第172話羅針盤の贈り主
船の中でも一番に低い甲板からこちらを見下ろす、一人の男性。
逆光でよく顔が見えない。けれども彼が、ひゅう、と軽快な口笛を鳴らしたのが分かった。
まさか彼も、ヴィセルフが"王子"だとは知らないのだろうか。
不敬も不敬な態度にあわわ、とヴィセルフを見遣ろうとした、その時。
「ヴィセルフ様じゃねえっすか! オイ、野郎ども! 我らがボスのお出ましだ! 挨拶しろ!」
「ヴィセルフさまぁ~っ! おらあ、あんなうめえイモのパイは初めて食べやしたー!」
「今回の積み荷も完璧でしたでしょう!?」
「きーてくださいよオレ! 嫁さんできて!! もうちょーかわいいのなんの!」
(なんかいっぱい集まってきちゃった!?)
陽射しを隠す巨大な影が出来るほどに、わらわらと集まる船員たち。
気づけば私達の周囲にも船員が集まっていて、困惑にきょどきょどと見回すと、
「あー、うっせえうっせえ。たく、相変わらず自由な奴らだな」
呆れたヴィセルフの声がしたと思った途端、ぐいと肩を抱き寄せられた。
誰に、なんて、当然。
「だから連れてきたくねえっつったんだ。怯え……はしねえだろーが、困らせんだろ」
「っ!?」
(ちょっ、ちょっとヴィセルフこれは大丈夫なんですかね!?)
まるで私を守り隠すかのようにして引き寄せる腕の影響で、私の顔はヴィセルフの胸元、なんなら顎の下にとても近い距離まで近づいている。
うっかり顔を上げてしまったら、それこそとんでもない位置でヴィセルフと対面することになりそう。
(いくらなんでもこれは命に関わるピンチの時か、恋人にしか許してはいけない距離では!?)
今は命に関わるピンチの最中ですか!?
いいえ違います!!
(よくない、よくないよ……っ!!)
ヴィセルフからしたら、気心しれた私相手だから何てことないんだろうけれど。
事情を知らない人が見たら、色々と誤解されてもおかしくないって!!
(せっかくコツコツ積み重ねてきたヴィセルフの評判を、こんな所で落とすわけには――っ)
「ヴィ、ヴィセルフさまっ! 私は、大丈夫で……!」
「ヴィセルフ様のおっしゃる通りだ」
パンパンッと軽快な手を叩く音。あれだけ口々にまくし立てていた船員たちが、ピタリと口を噤む。
彼は悠然と両手を広げ、
「ほら、お前ら、"紳士らしく"しろー。我らがボス、ヴィセルフ様のお隣におわすは、"紫の乙女"様なんだからな」
途端、静寂が動揺と驚愕にざわりと揺れた。
そんな中「よっと」と軽い掛け声と共に、飛び降りてくる影。
――飛び降りた!?
「あぶな――っ!」
声を上げた私の心配などなんのその。
すたりと華麗に着地したその人が、私と視線を合わせてにこりと笑む。
陽ざしを反射するまばらなグレーの髪。
私を見つめる藍色の瞳は優しく緩んでいるけれど、左目は黒い眼帯で覆い隠されている。
ワイルドな無精ひげと、細やかな皺から推察するに、歳は四十を超えていそうだけれど……。
(なんか、攻略対象キャラになっててもおかしくないくらい、独特な色気のあるおじ様って感じ……)
「ご挨拶が遅れましてもーしわけありません、"紫の乙女"様。俺がヴィセルフ様が愛船、"ティアナ"の船長です。ジークとお呼びください」
ジークは舞台上の演者さながらのオーバーリアクションで、腕を開き腰を折る礼をしてみせる。
挨拶をされたなら返すのが礼儀。なのだけれど……。
「あの、すみません。"紫の乙女"って、人違いでは――」
(ん? "紫の乙女"って、そういえばどこかで……?)
不自然に言葉を切ってしまった私に、ジークはパチリとウインクを飛ばすと、
「以前お贈りした羅針盤は、気に入っていただけましたか?」
「!! あの羅針盤の……!」
まだ王城で侍女をしていた頃、ヴィセルフが王家公認の商船として雇った元海賊の方達から、"感謝と忠誠の証"だと羅針盤を贈られた。
金色で、星型が描かれた盤の上には細長い菱形の針と、紫水晶が埋め込まれていて。
まるでジュエリーのように美しいそれは、私の宝物のひとつになっている。
ジークは私が思い当たったことに気が付いたらしい。
にこやかに歩を進め、ダンスに誘う貴族男性によく似た仕草で手を差し出した。
「お待ちしておりましたよ、我らが姫君。俺達の"城"にご案内いたしましょう。お手を」
「へ!? ひ、姫などでは――っ!」
「ダメだ」
ヴィセルフがぐっと、私の肩に置いていた手に力を込める。
「ティナは俺が連れていく」
「……おおせのままに、ボス。嫉妬深い男は面倒だって嫌われますよ」
「さっさと案内しろ!」
(あれ? もしかしてこの二人ってけっこう仲が良い?)
ジークに促され見遣った船には、いつの間にか甲板へと繋がる木箱の階段が出来上がっている。
足場を確認するようにして先導するジークに続き、ヴィセルフに「気を付けろ」と手を取られながら階段を上っていく。
とうとう甲板に辿り着くと、体格も身長も様々な男の人達が集まっていた。
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