裏表 ーウラオモテー

藤村 最

黄昏時

3月10日

 図書室。

 貸出禁止書簡が並ぶ一角。

 時刻は、夕方四時を過ぎた頃。

 最近は陽も短く、分厚いカーテンの隙間から覗く夕焼けは、橙と群青が混ざりあい斑に染まっている。

 黄昏時は、時として逢魔ヶ時とも言うらしい。

 この時間にこの場所を訪れたのは、単に夜を嫌って人がいる間にと思っただけだったが、逆に失敗だったかもしれない。

 図書室内には、書簡整理を行う委員も含めて、まだチラホラと人影がある。

 しかし、囲うように設置された本棚のせいで、この貸出禁止書簡のスペースだけは、自分以外に誰も存在していなかった。

 今からする事を思えば、人の目がない事は好都合だ。

 だが、少し離れた場所に気配が存在する分、余計に自分だけが独りで存在しているかのように錯覚させられる。

 不安を掻き立てられる。

 出来るだけ平静を装い、周囲を囲う本棚の、一番薄暗い隅へとそっと近付く。

 ほんの少しの罪悪感と、幾ばくかの使命感のせいか、自然と忍び足になっていた。

 焼けを防ぐためにかけられた暗幕のようなカーテンの直ぐ脇、唯一本棚の無い窓に近い位置。

 背の高い棚の上から三段目、目線より少し上の辺り。

 その左から四冊目と五冊目の間。

 殆ど隙間の空いていないその場所に、右手の人指し指と親指を突っ込む。

 定期的に図書委員が管理、整頓を行っているのだろう、滑り込んだ指先は窮屈で、左右から締め付けられる。

 指と指との感覚を拡げ、半ば無理矢理スペースを作っていく。


「ふぅ……」


 本一冊分の余裕が出来た時点で、思わず息を吐いた。

 指先を本棚に差し入れたまま、左手の本へと視線を落とす。

 藍色のしっかりとした装丁。

 この本を見つめていると、今日までの一年間が走馬灯のように脳内を駆け巡る。

 恐怖と絶望に染まった人の顔が、次から次へと過る。

 記憶にへばりついた彼等の表情を振り払うように、左手の本を隙間へと捩じ込む。

 やっと解放された二本の指は、挟まれていた跡が残り、僅かに痺れていた。

 恐怖も、焦燥も、絶望も、緊張も、罪悪感も、使命感も。

 指先に残ったこの痺れのように、時が経てば消えてしまうのだろう。

 今は寝ても覚めてもこびりついて離れないのに、来年の今頃にはきっと全て忘れているのだろう。

 前任者達がそうであったように……。

 夢か幻だったとでも言うように、始めから無かった事のように、跡形もなく、記憶が消されるのだ。

 藍色の本の背表紙には、本来あるべきタイトル表示が無い。

 それは決して、厚みがないからでも、抜け落ちたわけでもなく、元々無い。

 なんせ背表紙だけではなく、この本にはどこにも表題なんて書かれていない。

 何故なら、この本はこの世のどこにも出版等されていないのだから。

 中途半端な状態で収まりきっていない本の背を、意を決し押し込んだ。

 二度と引き抜かれる事が無いよう祈りながら、限界まで奥へ。

 願わくはこれで全て終わりになればいい。

 願わくはこの先何も起こらなければいい。

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