第2話 子供の時の僕と悪魔の君
「やぁ。今夜は良い月夜だね」
深夜。
片付けても片付けても終わらない残業に見切りをつけた僕は、終電で自宅の近くまで帰ってきていた。
住んでいるアパートがもう少しで見えるくらいの距離にある公園。この中を突っ切っていけば家までショートカットになる。
疲れ果てた体でトボトボと歩く僕に声をかけてきた女性は、公園の石造りのベンチに一人で腰掛けていた。
「……なんで、こんな所にいるんだ」
それは勿論、と返事をする顔見知りの女性。
くすんだ金色の短髪。捻じくれた長い角や、黒く禍々しい翼。機嫌が良さそうにパタパタと左右に振られる鱗に覆われた尻尾。紅い三白眼の瞳。やけに明るい月光が、相変わらず露出度の高いボンデージ風の服装から覗く肌を照らしている。
「キミに会えるかもしれない、と期待しながら月見酒を楽しんでいたのさ。偶には、缶チューハイも悪くないからね」
プラプラと、手に持った缶をこちらに見せてくる酔っ払い。
缶チューハイと言うよりは、缶ジュースにほんのちょっとアルコールが混ざっただけのような代物。僕には、甘過ぎてとても飲めないだろう。
「住所、教えた事あったっけ?」
「ボクはキミの事なら、何でも知っているのさ。愛の為せる業ってやつだね」
……酔っ払いの戯言だと、聞き流しておこう。
「しかし、良い月だね。この国の人達は、確か
月なんて、今まで気にした事もなかった。
見上げれば、成程、白くて綺麗な月が夜空に浮かんでいる。
「ねぇ、キミ。覚えているかい? ボクたちが初めて出会ったのも、こんな月の夜だったね。今のキミも魅力的だが、あの時のキミは、本当に素敵だった」
僕の記憶が確かなら。
その時の僕は、ただ泣きべそをかいているだけの、何の変哲もない普通の子供だったはずなのだけれど。
――それは、昔。
――三十年近く前のお話だ。
その夜は、確かに月が綺麗だった。
けれど当時、子供で、しかも泣きじゃくっていた僕に、お月見を楽しむ余裕なんてものは欠片も無かった。
悲しくて、哀しくて。
怖くて、恐ろしくて。
しゃがみ込んで、涙を流す僕の前に。
“悪魔”が現れたんだ。
「――キミ。こんな夜更けに、こんな所で一人で泣いているなんて、怖い怖い
その声は、美しかった。
そして凄く、優しかったんだ。
「……お姉ちゃん、だあれ?」
深夜。普段ならとっくにお家のベッドで寝ている筈の時間。
でも僕はベッドの中どころか、家からも離れた道端に居たんだ。
「ボクの名前かい? 今のボクの名前に意味など無いに等しいし、きっと
お姉ちゃんの言っている事はよくわからなかったけど、僕の名前を聞きたいらしい事は、なんとなくわかった。
だから、キチンと名前を伝えた。
「そうかい。少し変わった名前だが、良い名前じゃないか」
ニッコリと笑う“角”の生えたお姉ちゃんは、凄く綺麗だった。
「名乗ってもらったからには、名乗り返すのが礼儀というものだね。ボクの名は――」
そうして告げられるお姉ちゃんの名前は、僕にはよくわからない言葉だった。
「――変な、お名前」
「クックックッ。あぁ、確かに変な名前だとボクも思うよ。けれどこれには、涙なしには語れないような、とっても悲しい事情があるんだぜ? ――まぁ、そんな事よりだ」
お姉ちゃんは、とても楽しそうに。
まるで、とっておきの話をお友達に打ち明けるように、楽しそうにこう言ったんだ。
「ねぇ、キミ。その涙の原因を、ボクが“何とか”してあげようか?」
真っ赤なおめめが、歪んでいた。
「なんとか?」
「そう、“何とか”さ。“何とでも”とも言えるね」
両手と、背中の大きな黒い翼を広げて、お姉ちゃんは空を見上げた。
僕もつられて上を見たら、綺麗なお月さまが浮かんでた。
「
「……よく、わかんない」
怒られるかな、と思ってお姉ちゃんを見たけど、お姉ちゃんは笑ってた。
「クックックッ。まぁ、そう難しく考える必要は無いんだ。キミがして欲しい事を、ボクに言う。たった、それだけの“契約”さ」
僕が、して欲しい事……?
「さぁ、キミの願いは何だい? “ボクなら”何だって叶えてあげるぜ? キミに酷い運命を押し付けた
僕が、して欲しい事は……。
「さぁ、何なりと言うといい。遠慮なんてしなくて、いいんだよ。よりにもよって、ボクに。このボクに。出会ってしまう最高に最低な運命のキミが。可哀そうなキミが、遠慮なんてしてはいけないんだ」
一生懸命考えた。その間お姉ちゃんは、ずっと待っててくれた。
それで、僕がして欲しいって思ったのは。
「……手、を」
「うん? 手を?」
今度こそ、怒られるかもしれない。
嫌な顔をさせてしまうかもしれない。
けど、僕がお姉ちゃんに、ううん、誰かにして欲しい事は。
「手を、繋いでほしい、です……」
みんなが、僕を避けた。
お父さんもお母さんも、先生もクラスの子達も、みんな。
だから。
一度でいいから、誰かと、手を繋いでみたかったんだ。
「……」
お姉ちゃんは、難しい顔をして黙ってた。
困らせてしまったのかな。怒らせちゃったかな。また、嫌われちゃったのかな。
不安で、僕がまた泣きそうになった頃に。
「……それが、キミの願いなんだね? 本当に、何だって叶えられる願い事に、“それ”を願うんだね?」
そう尋ねるお姉ちゃんの顔は、すごく真剣だった。
「うん……」
やっぱり、ダメかな。そう思っていると。
ゆっくりと、お姉ちゃんは、手を出してくれた。
「血と暗闇と、あらゆる咎に塗れた手さ。こんな穢れきった罪人の手でよければ……。キミの好きに、するといいよ」
お姉ちゃんの言う事は、難しくてよくわからないけれど。
凄く、綺麗な手だった。
「あ……」
だから、僕は。
とても、嬉しくなって。
「ありがとう……!」
その時、初めて笑えたんだ。
ギュッと握ったお姉ちゃんの手は、柔らかくてスベスベしてた。ずっと、繋いでいたいくらいに。
お姉ちゃんの顔を見たら、お姉ちゃんも笑ってた。
「……やれやれ。このボクも、ヤキが回ったもんだぜ。うっかり、対価を貰いすぎてしまったよ」
「……?」
手を繋いだまま笑ってるお姉ちゃんの言う事は、やっぱりよくわからなかった。
「だから、これからキミの人生に起こる事は、ほんのサービスだ。捻くれた悪魔からの、ちょっとした贈り物って事にしておこうか。祝福と呪いなんて、紙一重のものだからね」
――そう言って、その“悪魔”は僕の人生を、狂わせた。
――狂わせて、くれたんだ。
「ねぇ、キミ」
昔の思い出から、ふと我に返る。
悪魔は、あの時とまるで変わらない笑顔で、僕を見つめていた。
「今夜は、本当に良い月だね」
――あぁ、そうだな。
――今夜は、月が綺麗だ。
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