第150話愛しい寝顔としばしの休息を

「あ、りがとうございます。ヴィセルフ様」


 若干の照れを含めながら呟くも、ヴィセルフは既に規則正しい寝息を立てている。


(おやすみ三秒……)


 仕方ないか。あれこれと奔走していたのは、ヴィセルフも同じ。

 ううん、あちこちでその"権力"をフル活用させてしまったから、私よりも忙しくしていたに違いない。


(……静かだなあ)


 サクリと食んだチョコチップクッキーは、良く知った、けれどもすっかり懐かしくなってしまった、王城の料理人が手掛けた味。

 ヴィセルフに淹れてもらった紅茶をコクリと喉に通すと、しっかりとした茶葉の香りが舌状の甘さを攫って行く。


(うん、王城の味だ)


 視線を落とせば手で触れられる距離にある、美しい寝顔。

 ブロンドの髪が穏やかな陽に照らされて、湖に負けないくらいきらきらと眩しい。


「……久しぶりに、寝顔見た」


 ほんの数か月前まで、日常だった光景。

 王城から踏み出し、ひとつずつ年を重ねていく私達に、あんな日々はもう二度と訪れない。


 分かっている。

 だからこそ余計に、こんな切ないような気持ちが湧き上がってくるのだろう。


「……えいやっ」


 周囲の物に当たらないよう気を付けて、ヴィセルフの隣にころりと寝ころぶ。

 こんな大胆な行動がとれるのも、横暴な王子様の"命令"と、彼がすでに眠っているからだ。


 ぽかぽかと心地よく降り注ぐ陽の温かさは、まさに天然のブランケット。

 すう、と疲れを癒す草木の香りに、心地いい小鳥のさえずり。

 もそりと横を向けば、綺麗な顔で眠る王子様。


 心地よくて、温かくて。

 すっかり頼もしくなった、安心できる場所。


(眠くなってきちゃった……)


 やっぱり疲れが溜まってたのかなあ、と。

 ふわふわし始めた頭でぼんやり思いながら、次はいつ見れるともわからないヴィセルフの寝顔をここぞとばかりに堪能する。


「……寝顔が見れなくなって寂しい、なんて。侍女の素質、あったんだなあ……」


 耐えきれず重い瞼を閉じて、眠気の波に身を任せる。


 ――こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。


 過った思考は眠りの縁に攫われ、目覚めた時には覚えてもいなかった。



***



「ホントに寝てやがる……」


 すうすうと心地よさそうな寝息をたてるティナを座りながら見下ろして、俺は複雑な感情を宥めるようにして自身の額を覆う。


 寝ろ、と命じたのは俺。

 起きていてはティナが落ち着かないだろうと、寝ているように見せたのも俺だ。

 目論見通りの結果になって喜ばしいのは間違いない、が。


「んな無防備でどうすんだ……」


 信頼されていると喜ぶべきか、"男"として意識されていないのだろうかと落ち込むべきか。


(ったく、あいっかわらず振りましてくれるな、ティナ)


 俺の方を向くようにして横たえるティナの顔は、よほどいい夢を見ているのか、口元が緩んでいる。

 一見、間抜けとも思える顔だというのに、"可愛い"と。

 そう、胸にくすぐったいような甘さが沸き上がってしまうのは、惚れた者として仕方がないのだろう。


「ったく、人が寝てる時にとんでもないこと言いやがって」


 ――寝顔が見れなくなって寂しい。


 好いた相手にそんな衝撃的な言葉を囁かれて、飛び起きなかった俺は偉い。

 代わりにしばらく息が出来ずにいたが、俺も随分と忍耐強くなったものだ。


 いや。毎度毎度怖ろしいほどの速さで斜め上な解釈を論じるティナを相手していれば、自然と忍耐も付くというものだろう。


「そこで"侍女の素質"ってのに辿りついちまうのが、ティナらしいっつーか」


 そこは、俺個人への恋しさに結び付けるところじゃねえのか、と思わないでもないが。

 "寂しい"と。二人きりで過ごしていた特別なあの時間を、恋しく思っているというのなら。


「まったくの脈ナシってわけでもなさそうだな」


 心が浮つくのを自覚しながら、再びティナの隣に寝ころぶ。


 覚悟はしていた。

 共に同じ学園に通えるようになったとはいえ、"だからこそ"、俺はティナの"特別"ではなくなってしまうのだと。

 一人で目覚める朝も、入学までに離れていた期間で慣れたつもりでいた。


 ――だが。


 ティナと再会し、共に過ごす時間が増えれば増えるほど、押し込めた欲が空虚を訴えてくる。

 無遠慮に開けられることのないカーテン。香らないハニーレモンティー。

 瞼を開けても見つからない、俺の名を呼ぶ、花のような笑み。


 主人と侍女。

 絶対的な力関係のもとに成り立っていた光景すら、ひどく恋しかったというのに。


「これからはこれまで以上に、酷い朝になりそうだな」


 少し腕を伸ばせば、その体温を抱き込めてしまえそうな距離で。

 ほんの少し顔を寄せれば、口づけてしまえる近さから眺める、愛しい寝顔。

 明日からの俺は目覚めるたびにこの瞬間の幻影を見ては、甘くはない現実に項垂れそうだ。


「……"準備"が出来たら、覚悟しておけよ、ティナ」


 細々ながら、計画は順調に進んでいる。

 いくら鈍いティナでも、その時は気付かざるを得ないだろう。


 俺が望んでいるのは誰なのか。

 この想いがどれだけ、強く代えがたいものなのか。


(誰にも渡さねえ。絶対に、俺を選ばせてやる)


 だから――今は。


 そっと手を伸ばし、指の裏で掠めるようにして頬を撫でる。

 途端、ティナは「ふふ」と零しへにゃりと笑んだ。

 相変わらず色気のない反応。けれどもそれが"ティナ"の側にいるのだと実感できて、俺は満足に指を離す。


 これ以上は、ティナを起こしてしまいそうだ。

 休息のために連れ出したのに、それでは意味がない。


 手持ち無沙汰な両手は己の頭後ろへ。

 そうでもしないと触れたい欲に負けてしまいそうだなんて、ティナは想像すら出来ないだろう。


「……よく頑張ったな、ティナ」


 風に乗せるように呟いて、瞼を閉じる。

 きっと次は、ティナが俺を起こすだろう。

 少し困ったようにして。柔らかな声で、俺を呼んで。

 妙な確信に心を弾ませ、久しぶりに訪れた心地よい眠気に沈んだ。


 すっかり意識を手放していた俺は、先に目覚めたティナが声なき叫び声を上げながら飛び起き、その顔を真っ赤にしていたことなど微塵も気が付かなかった。

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