ブルーの住人 第2章 ブルー・れいでい

としひろ

第1話 腹立たしいもの

見上げる空のどこにも星はなく、月もない。

隙間なく覆いかぶさる、雲雲雲。

何層にも重なる雲からは、今にもぽつりぽつりと雨が降りそうだ。

少年の心内を映し出している空模様だ。

一点の晴れ間もないその闇空ー一点の曇りもないその闇空の如くに、少年の心は沈みきっていた。


どこからともなく、静かに一筋の糸となって降る雨、少年は好きだった。

切っても切っても、それは糸として連なる。

そして次には、ボトリボトリと水滴となっている。

そして又、糸の色だ。

透明であるはずなのに、白となり或いは銀色に輝く。

赤になり青になることもある。

辺りが発する光を体全体で受け止め、それに浴されながらも、それ自体が美しいということが良い。

そう思う、少年だった。


しかし今夜の少年には、何もかもが腹立たしかった。

降りそうで降らない雨、少年には腹立たしい。

そして雨が降り出したとしたら……やはり腹立たしく感じるだろう。

まとわりついている湿り気が、少年の衣を重くする。

じとじとと攻め立てる湿り気が、少年の体を重くする。


闇空が腹立たしい。

月の出ていないことが腹立たしい。

星も瞬いていないことが気に障った。

そしてこの闇空の下において、目映いばかりのネオンサインの溢れる街。

月明かりを拒否するがごとくのネオンサイン。

風流風情のないことが当たり前の、この歓楽街。それが腹立たしい。


色とりどりの華を咲かせるネオンサイン。

赤あり紺あり緑あり、はては黄ありのネオンサイン。

少年の心の憂鬱さにくらべて、あまりに華でありすぎる。

それに染まらぬその中に溶け込めぬ己が、少年は腹立たしかった。

良い子であり過ぎた、己の過去を忌まわしく感じている。

優等生の己が腹立たしかった。


川の中に投げ込まれた石でもって波紋を呼んだとしても、その後に来る平穏な水面を考える時、不安だった。

この快楽の巣である街にたった独りでいることが、そこに溶け込めないことが、何よりも不安だった。

そしてその不安は、うろうろとうろつく野良犬が出現すれば、少年の独歩の意味が跡形もなく消え去るかと思える不安だった。


しかし幸か不幸か、この街には、腹を空かせた狼はいても残飯を漁る豚はいても、野良犬はいない。

まして少年はいない。

同世代の少年たちに、お子ちゃまと揶揄される少年はいない。

どんなに大人を演じても、決して認めてはくれない。

どんなに大人の型ータバコ・酒と進んでも、お子ちゃまと揶揄されてしまう。


濃茶のストレッチズボンに濃茶のコール天のスポーツシャツ、そして薄茶のコール天のブレザー。

更に靴は濃茶と、茶色が大人のシンボルだとばかりに全身を茶系色で統一した。

ラフなスタイルにと気を使い、シャツのボタン上二つを外している。

それが大人のスタイルだと信じて。


いかにも遊びなれた男を演じるべくーその実、遊び人の表情を知らないけれどもー口を真一文字に結んでいる。

ニヤけた顔にならぬようにと気を付けながらも、薄笑いを浮かべた表情をと考えている。

そして、眉をひそめて“ふん”と鼻をならすことを忘れぬようにしている。


時折、店の前にたむろするホステスが少年をからかう。

「ねえ、ボーヤはもう寝る時間でしょ」

少年はできるだけ平静を保ちながら、手を二度横に振る。

二度でなければならぬ、と決めている。

銀幕のアクションスターがスクリーンで見せた仕種が、目に焼き付いている。

 


意固地なまでに、頑なな表情で通り過ぎる。

それはいかにも滑稽だった。

少年をお子ちゃまと呼ぶ級友たちに見られたならば、

「お子ちゃま、お子ちゃま」

と、また囃し立てられるだろう。


酔っ払いが少年をからかいつつ、すれ違っていく。

「お兄さん、今夜は誰を泣かせるつもりだい?」

しかし少年はそれを、遊び人と見られている証拠だとほくそえむ。


少年の足が、大通りから裏通りへと向く。

細長いビルが立ち並び、バーやらスナックやらの看板が目に入る。

そしてその中の一つのビルで止まった。

濃茶のガラス戸で、取っ手が鈍い銀色に光っている。

そしてアクセント的に右の上部に、小さく鏡のように反射する銀文字で[パブ・深海魚]とある。


少年の心が、期待に大きく膨らむ。少年の手がドアを押す。

そこは、光と音の調和良く構成された世界への入り口だ。

まず赤い縁取りがされた漆黒のビロード地の幕が、少年を迎えてくれた。

「いらっしゃいませ。」

慇懃に礼をしながら黒服の男が声をかけてきた。

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