最終話 僕と君の駄弁り合い ~プレシャス・キス・ユー・ソフトリー~
ある日。スーツの内ポケットに小箱を忍ばせて、馴染みのバーに入った。
バーテンに軽く会釈をし、いつもの席の、彼女の隣に座る。
さて、どう切り出したものか。なんて考えていると。
「実は近く、神々との大きな争いが起こりそうでね」
こちらが口を開くより早く、突然、物騒な話を告げられた。
「争いって……。穏やかじゃないな」
「まったくだよ。けれど、神や天使共が全ての戦力を集結させていると来たら、こちらも対抗せざるを得ないんだ」
いつも微笑みを絶やさない悪魔の表情は、今は緊迫した真剣な面持ちで強張っている。彼女のこんな顔を見るのは初めてだ。
「その、大丈夫なのか?」
言葉足らずな僕に、しかし彼女は、かぶりを振った。
「安心してくれ、と言いたいのだけれどね。今度ばかりは、流石にどうなるかわからないな」
そう言って、グイッと手にしたグラスを呷る悪魔。珍しく、僕と同じ強い酒を飲んでいる。
「ふぅ。それで、キミに一つお願いがあるんだ」
「……何だよ、改まって」
真っ直ぐに僕を見つめる、紅い三白眼。薄暗い店内でも宝石のように輝くその瞳から、何故だか僕は、目を逸らしてしまった。
「キミからボクに、応援の言葉をくれないかい? “頑張ってこい”って送り出してほしいのさ」
なんだ、そのお願いは。
悪魔の癖に、人間に、そんな残酷なことを願うのか。
……でも。
「ん。頑張ってこいよ。……待ってるから」
なんの力も無い僕に、何ができるというのか。
ありがとう、と穏やかに笑う彼女の顔を。
僕は、見る事ができないままだった。
程なくして、彼女は店を出ていった。
行き場を失くした内ポケットの小箱が、やたらと重かった。
翌日のニュースで、異世界で神と悪魔の全面戦争が始まったと報道がされた。
彼女は、いつ帰ってくるのだろう?
そんな疑問を抱えたまま、その日は終わり、次の日も終わり、その次の日も終わっていった。
一週間が過ぎる頃には疑問は不安に変わり、それでも時間は流れていき、気づけば一ヶ月が経っていた。
『異世界での大戦争は泥沼の様相を呈しており、各種族間の調整も難航している模様です。政府はこの事態を重く受け止め、関係各国と連携し解決への糸口を――』
テレビでニュースキャスターが何か喋っている。
心に穴が空いたような虚ろな日々を過ごすまま、更に一ヶ月、もう一ヶ月と毎日は積み重なっていって。
一年が経過した頃には、あの店にもすっかり足を運ばなくなってしまった。
彼女がいない生活に、慣れることは無かった。
ある日。散らかった部屋の中で、ボンヤリと自分の手を見つめてみる。
何の変哲もない、ただの手。
昔、彼女と確かに繋いだ手。
そうして重なる年月の中で、僕は中年になり、やがて初老を迎え、とうとう老人になってしまった。
会社も退職し、身寄りも無く、酒で寂しさを紛らわせる毎日。
そんな生活を続けていて、年老いた体に、ついにガタが来た。
ベッドに横たわったまま、もう起き上がることもできない。
あぁ、これが死ぬということか。
目を閉じ、どこか他人事のように最期のお迎えを待っていると。
バキンと、玄関の方から何かが破壊されるような音が聞こえてきた。
え? なんか壊れた? なんて、朦朧とする意識で混乱していると。
ツカツカと、こちらに近寄ってくる足音がして。
そうして、来訪者が僕の傍まで来て、こう言ったんだ。
「やぁ。相変わらず、キミは死人みたいな顔をしているね」
それは、何よりも聞きたかった声だった。
ゆっくりと、閉じていた瞼を開く。
「そりゃ、死にかけてるからね……」
――声の主は。
――あの頃と何ら変わらないまま、美しい姿をしていた。
「まったく。ちょっと会わないうちに、随分と酷い有り様じゃないか。年老いたキミも渋みがあって素敵だけれどね。どうせ、お酒ばかり飲んでいたんだろう? これだから、キミにはボクがいないと駄目なんだ」
やれやれ、と嘆息する悪魔は好き放題な事を言っている。
人がどれほど待っていたと思っているのか。どんな気持ちで、この瞬間を待ち望んでいたと思っているのか。
文句なら山ほど浮かんだけど。
「もう、大丈夫なのか……?」
口から出たのは、まずは彼女を心配する言葉だった。そりゃ、そうだよな。だって、ずっと待ってたんだもん。
「あぁ。待たせて、すまなかったね。もう何も心配無いとも。ボクはこの通り元気一杯だし、それに、神々全員を泣いて謝ってくるまで張り倒してきたからね。当分、オイタはしないだろうさ」
そっか、それならいいや。何よりも、彼女が無事だったんだから。
「ところで、なんだけれどね。ねぇ、キミ」
真っ赤な瞳を歪ませながら、とっておきの話をするように彼女は言った。
「何か、して欲しい事はあるかい? 待たせてしまったお詫びだ。本当はルール違反だけれど、どんな願いだって聞いてあげるぜ?」
それはとても悪魔らしい、誘惑の言葉だ。
大きく腕を広げ、啓示を与える神のように。彼女は言葉を紡ぐ。
「なんでも願いを言うといい。不老不死だろうが、尽きぬ財宝だろうが、あらゆる願いを叶えてあげようじゃないか」
けれど、僕の願いなんて、昔から決まっている。
僕の願いは。
「そこの箱を、取ってくれるか……?」
「……? これのことかい?」
「開けて、みてくれ」
「……キミ。これは……」
箱に入っているのは、あの日、渡そうとして渡せなかった物。ずっと、伝えたかった想い。
「……なんだい、キミ。こんな物を渡されちゃあ、また、対価を貰い過ぎてしまうじゃないか……」
それは、銀色の質素な指輪。当時の給料3ヶ月分の、チャチな安物。
それを見つめる彼女の真紅の瞳から、透明な雫が流れた。
「長いこと待たせて、悪かったな……」
「構わないさ。お互い様だし、ボクとキミの仲じゃないか」
そう言って、僕を何よりも大切にする、僕の何よりも大切な人は。
そっと、僕に口づけをした。
――あぁ。きっと、
――ずっと、この
僕と悪魔の駄弁り合い ~プリーズ・キス・ミー・ソフトリー~ わきゅう @omega1985
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