第3話 風邪を引いた僕と悪魔の君
「はい……。はい、申し訳ありません……。熱が38度まで上がりまして、はい……」
朝。時刻は8時半より少し前。一人暮らしの自宅のベッドから、僕は上司に連絡を取っていた。
「はい……。はい、すみません。失礼します……」
朦朧とする意識で、厭味ったらしい上司の小言を聞き流し、ようやく電話を終えた。
本来は病院で診てもらうべきなのだろうが、この熱では移動するのも困難だ。もうさっさと寝てしまおう。そうしよう。
1Kの部屋から出て、キッチンで水を入れる。さて、薬箱はどこへ仕舞っていたか、なんて考えていると。
――突然。
すぐ近くにある、玄関のドアが乱暴に開け放たれた。
「愛しのキミの危機を感じたッ! まだ生存はしているかい!?」
そこに居た女性は。
くすんだ金色の
最近なんだか会う頻度が多くなっている、一歩間違えれば痴女のようなボンデージ姿の悪魔がそこに立っていた。
「あぁ、なんてことだ! 物凄く辛そうじゃないか!? 邪魔をしてくる智天使や熾天使や全能神やらを色々と薙ぎ倒しながら、急いでコチラへ来て良かった! さぁ、もう安心だよ! このボクに、全てを委ねて――」
無言でドアを閉めた。
鍵をかけ、念のためチェーンロックもしっかりする。
……ふぅ。
随分とリアルな幻覚を見てしまった。これは、思っている以上に重症なのかもしれない。さっさと休むことにしよう。
そう考え、ドアに背を向けると、バキンと、何かが破壊されるような音がした。
「……何故ドアを閉めたんだい?」
振り返ると、やっぱり悪魔がそこに立っていた。いや、ドアどうやって開けた。
「無論、腕力でだよ」
「せめて、魔法的な何かで開けてくれ……」
鍵とチェーンロック、粉々じゃねぇか。
「病人が細かいことを気にしてはいけないよ。よっと、お邪魔します。ほらほら、ちゃんと寝ていないとダメじゃないか」
指を鳴らして一瞬でブーツの紐を解いた悪魔は、脱いだ靴を靴箱の前に綺麗に揃えて置いた。
そこには魔法使うんだ……。
「おや? 何か言いたそうな顔をしているが、なに、感謝の言葉など必要無いよ。ボクとキミの仲じゃないか。……ところで、何故スマホを操作しているんだい? こんな時にまで電子機器の奴隷など、あまり褒められたものじゃないぜ?」
「いや。不法侵入者に対抗するために、警察の力を借りようと思って。あ、もしもし警察ですか? えっと、痴女みたいな恰好した悪魔がいきなり家に――」
「ていっ」
ピシッと、スマホを持っている方の手首にチョップをしてくる悪魔。軽い衝撃だったが、不意打ちだったのでスマホを落としてしまう。何しやがる。
重力に引かれたスマホが床と衝突する前に、器用にもう一方の手で受け止めて、彼女は勝手に人のスマホに語り出した。
「あぁ、いや。なんでもないんだよ。職務中、失礼したね。……うん? いやいや、『なんでもない』んだ。いいね、『なんでもない』んだ」
スマホから微かに、「……はい、なんでもない、です」と警官の声が聞こえてきた。
その声に満足そうに頷くと、悪魔は通話を切った。
「いや、何したんだよ。なんで、お巡りさんが簡単に納得したんだ」
「なに、大した事ではないよ。ちょっぴり、ボクの声に魔力を込めただけさ。極々軽い暗示のようなものだよ。さぁ。そんな些事より、今はキミの体調が世界のどんな事よりも最優先だ」
そう言うと、不法侵入者はグイグイと背中を押して、僕をベッドの前まで移動させた。
「何も心配せず、ゆっくり眠るといい。本当なら、魔法でキミを癒してあげられればいいんだけれど……。そういうのは天使共の領分なんだ。“願い”でもない限りは、ボクにはできなくてね。すまない」
「……構わないさ。こうして、見舞いに来てくれただけで御の字だ」
風邪を引いて体調が悪くなると、精神的にも弱ってしまう。だから、彼女が来てくれて、ちょっぴり嬉しかったのは本当だ。
「ふふ。そうかい、ならば良かったよ。安心して、おやすみ」
まるで慈愛に満ちた母親のような表情で、彼女はベッドの横にチョコンと座り僕を見ている。これは、僕が眠るまで見守るつもりなんだろうな。
観念してベッドに潜り込み横になると、すぐに睡魔がやって来た。自分で思っていたより、体は限界だったらしい。
瞼を閉じて、訪れた微睡の中で。
――夢を見た。
――懐かしい夢を。
まだ僕が学生だった頃。学校から自宅の安アパートに帰ると、決まって彼女が夕飯を作ってくれていた。
おかえり、と声を掛けられる。ただいま、と返事をして。
しばらく待っていると、彼女お手製の料理がテーブルに並べられて。
いただきます、と言って箸を手に取ると。召し上がれ、と彼女がニッコリと微笑む。
そんな、他愛のない日常。今考えれば、幸せだったかもしれない過去。
暖かな夕飯の湯気と香りが、僕を包み込んでくれる。
――ん?香り?
――夢の中で、匂いまで……?
ふっ、と目を開く。
窓の外は既に暗くなっており、部屋の電灯が点けられていた。
「おや、目が覚めたのかい? 今、お粥ができたところでね。ちょうど良かったよ」
「……ずっと、居てくれたのか」
何を今更、ボクとキミの仲じゃないか。なんて。優しく笑いながら、小さな鍋を運んでくる悪魔。
あぁ。彼女は、きっと。
いつまでも、こうして居てくれるのだろうな。
「卵粥を作ってみたんだ。
柔らかく、暖かな湯気と香りに包まれながら。
「いただきます」
そう言って箸を手に取る僕に。
「あぁ、召し上がれ」
悪魔は、ニッコリと微笑んでいた。
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