第一夜

4月8日

 例年この時期になると決まって『春の嵐』とか言われるような風雨が日本列島を襲い、咲き誇る桜を無惨に散らしていく。

 しかし、今年はかろうじて、四月の頭のこの時期でも僅かに薄桃色の花が残っていた。

 殆ど若葉の緑に埋没してしまってはいるが……


「今日から、か……」


 左右に建つ花崗岩の門柱は、一対である事を誇示するかのように、頂点から伸びた青銅の蔦のようなデザインのアーチで繋がっている。

 その門を潜り抜ける手前で、門の後ろに聳える建物を見上げ、思わず足を止めた。

 門の真ん前で立ち止まった俺の横を幾人もすり抜けて行く。

 皆真新しい臙脂色のブレザー姿で、期待で眼を輝かせ、軽やかな足取りで門を潜り抜けていく。

 私立福寿高等学校。

 文武両道を掲げ多くの著名人を世に出している。

 創立百年を越える名門校で、三年前に校舎の建て替えが行われ、制服も一新された。更に、昨年には敷地内にジムや温水プールを擁する運動施設が建設された。

 そのため、男女共に非常に人気が高く、入学希望者は毎年増加している。

 そんな学校に、今日から三年間俺は通うのだ。

 一頻り感慨に耽った後、やっと校門を潜り抜けた。


「新入生は掲示板でクラスの確認をしたら此方へお越しくださ~い!」


 浮かれはしゃぐ新入生の群れを、在校生らしい数人の生徒が声を張上げ誘導している。

 首を巡らせる必要もなく、掲示板は直ぐに見付かった。

 校舎の壁に沿うように、人だかりが出来ていた。

 周囲に倣って掲示板へと近付き、連なる後頭部の隙間から、自分の名前を探る。

 A組からE組。一学年五クラス。

 上から氏名順に男女混じりあって並ぶ名前を目でなぞっていく。

 カ行から始まる俺の名前は、少し後方からでも見付かる筈だ。

 A、B、C……と順々に見ていると……


ドンッ!


 前から来た奴と肩がぶつかった。

 余程前列で掲示板に張り付いていたのだろう、後から来た人間の波に飲まれてしまったに違いない。

 混み合う人の壁を掻き分けてなんとか脱け出して来たところで、後方にいた俺にぶつかってしまったみたいだった。


「大丈夫か?」


 最後尾で少し距離を置いていた俺と違って、なんとか人混みを抜けてきたそいつは、油断していたのか見事にぶつかった衝撃でよろめいた。

 傾いた身体に咄嗟に手を伸ばし、声をかける。


「……あ、有難う」


 俺の手に支えられ、すんでのところで転倒を免れたそいつは、恥ずかしそうに苦笑を浮かべる。

 女の子だった。


「……あ、いや、別にっ」


 気付けば、抱き抱えるような体勢になっていた事に気付き、慌て手を離した。

 でも、彼女から目が離せなかった。

 長い黒髪。

 白い肌。

 黒瞳がちな眼。

 薄い唇。

 名前は知らないが、以前にも一度会った事のある娘だった。



 合格発表の日。

 今のように校舎沿いに貼り出された掲示板から受験番号を探していたその時。

 掲示板から離れた校舎の外壁に、寄り掛かるようにして立っていた少女。

 長い髪と黒いセーラー服の赤いスカーフが、一月の冷たい風に靡いていた。

 寒い中で防寒具も身に着けず、日溜まりの中に佇む姿が妙に印象的だった。


「ええと……顔に何か付いてる?」


「違うんだ。悪い。合格発表の時にもアンタを見かけたから……」


 余程じっと見つめてしまっていたのだろう、彼女は苦笑した表情のまま訊いてくる。つい無遠慮に見ていた事に気付き直ぐに詫びた。

 合格発表の際にいたと言う事は、彼女も俺と同じように、難関と言われるこの学校の一般受験に合格したという事だった。


「……そう」


 言っている意味が伝わっているのか、いないのか、彼女は仕返しとばかりに俺の顔をまじまじと見つめ返すと、ニッコリと笑んだ。


「……お互い高校生活を満喫しましょうね」


 彼女は軽くあしらうようにそう言って、とっとと踵を返す。


「え、……あぁ」


 思ってもみない言葉を投げ掛けられ上手く反応出来なかった。

 変な奴に思われたかな、と更に何か声をかけようとする間に、彼女は黒髪を靡かせ、立ち去ってしまう。その後ろ姿は、やはり以前見た時同様、絵画を切り取ったように印象的だった。

 その時、突然バンっと背中を叩かれた。


「おいっ!しんっ!」


 続け様に名を呼ばれ、故意に叩かれた事が解る。

 その軽快な声の調子と力加減を知らない叩きかたで、誰かは検討がついた。

 ヒリヒリと痛む背中を擦りながら、眉をしかめて振り返る。


「……龍臣たつおみ。そろそろ力加減を学べ」


 多少の怒りを込めて見上げる俺に、悪びれた様子もなく龍臣はへらへらと笑っている。


「それにしても…………お前本当に福寿受かったんだな!」


「まぁな」


 龍臣は、小、中と同じ学校に通っていた。

 ずば抜けて仲が良かった訳ではないが、九年の間に数回同じクラスになった事があり、遊んだ事も何度かある。

 昔っから背が高かったが、中学に入ってからはバスケ部に入りひょろっとしていた身体に筋肉がついた。

 今となっては165cmの俺より頭一つ分は高い。

 反して、顔立ちは垂れ目のベビーフェイス。

 更には、仔犬のように人なつっこい性格な事も相まって、女子に人気があった。


「龍臣、クラスは?」


「ん?心と一緒」


 言われて、未だ自分がどのクラスなのかを確認出来ていない事に気付く。


「俺、まだどのクラスか解ってねぇんだけど……」


「そーなの?Dだよ。1ーD」


「……あっそ」


 再度探す必要もなく、答え合わせが行われた。

 龍臣は「ほらっ」と掲示板の方を示してみせるが、龍臣の背だからこそ容易に見えるのだろう。


「うちの中学からは三人だけみたいだね、福寿に入った奴」

「俺とお前と……?」


「アイツ」


 そう言って、龍臣は後方へ顎をしゃくり、巨体を脇にどけた。

 龍臣が避けた向こう側には、確かに見た顔があった。

 色素の薄い肩に僅かにかかる程度の長さの髪。

 身体は細く、背は高め。

 よく言えばモデル体型だが、やや肩幅が広い。

 陽の光が染み付いたような褐色な肌。


「あっ!大島おおしま和希かずき!」


 周囲の事等気にする様子もなく、大声で呼び掛け、大きく手を振る少女。

 軽く手を挙げ返してやれば、彼女は真っ直ぐに此方へ走り寄ってきた。


「二人共、いるなら声かけてよ~」


「だって美織みおりさん、もう既に沢山お友達いる感じだったじゃんか」


 小動物のように頬を膨らませる少女に、龍臣が茶化すように言う。


「だからって…………話し掛けてくれたっていいじゃん」


「だってなー、女の子ばっかで固まってるとこに声かけづれぇし。なぁ、心?」


「ん?……まぁ、俺は羽山はやまがこの学校って事自体忘れてたけどな」


「ひっど……!和希はこの間まで同じクラスだったでしょーが!?」


「そうだったっけ?」

「そーだよ!隣の席だったこともあるし!」


 羽山は、俺達にからかわれているとは露とも思わず、顔を上気させ喚いている。


 羽山は、俺達三人の中で、一番に福寿入学が決まった。

 中学時代から水泳の大会で成績を残していて、昨年温水プールを新設したばかりの福寿は、直ぐに彼女の推薦入学を認めた。



 福寿に入学する事を切望していた俺としては早々に入学を決めた彼女を恨めしく感じていた。


「まぁまぁ、心は中2ん時からずっとガリ勉くんだったんだから多目に見てやれよ」


 からかわれている事に一向に気付かない羽山を見兼ね、龍臣が間に入る。

 からかう矛先を微妙に俺に向けただけのような気もするが、そこは流しておく。


「え!?和希ってマジで一般で入ったの!?」


「……そうだよ」


「うっそ!すごっ!!」


 龍臣とは違い手放しで誉める羽山。

 元々大きな眼を見開き、尊敬の眼差しを向けてくる。


「なー、俺らみたいにスポーツ推薦じゃなく、一般で入学しちゃうんだから、凄いよな~」


「うんうん!」


「…………」


 調子の良い龍臣は持上げ始め、羽山はそれに馬鹿真面目にコクコクと頷いている。

 言われているこちらとしては恥ずかしくて仕方無い。


「いいなー、私も同じクラスなら良かったのにー」


「いいだろー、俺はしっかり心に勉強教えてもらっちゃうもんねー」


 しかも当人をほったらかしにして勝手に盛り上がり始める。

 なので早々に話を変える事にした。


「羽山は何組なんだ?」


「ん?私?私はC。あんた達の隣のクラス」


「……そうか」


 龍臣にしても羽山にしても、中学の時からとりわけて仲が良かったわけではない。

 俺は福寿に入学する事を目標に勉強ばかりしていたし、龍臣はバスケット、羽山は水泳を熱心にやっていた。

 だが、これから先の三年で、こいつらと仲が良くなっていくんじゃないかって気が、漠然とした。


「かっ、和希、和希心くん!和希くんいらっしゃいますか~?」


 三人で他愛ない話をしていると、そんな声が聞こえてきた。

 余程焦っているのか、息を切らしどもっている。

 見れば、先程新入生を誘導していた在校生が、未だ掲示板の前に留まり続ける生徒の群に向けて、背伸びをして声を張上げている。


「あれ、お前の事呼んでねぇ?」


「そうみたいだな」

「何?和希なんかやらかしたの?」


「いや、そんなこと……」


 否定しかけて、ふと思い出した。


「ヤバッ!俺行ってくるわ!」


 慌て、血相を変えている在校生の元へと走り出した。


「心~?どうしたんだよー!?」


「悪ぃ、俺総代頼まれてたんだった」


「はぁぁ!?」

「はぁぁ!?」


 駆け出した俺の背後で、取り残された二人は、疑問とも溜め息ともとれる声を上げた。



 私立福寿高等学校。

 名門校であるこの学校は、数年前から受験時の選考基準が他とは少し異なっていた。

 中学時代に運動で何かしらの成績を残した者は、在学中学が推薦を出せば、直ぐに入学する事が出来る。

 推薦入試は面接のみで、合格率は殆ど100%に近い。

 しかし、反して一般入試は非常に難関で倍率は二桁に近い。

 福寿は、毎年二百名程度の生徒を募集するが、その内百二十名はスポーツ推薦枠であり、一般受験枠は八十名が精々だ。

 名門が故、実際には五百名を越える入学志願者が集まるが、合格出来るのは本当に一握りだった。

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