第2話 陶酔する

入場料を支払って始めて、幻想の世界へと入ることができる。

そして二重合わせの幕の間を抜けて、ミラーボールから発せられる色とりどりの光線の洗礼を受ける。

ここでたじろぐことなく、少年は歩を進める。

黒服の男は幕の外からは中に入らない。

ここには二度目となる少年は、迷うことなくカウンターへと向かう。


「いらっしゃい!」

バーテンの声が、少年の耳に心地良い。

常連客を迎えるが如きの声掛けが嬉しい少年だ。

といって、初めての時にも同じように声掛けがあったけれども。


「どうも。」

カウンターの隅に進む。

いかにも常連客が座る席の筈だと、少年は考えている。

しかし今夜は先客がいる。

ブランデーらしき、大きなグラスを傾けている女がいる。

一つ二つ席を空けてと考えた少年に、バーテンが言う。

「すみませんね、お客さん。

女性のお隣で良いですか? 

今夜は満員になりそうなんで」


ドギマギしながらも、

「失礼します」

と女に声を掛けて座る少年だ。

しかし女からは、何の反応もない。

壁に寄りかかりながら、目を閉じている。

眠っているわけではないようだ。

かすかに指が動いている。


「何にします?」

「コークハイ、ください」

「はいよ! コークハイ、ね」


突然、女の目が開いた。

そして、軽蔑の眼差しを少年に向けた。

“コークハイですって! ふん、お子ちゃまね。”

少年の耳に、女の声が聞こえたような気がした。

しかし少年は無視する。


差し出されたコークハイを半分ほど飲み込むと、ジンと快い刺激が喉を襲う。

ゆっくりとグラスをカウンターに置くと、耳に入り込んでくるバンド演奏に聞き入る。

そしてそのジャズ演奏に、身を委ねる。

少年の体に染み入ってくる生のジャズに、次第に陶酔していく。


そしてそのジャズが、少年の手足を動かし始める。

演奏に合わせて、小さな動きから次第に大きく体が波打ち始める。

その様はまさしく、猿回しの太鼓に踊らされる猿のようにぎこちない。

それでも、目を閉じて聞き入る少年は、大人の少年がそこにいると思っている。


正直、少年はジャズを知らない。

聞く機会もなかった。

年上の、大人たちの会話の中で飛び交うズージャという言葉。

カタカナ文字の名前。

少年を取り囲むのは、大人の歌う歌謡曲だ。

しかしジャズが黒人の心の歌である限り、同じく虐げられた者に響く何かがある筈と、少年の期待は大きかった。


隣の女が少年に声をかける。

少年は、さもジャズへの陶酔の妨げだと言わぬばかりに不機嫌に答える。

一転して媚びるような目線で、少年に話しかける女。

少年がタバコを口にすると、すぐさま火を点ける女。

至極当然と言った風に受ける無表情の少年。

ゆっくりと深く吸い込み、ゆったりと吐き出していく。


その煙の中の女に、少年は初めて笑みを投げかけるーポツリポツリ……とうとう雨が降り出した。

巡らせていた夢想を、何の前ぶれもなく破られた少年の心は泣いていた。

重い扉を押して、幻想の世界へと入る。

光と音が暴力的に支配する世界、色とりどりの光がミラーボールから発せられている。

激しい音が、壁と言わず天井にそして床に、激しく叩きつけられている。


“バババ、ドンドドドドン!”

“チキチョン、チキチキチキチョン、チョン!”

“ブンバンバンブンブンブンバン!”

“ティーヴイィィ、ディーー、チューン、ティティーー!”

“あの娘が、あの娘が、云ったのさー!”


扉を開けたとたんに、少年の耳に飛び込んできた。

少年には、騒音としか聞こえない。

ロック音楽と称されて、同年代の少年たちが狂喜している。

しかし少年には、どうしても異質な音楽だった。

シャウト、シャウト! と歌うが、大声で叫ぶことに何の意味があるというのか。


バズトーンと称される重低音が、お腹にズンズンと響く。

ピックで弾くはずのギターで、

“チューン、ティティーー!”

という音を出すのが理解できない。

「大人のジョーシキは俺たちのヒジョーシキ! 俺たちのノーマルは大人のアブノーマル!」

とボーカルがうそぶく。

少年には上すべりに聞こえる歌詞が、持てはやされる世界へ。

“Wellcome to Rock’n Roll!”


そこには少年の思い巡らせた世界はない。

色とりどりの光を発するミラーボール、壁と言わず床そして天井に容赦なく叩きつける強烈な光。

それが、もうもうと立ち込めるタバコの煙に取って代わられている。

その煙に色があり、赤、青、そして白とさまざまな色だった。

しかし濁った色でしかなかった。

そして光ではなく、色でしかない。

少年の心には投影するもののない、色だった。


 少しの間、己の夢想とのあまりの落差に立ち竦んでしまった。

 戸惑いの中でも、容赦なく現実が襲いくる。

「お客さん。ここでチケットをお求めください。一杯の飲料代も含まれています。追加の場合は、黒服にその旨お伝えください」

「えぇっと、それじゃ…コーラを一つ……」

「ご注文はお席に着かれてからお願いします」


 常連客を装うとした少年。

 顔を真っ赤にして、チケットを手にして、キョロキョロと見回す。

少年の心が告げる。“カウンターだ、カウンターの隅っこに行け!”しかし、少年の足は動かない。

 黒服が少年の前に現れた。

「お客さん、こちらにどうぞ。お連れ様はいらっしゃいますか?」

「い、いえ。今夜は一人です。この間は……」


 友人に連れられて来たのだと言いかけて、言葉が詰まってしまった。初見の客だと見抜かれていることを、さすがに認めざるをえない少年だ。第一、二度目三度目がどうだというのか。

つい苦笑いをしてしまう。

「申し訳ありませんが、お一人様ですとカウンター席をお願いしていますが」

「良いです、そこで。端が空いていれば、端っこで良いです」

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