第46話 ヴェネトスの迷宮・第三層 蝶の甘水

「ねぇねぇアイリス〜ハリタテハってどんなの〜?」


 レッテリオさんの肩に乗ったイグニスが私を振り返る。


 ああ、そうか。玻璃立羽の羽の調合は火を使わない。だから立ち会ったことの無いイグニスは、あの便利な必需品のことを知らないのか。


「透明だったり、ちょっと不思議な色をした蝶々でね、その羽は錬成陣を描く時に使うインクや糸に混ぜて使うの。陣を長持ちさせる為の『定着液』になるんだよ」

「ふ〜ん……? でも〜……羽、むしっちゃうのぉ?」

「まさか! そんな事しないってば! 採取するのは落ちた羽だけ!」

「な〜んだ〜! それならよかった〜〜ぼくちょっと心配しちゃった」


 ほぅ〜と胸を撫で下ろしたイグニスは、微笑むレッテリオさんと「レッくんも安心したでしょ〜? ……えっ? 知ってたの〜〜??」なんて会話をしている。


 玻璃立羽ハリタテハ――。

 迷宮にだけ生息するこの蝶は、その名の通り、水晶のように透き通った羽を持っていて、年に二度、その羽を生え替わらせる。

 生え替わりの時期は夏前と冬の前。時期が来ると古い羽をポトリと落とし、ほんの五分刻で新しい羽を生やすのだ。

 季節で羽を替えるその様は『衣替え』に似ているので、そのまま『玻璃立羽の衣替え』と呼ばれている。


「レッテリオさんは玻璃立羽の住処に行ったことあるんですか?」

「何度かね。俺は羽目当てじゃなくて『蝶の甘水あまみず』目当てでね」

「ああ! 美味しいって聞いたことはあるけど私は口にしたことないんですよね〜! それも楽しみ……!」


『蝶の甘水』というのは、そのまま『甘い水』のこと。

 特に清浄な水を好む玻璃立羽にとって、このヴェネトスの迷宮第三層はうってつけの住処だったのだろう。

 そして玻璃立羽の主食は、もちろん甘い蜜。辺りに咲き乱れる花々や、木の樹液を吸い、住処である泉の水を飲む。

 その繰り返しの所為か他の要因からなのか、玻璃立羽の住処の水はほんのり甘く、探索者たちの楽しみとなっているらしい。


「この第三層は水の補充にも使われるんだけど、普通の水と甘水の両方を取っていく人間が多いくらいには美味しいよ? ところでアイリス、水筒の予備はある?」

「残念ながら……」


 日帰りだし、スープの水筒も持っていたのでさすがに予備の水筒までは用意しなかった……! わたし、一生の不覚!


「そんなアイリスに朗報です……」

「えっ」


 レッテリオさんは腰のバッグから水筒を覗かせて見せ、微タレ目のウィンクを。


「便利なバッグだろう?」

「ありがとうございますー! あ! これ料理にも使ってみたいので、できれば大きい水筒を貸してください!!」


「甘い水〜♪ ぼくたくさんのむ〜〜♪」


 イグニスのご機嫌な歌は、泉に着くまでずっと聴こえていた。



 ◆



「うそ……!」


 そこには、目を疑わんばかりの光景が広がっていた。


 小さな泉の周りを飛ぶ蝶のその下、草花が生い茂る地面に落ちた無数の羽がキラキラと光り輝いていたのだ。

 それもただの光じゃない。


「こんなに虹色の羽があるなんて……!!」


 玻璃立羽の羽は、水晶と同じく様々な色がある。最も多いのは半透明の乳白色や、透明のもの。それから紫に赤、青、黄色……美しいものばかりで、素材としてだけでなく、観賞用や装飾品にも使われるくらいだ。


 私たち錬金術師にとっては透明の羽が一番使いやすい。だけど、あまり使い勝手の良くない色付きの中でも虹色、それだけは別とされている。

 虹色の羽は含まれる魔素が多く、品質効果も高い。だがとても珍しく貴重なので、滅多に……と言うか、普通の錬金術師がお目にかかれることはまず、ない。

 狙って採取をできるものではないし、玻璃立羽の飼育も出来ない。だから店に並べばびっくりする程のお値段になるのだ。

 どのくらい高価かと言うと……見習いの庶民には全くピンとこない額だった、とだけ言っておこう。


「これは……すごいね。『衣替え』の時期にはちょっと早いと思ったけど……アイリスはツイてるのかな」

「ちょっと……ツキ過ぎてて怖いくらいです。だってこれ……ほとんど虹色ですよ?」


 その価値やお値段を考えると、嬉しさよりも引きつった笑いが出てしまうし、『虹色』を拾い上げた指なんて、ちょっと震えてしまった。


「今日は俺たちだけだったのもツイてたね。無用なトラブルにならずに済んでよかった」

「……確かに。本当になんでこんなに……。蝶の数はいつもこのくらいなんですか?」

「そうだね、数に変化はないと思う。ただ……魔素の様子がちょっと気になるな」

「魔素が?」


 そしてレッテリオさんは改めて辺りを見回し、僅かに眉根を寄せて言葉を続けた。


「アイリス、ここでの採取は早めに終えよう。出来れば地上に戻った方が良いかもしれない」


 私よりも迷宮を知り、護衛でもあるレッテリオをさんにそう提案されれば私はそれに従う方が良い。


「わかりました」


 私は急ぎ採取袋を広げ、羽拾いを開始しした。





「レッくん〜なんだか蝶たちが騒ぎはじめてるよ〜」


 頭や背に蝶を乗せたイグニスが、ふよふよと飛び寄る。


「うん……ちょっと良くない感じがするね」

「んん〜? あれぇ?」

「イグニス?」


 イグニスにとまっていた蝶たちが一斉に離れ、他の蝶も急に羽ばたくのを止め水面に降りだした。


「……えっ」

「アイリス、レッくん、魔素がおかしいよ! すご〜〜い濃くなって渦巻き出してる〜!」


 その時だった。


 ドドドドドッ……!!!!! っと、突然の地鳴りと共に地面が揺れ、空が暗くなり星が出たと思ったら今度は夕焼け空が広がった。


「きゃ……!?」

「レッくん! アイリスつかまえて〜!」


 私とレッテリオさんの距離はほんの二メトル。だけどあまりの揺れに立つことができず、私はぬかるむ地面に膝をつき、採取袋を握りしめていた。


「アイリス!」


 揺れと共に足下のぬかるみが酷くなった気がする。あれ? もしかしてこれ、私沈んでいってない?

 まずい。と思った刹那、背中から強い力で抱き締められた。


「アイリス、俺が支えてるから動かないで! 下手にもがくと沈んでしまうから」

「……ッ、はい……!」


 沈むって何事!? 湿地帯だけどここは沼じゃなかったのに……!


 チカチカと、まるで紙芝居をめくるように色を変える空。一体なにが起こっているのだろう? これは何?

 混乱する私は言われた通りじっとして、レッテリオさんの腕にしがみつくだけ。イグニスも私の肩に飛んできて「だいじょうぶだよ〜!」と言い私に頬擦りをしてくれている。

 ああ、イグニスのぷよぷよした冷たいほっぺが可愛くて愛おしい。そんな風に思ったら、途端に心が落ち着いた。



 そして。ドーーーーン……! と、最後にひとつ大きな音を響かせて、地面の揺れは収まった。


「アイリス、今引っ張り出すからちょっと我慢して」

「は……い、っうわ!?」


 レッテリオさんは脇の下に腕を入れ、私を背中から抱えるようにして、一気に泥から引き上げた。


「大丈夫? あー……ドロドロになっちゃったね。怪我はない?」

「う、ん。はい。怪我はないです!」


 ああ、だけどレッテリオさんまで巻き添えにしてしまった。私もレッテリオさんも腰あたりまで泥んこで、あちこちに跳ねている。顔なんて、乾いたら泥パックになりそうだ。


「それにしても……今の、何ですか?」

「……正確には分からないけど、迷宮が変化してるのかもしれない」


 見上げると、さっきまで青空だった空は、赤紫色の逢魔が時に染まっていた。

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