきて、俺の手元を覗き込む。
「…………」
俺は特に何も言わずに、靴箱を開いた。
そこには――――半紙のように薄く、指の長さ程度の白い紙。
…………あった。
先週肝心のカウント零の時点で入っていなかったから、あれでもう終わったのかと思っていたのだが……。
『 次はアナタ
あと49日 』
「数字が増えてる……?」
徐に紙片に目をやり、その違いに気付いた。
「心っ!」
途端に動き出そうとする脳味噌を、龍臣の大声がひき止めた。
「やっぱ先生に言ったほうがいいよ!悪質過ぎるって!!」
肩を掴まれ、無理矢理向き合わさせられる。
見上げた龍臣の顔は真剣だった。
「龍臣……」
「やって良いことと悪いことくらい、高校生なんだからわかるだろっ!!」
宥めようとする俺を遮って、怒鳴り散らす。
明らかに本気で怒っていた。
「落ち着けって……」
これ以上彼が興奮せぬよう、手の中の紙片をくしゃりと丸め、捨てる振りをしてポケットに滑り込ませた。
龍臣は尚もがなりたてようとする。
「親父さ、手術成功したんだ」
龍臣が息をつぐ瞬間を見計らって、俺は言った。
「事故ったその日はさ、結構ヤバかったんだ。脚なんてグチャグチャでさ……直視すんのもキツかった。でもさ、死ななかったんだよ」
怒りで縦に揺れていた龍臣の肩が段々と揺れ幅を狭めていく。
「あんなん、普通だったら確実に死んでる。なのに親父は生きてんだ。すっげぇ運の強さだと思わねぇか?」
険しかった龍臣の顔は怒られた仔犬みたいにシュンとしていった。
「悪い事なんて、いつだって起こる。そんなん運の問題だ。くだらねぇ悪戯とか、心霊現象とか、そんなもんに左右されるわけじゃない」
そうだ、その通りだ、と口から出た台詞に納得する。
俺自身不安に揺れていたのかもしれない。自分で言って、自身を鼓舞していた。
ちゃっちぃ言い草だが、親父が事故に遇うのは運命だったのだ。
でも親父は死ななかった。
ならば、事故に遭った事を嘆くのではなく、死ななかった事を喜ぶべきだ。
「そう……だけどっ、でもっ、心が親父さんの事すっげぇ尊敬してんの、俺知ってるし」
先程まで怒りに顔を赤くしていた龍臣は、今は泣きそうな顔をしていた。
「福寿に入ったのだって、親父さんの影響だろ!?」
「…………」
「絶対無理だって言われてたのに、すっげぇ勉強して、やっと受かって、なのにっ!……なのに、こんな嫌がらせされて……」
最近まで、俺と龍臣はそこまで親しいわけではなかった。
クラスメイトの延長程度の関係だった。
でも、龍臣は知っていたんだ。
俺が親父の卒業した福寿への進学を必死に成し遂げた事を……。
心の底から、コイツはイイヤツだと思う。
「こういう嫌がらせっつーのはな、相手を不安にさせる為にやるもんなんだ」
「……うん」
殆ど泣いているような状態の龍臣に、言い聞かせるように言う。
チラホラとだが、登校してくる生徒の姿が見え始めている。
皆、靴箱の前で深刻な顔して話し込む俺達に、好奇の目をチラチラと向けてくる。
「不安になった頃、偶然悪い事が起きる。些細な事でも悪い事が起きれば、不安は膨らむ。そこで更に怖がったり、騒ぎ立てたりしたら、相手の思うツボだ」
「……うん」
龍臣は、感情に振り回されて電池切れをおこしたみたいに俯き、大人しく話を聞いている。
「だからさ、根負けしたほうが負けなんだ」
「……うん」
デカイ図体して縮こまる龍臣は、まるっきし捨てられた大型犬のようだ。
もう一度、「大丈夫だから」と肩を叩いてやり、教室へと促す。
昇降口へと入ってくる生徒は段々と数が増え、不穏な雰囲気に一瞬ギョッとしては、何事かと野次馬心で無駄にゆっくりと靴を履き替えている。
「ほら、行くぞ。お前とっとと着替えねぇと……」
流石に気まずさと恥ずかしさを感じ、わざと鞄を龍臣へぶつけた。
「いてっ、ちょっ、置いてくなって~」
逃げるようにさっさと階段へと向かえば、やっと龍臣も動き出す。
なんだかんだと時間を費やしてしまった事で、始業前の勉強時間はあまり取れそうにない。
だが、そんなもん明日で構わないと思えた。
決して無駄な時間ではなかったのだから。
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