第54.5話 レッテリオ・コスタンティーニのひとり言
「ふぅ……」
白く濁ったお湯に浸かると、ついそんな声が出た。
レッテリオ・コスタンティーニ、二十三歳。ヴェネスティ第二騎士団 ヴェネトス迷宮探索隊所属副隊長。
数日前に知り合ったばかりの女の子の家で、何故か風呂に入っています。
「迷宮明けに朝風呂とか謎すぎる」
本当に謎だ。
しかも今は朝。「一人暮らし(サラマンダーとケットシーはいる)の女の子の家で朝風呂に入ってきた」と言ったなら、大抵の人間に誤解を受けるだろう。
しかし全く、これっぽっちも、やましいことは見当たらない。
「なんて言うか……チグハグなんだよなぁ」
アイリスはちょっとおもしろい女の子だと思う。
城門まで馬に乗せた時や、街で手を引いた時には少しの緊張を見せていた。ならばと気安い子供扱いをしてみたら今度は不本意そうにする。
しかし迷宮では、無防備にローブを脱いで肩を見せるし、周囲に人がいるとはいえ野営で並んで眠ることに緊張を見せなかったし、その上こんな風に簡単に家へ招いて風呂に誘う。
今まで接したことのある女性たちと彼女の感覚は、違っているようでどうにもバランスが取り難い。
はぁ〜と息を吐き、猫足バスタブから手脚を出した。
肩まで浸かっていたら、思っていた以上に暑くなってしまった。
「……温泉バスボムのせいかな」
大きなバスタブにたっぷりと張られたお湯は少しもったりとした感触だ。そして溶けても尚残る独特の温泉の匂いと、きっとこれが錬金術師の腕と遊び心なのだろう。お湯に落としたバスボムからは炭酸だろうか? いつまでもパチパチと泡が立っている。はじける度に配合されたハーブや柑橘系の香りが匂い立ち、その心地良さに何度も「はぁ~」と言ってしまう。
「うん。泥臭さはない」
くん、と自分の匂いを嗅いでみた。
ああそうだ。さっきだってそうだ。よくもまぁ、あんな猫のように人の匂いを嗅いでくれたものだ。
思わずドキリとしてしまったことには苦笑してしまうが、あれはアイリスがいけない。
「俺がやったら絶対にマズイだろうに。アレは」
――ああ。
ああ、そうか。
もしかしてあの子は、俺からの接触には一応身構えるけど、自分からの接触には無頓着なのか。
王都でお相手していた十七歳といえば、初々しい部分もあれ立派な淑女で強かだった。こちらに来て関わった同じ年頃の女性たちも、仕事や家庭を持つ子もいて、大人として振舞っている。
だけどアイリスは、まだ子供のような無邪気な距離感のままで、自分を客観視することにも欠けているように思える。
迷宮の帰り道での、携帯食の話だってそうだ。
◆
「レッテリオさん、私のパン……本当に侯爵様に献上するんですか? 見習い錬金術師の手作りパンですよ?」
アイリスは不安そうな表情を隠さず、またそんなことを言う。
「アイリス、君の研究はすごいんだよ?」
「いやでも……ポーション効果はあるけど……西方の大領主ヴェネスティ侯爵ですよね? 雲の上の方に研究中のパン……」
「おいしいけどねぇ〜! ぼくのパン!」
「うん! イグニスが焼いてくれたパンは美味しいし、だからこそのポーション効果だし、でも……」
「大事になるのが不安?」
俺がそう言うと、アイリスは少し難しい顔をして頷いた。
「まだ始めたばかりのパン焼きだし、それに私の携帯食って、食事とポーションを一緒に飲むのとそんなに変わらなくないですか?」
「はは! 変わるよ。食事は必要不可欠。それにアイリスの携帯食は美味しい。食べて心身ともに癒されるんだよ? 迷宮ではもちろん——戦場では得がたいことだ」
戦場。
騎士である自分にとっては決して絵空事ではないその言葉に、アイリスは目を見開いた。
「まさか、戦争が起こるんですか……?」
「今すぐはないよ。ただ、ヴェネスティ侯爵領は国境に接してる。だから侯爵は携帯食への興味は大きいんだよ」
アイリスは完全に予想外だ! という顔をして、更に目を見開いて絶句してしまった。
◆
「アイリスは自己評価が低いのかな」
ポチャン、と白いお湯をはじき飛ばしてもて遊ぶ。
アンバランスに残る子供っぽさも、アイリスの環境を考えてみれば分かるかもしれない。
三年前に工房へ入ったそうだから、十四歳で故郷ドルミーレから西方最大の都市ヴェネトスへ出てきたことになる。故郷は大きくない地方の街。きっと産まれた時からの顔見知りばかりで、成人間近の年頃でも子供扱いをされていたのだろう。
成人を迎えても、工房の教師は女性で同期も同性ばかり。街には不慣れだったし、迷宮も今回が初めて。
彼女はほとんど工房の森から出なかったのだろう。
彼女の世界はとても狭く、女性ばかり。しかも見習い錬金術師——学ぶ事が仕事の学生だ。
きっとまだ、アイリスは大人の階段も上り途中なのだろう。
クスリと、つい笑みがこぼれてしまう。
まだ半人前で、がむしゃらで無邪気で一生懸命で――。
「かわいいな、なんて久しぶりに思っちゃったなぁ」
思わず。スルリとそんな言葉が口から漏れ落ちて、バシャンとお湯で顔を拭った。
ぬるりとする白濁の湯は肌にも良いと言ってたし、こうするのは動揺したからなんかじゃない。
頰が熱いのも、きっとこの温泉のせいだ。
「あつい……」
浴槽の縁に腰掛けると、壁際に並ぶ色とりどりの石鹸類が目に入った。窓にはきっとこれも実験と練習の成果なのだろう、色硝子が嵌め込まれ、魔石が取り付けられたシャワーもある。
ここを造った教師の好みなのか、錬金術師とは皆こうなのか……いや、違うな。俺がよく知っている錬金術師は、風呂に入る時間があるなら物騒な実験をするか寝るかの極端な二択だ。
ここの主の好みなのだろう。しかし、風呂に入る習慣のあるこの国でもここまでの充実ぶりはなかなか見るものではない。
それにアイリスに渡されたこの『温泉バスボム』はちょっと驚きのアイテムだ。
こんなにも温泉を再現して、更に進化させているなんて、彼女の故郷にいる錬金術師はどんな人物なのだろう? お土産にと言っていたけど、上手く王都で売り出せば人気の商品になるだろうに。
「ドルミーレかぁ」
王国の西北の端、火山のあるあの土地には古い古いお伽噺がある。
あまりにも古くて、もう語り継ぐ者も知る者も少ないと聞く。
「ドルミーレの
それも、あの愛らしい姿のイグニス。
偶然なのかドルミーレだからなのか。
「まぁ、考えても分からないか」
イグニスは良い精霊だし可愛らしいし、その契約者はアイリスだし……きっと何も心配はいらないだろう。
「アイリスとイグニスに出会えて良かった……」
アイリスの当面の目標が来年の錬金術師承認試験ならば、彼女に残された時間はあと一年。
その間に彼女に携帯食を依頼して、出来るだけの成果を上げてもらって、そして俺は深く迷宮に潜り探索をする。
それがベストであり、お互いの為になる。
「運が良いのか悪いのか――」
ヴェネトスに来て騎士団に入って一年半。手探りすぎて遅々として進まなかった迷宮探索も、引退したはずのバルド副隊長の手も借り何とか進んでいる。
迷宮探索隊にもようやく新人を割り振ってもらい少しの余裕ができた。
「早く
これは何の溜息なのだろう。
「あと一年かー……」
俯くと、吐息と雫が波紋となって、真白の湯をじわりと揺らした。
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