第3話 グリーンのロングベスト
ホールは、若者たちで一杯だった。
対になって、踊りに興じている。
しかしその誰もが、視線を合わせようとはしていない。
互いの斜め先に視線を置いて、踊りに興じている。
これも又、少年の思い描くものではなかった。
少年の観たアメリカ映画では、じっと互いの目を見詰め合っている。
時に微笑みを貰い、そして微笑みを返す。
しかしこの場では、苦痛に歪んだ表情を見せ合っている。
羨望、軽蔑、そして憎悪が睨みを利かせている。
それも又、愛の起源ではあろう。
バンドは、一段高いステージの上にいる。
激しく体をくねらせながらプレイしている。
そのステージの下段に、何のためのものか判然としない鏡が貼られている。
その中で若者たちが、やはり体をくねらせている。
その鏡から視線を外して壁に移る。
そこには、種々のグループサウンズのポスターが貼ってある。
べたべたと貼り付けてある。
そしてその下には、熱狂的ファンなのだろうか、殴り書きがある。
大半が、‘○○命!’であり、シンプルに‘好き!’もあった。
もう一度バンドに目を向けると、激しく動くスポットライトの中にも、等身大らしきポスターが何枚も貼ってある。
黒のマントに身を包んだ、ザ・ビートルズだ。
神として崇められている、ザ・ビートルズが。
「リンゴの半テンポずらすリズム感が良いんだ。」
「ジョン・レノンのシャウトは絶品だ。」
「ポールだって、光ってる。」
四人組のはずなのに、三人の名が飛び交う。
ジョージ・ハリスンの名が出てこない。
更には、リンゴ・ポールと呼び合うのに、ジョン・レノンだけがフルネームだった。
しかし少年は興味を示さない。
少年のお気に入りはプレスリーであり、アニマルズだった。
‘朝日の当たる家’に聞き惚れている少年だ。
ミリタリールックのビートルズを好きになれない少年だが、お気に入りの‘Twist & Shout!’がビートルズの楽曲だとは知らないでいた。
曲が変わった。ステージの上で、ボーカルが飛び上がっている。
「それじゃ、リクエストに応えていくぜ!
Let's go , Twist & Shout!」
思いもかけぬ曲名が告げられた。
ステージに体を向けた少年の目に、ホール中央で膝を落として体を左右に振り振りする若者たちが目に入った。
“あれが、Twistと呼ばれる踊りなんだ。”
“バンバン、ババババンバンバババ、バババジャーン!”
“ヴィー、ヴィヴィヴィー、ティーピーヴィピーティーン!”
“チャキチャキ、チャチャチャキー!”
“ブンブン、ボンボンブンボンブンボン、ブブブ、ボボボン!”
髪を振り乱しての女がいて、くわえタバコに目をしかめる男も。
シャツの袖口が青白く光り、激しく左右に。
落下傘スカートの裾をなびかせる女がいれば、皆がしゃがみこむ中で躊躇しているミニスカートの女がいる。
二階のボックス席を宛がわれた少年は、彼らの踊りを見下ろしていた。
幾分神経も慣れ始め、耳も騒音と感じなくなっていた。
しかし、思い描いた世界との落差に失望して、ここに足を踏み入れた理由を忘れてしまった。
少年の上げた手に気付いた黒服が、コーラの注文を受け付けた。
ここには階下の光の洪水はない。
音も階下に比べられば、抑えられている。
この階上は踊り疲れた者たちの休憩場所としての役目を帯びているようだ。
そしてもう一つ、メイクラブの場としての役目も。
あちこちの席に、ひそひそ声がある。
重なり合う頭もある。
カウンターに陣取っていた彼を、なぜこの場に移したのか、少年は戸惑うばかりだ。
キョロキョロと辺りを窺うわけにもいかないが、気になり始めると目が右に左にと激しく動き回る。
そして、奇異な二人連れを発見した。
ステージ近くのボックスに、女二人が陣取っている。
時折黒服が近寄っては、話に興じている。
どうやら常連客らしく、時折“キャハハ!”と嬌声を上げたりしている。
一人が常連らしく、もう一人は俯いていることが多い。
時折頷いてはいるが、興に乗っているわけではないようだ。
少年のボックスからは、その女の横顔がしっかりと見えた。
少し体を傾ければ、姿全体が見えた。
赤いミニスカートにグリーンのロングベストを身に着けている。
おかっぱ風に前髪を揃えて、横髪で耳を隠している。
クレオパトラを思わせる、髪型だ。
際立った美人でもなく、愛くるしさに溢れているわけでもない。
何の変哲もない、普通の女だった。
が、少年の目が捉えるその女の手には。
すらりと伸びた細い指が、少年と同じくコーラを手にしている。
Coca_Colaという文字の入ったコップは、まさに少年が手にしているコップだった。
大事そうに抱えるそのコップの文字が、少年の目にグングン迫ってくる。その服装にはとても似つかわぬコーラ、それが少年には妙に生々しく感じられた。
異国の地で出会った同郷人に見えた。
そしてコップを持つ仕種は、いつでもどこでも見かける仕種だ。
なのにこの時この場における仕種が、少年の胸をざわつかせる。
原色の服と同様に、厚化粧に見える。
きついアイシャドウに隠された瞳の輝きが、少年には眩しい。
鼻筋を高く見せるための陰、ベージュ色に見える唇、何もかもが少年の胸を高鳴らせる。
グリーンのロングベストの下で、フリルの付いた真っ白いブラウスがキラリキラリと光っている。
そしてその下は、ミニスカート。
鮮やか過ぎる真っ赤なミニスカート。
少年の心を燃え上がらせている。
週刊誌のヌード写真も映画のラブシーンでも、これ程の早鐘は経験していない。
少年の目は女の手に縛られて、少年の意には添わなくなってしまった。
少年の心は、少年から離れてしまった。
女の手が膝の上に置かれる。
少年の視線が、女の膝小僧に移る。
少年の目が、桜色に輝き眩しく光る膝小僧にくぎ付けになってしまう。一瞬時、少年の意識が遠のく。
そして我に返ると、視線の先に膝小僧が。
遠のく、我に返る、膝小僧が。
それが、幾度繰り返されたことか。
女の視線が、少年を捉える。口にしていたコーラに思わずむせぶ少年。
視線を落として、女の光線から逃れる。そしてまた女を…盗み見る…。
女の熱い視線が、少年を捕らえている。慌てて視線を落とす。
再び視線を向ける。と、女の熱い矢が少年を襲う。
耳に鳴り響く鼓動に急かされるように、少年が語りかける。
否、語りかけようとした。
しかし、非常にも女の視線はもうなかった。
少年の語りかけに応えることなく、階下のバンドに視線が向けられていた。
手にしているコーラを、一気に流し込む。
ジンと喉にくる刺激の快感ですら、少年をいら立たせる。
長い長い、少年の煩悶が続いた。
“どうして……なぜ……どうする……どうやって……どうして……なぜ……”
悲しいことに、何をどう煩悶しているのか、少年には分かっていない。
言葉だけが堂々巡りしている。
少年の視線の先にいる女は、食い入るようにバンドを見つめている。
“ほら、ほら、待ってるんだぞ。
ほら、ほら、待ってるんだぞ、”
煩悶が、いつしか逡巡に変わっていた。
靴のかかとが、コトコトと音を立てている。
よしっ! と、握り締めた拳も、すぐに力が抜ける。
気を取り直しての力も、かかとが床に着くと同時に緩んでしまう。
バンドが交代している。
身を乗り出さんばかりだった女も、ストローを口に運んでいる。
バンドのボーカルが、マイクスタンドを蹴っては、がなりたてている。
素っ頓狂な声を張り上げている。
シャウト! と、何度も叫んでいる。
ホールで踊りに興じる若者も、シャウト! と叫んでいる。
ボーカルに合わせるように、拳を振り上げている。
少年が立ち上がった。
しかし逡巡は続いている。
帰られるのだ、このまま何事もない顔をして帰ることができるのだ。
しかし少年の足は、あの女の元に動いた。
手足のない達磨の少しの歩みではあっても、確実に少年の歩は進んだ。
亀のようにのろい歩みではあっても、確かに女の元へ。
少年には永遠の時間のように感じた、その道のり。
話に興じるアベックたちの間延びした声が、少年の耳に届く。
バンドの音楽も回転数を間違えたレコード音の如くに、間延びして聞こえる。
少年が立ち上がって、ものの五、六秒。
三つのテーブル先に陣取っていたあの女が、今まさに目と鼻の距離にいる。
そして階段も。
「あのお……」
少年は、自分でも信じられない程に容易く女に声をかけた。
つまりつまりながらも、少年が女に話しかけた。
訝しげに見上げる女に対し、精一杯の真心を込めて話した。
付き添いの女の雑音にはまるで耳を貸さず、ひたすら女に向けて発信した。少年の熱い目線を避けて俯くだけの女に対して、異国の言葉で語り続けた。
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