第113話アタシの本当の名前は
「幸いなことに、ヴィセルフ様の身の回りのお世話をする機会も多くありましたので。とても有意義な時間でした」
「よろしい。それでこそ金を積んだかいがあったというものだ」
通常、名のある侯爵家の娘は"行儀見習い"なんて行わない。今までもこれからも、"世話をする"必要がないからだ。
つまるところアタシが正規の募集に応募したところで、諭されて家に帰されるか、資金の傾きを疑われるか……。
王城の侍女に採用されるだなんて、万が一にもあり得ない。
そのためお父様は、策を講じた。
私を確実に王城の侍女にするため、王家と古くから繋がりのある伯爵家のひとりに取り入り、手紙という名目の推薦状を送らせたのだ。
向上心が高く、好奇心の強い娘が"行儀見習い"を望んでいる。
当主であるその父は最愛の娘の希望を出来る限り叶えてやりたいと考えているが、侯爵家であるがゆえ他家に出すことも出来ず、心を痛めている。
どうか王家にしばし、仕えさせてやってはくれないか。もちろん、その素性は他には内密に、と。
同室になったティナが、あれこれ詮索する性格でなくて助かった。
ううん、きっと。アタシが家のことを全く話さないでいたから、気を遣ってくれていたのだろう。
あの子は、優しい子だから。
(今日のパーティー、上手く立ち回れたかな)
ヴィセルフ様にダンスの練習させられていたから、今夜は踊ったに違いない。
見たかった。この目で。
ティナが会場で一番の、"華"になる瞬間を。
「……まだだ。まだ、勝算はある」
アタシの意識を引っ張り上げるようにして、お父様がにたりと口角を吊り上げる。
「十七になったとはいえ、まだ子供。おまけに"あの"ヴィセルフ様なのだから、いくらだって心変わりするだろう。あのエラという娘は確かに美しいが、"ガラス人形"相手ではそのうち飽きるというもの。その点、クレア。お前は賢く、女としての魅力に長けている。当然だ。俺が手塩にかけて育てたのだからな」
それにだ、とお父様は自身に言い聞かせるようにして、
「二人のダンスは、二度だった。ラストダンスは別の、奇抜な恰好をした娘と踊っていたからな。まだ、王子の心は定まり切っていないのだろう」
「ヴィセルフ様の誕生日パーティーに、奇抜な恰好……ですか?」
「ああ、変な娘だった。ドレスの上に、男物の上着を重ねるなど……前代未聞だろう。まあ、結果的に王子の興味をひくことには成功していたようだが、所詮、一度きりしか使えぬ安易な策だ」
(ティナだ)
直感。違う。
ヴィセルフ様がラストダンスを踊ったという事実が、アタシの予感を確定づける。
(部屋で別れた時は、男物の上着なんて羽織ってなかったのに)
あの後なにかトラブルに巻き込まれ、会場に戻る手段として、ティナが自ら着用したのだろう。
(ドレスの上に、男物のジャケットねえ)
まったく、あの子は相変わらず、想像の範疇を軽々と超えてくれる。
に、しても……だ。
(ティナを見ても、お父様は気が付かなったんだ)
服にばかり気を取られていたからか。それとも、完璧な淑女であるエラ様という"婚約者"の存在が、目くらましとなっているのか。
ヴィセルフ様が見ているのは、好いているのは、エラ様なんかじゃない。
更に言うのなら、あの方の心変わりを期待するなど、太陽が夜に輝く瞬間を待ち望むようなものだ。
その目が追うのは。
求め、焦がれ、迷いながらも手を伸ばし願うのは。
(……気づかれなくてよかった)
もしもお父様に、"真実"を悟られてしまったなら。
この重く、果ての見えない孤独な憎悪が、ティナに向けられる可能性だって――。
(それだけは、絶対に避けないと)
ティナ。アンタのその、愛おしいほどに腑抜けた笑顔を守るためなら。
アタシはいくらでも、"アタシ"を捨てられる。
たとえそれで、アンタに憎まれることになろうとも。
「お任せください、お父様」
アタシは物分かりのいい娘の顔で、恭しく淑女の礼をしてみせる。
暖炉で、パチパチと火の粉が弾けた。
「必ずやヴィセルフ様とエラ様の、婚約破棄を。全てはお父様のお望み通りに」
「――よく言った。それでこそ、俺の娘だ」
満足げに笑んだお父様には、理想の未来が見えたのだろうか。
アタシに見えるのは、赤い火がたゆたっている二つの瞳。ゆったりと置かれたティーカップが、カチャリと乾いた音を響かせた。
「期待しているぞ、クレア。……いや、クラウディア」
「……はい、お父様」
クラウディア・ティレット。
それがアタシの、ティナの知らない、本当の名前。
(ティナ。アタシの真実を知ったのなら、アンタはどう反応するのかな)
怒るだろうか。悲しむだろうか。まったく予想がつかないのが、アンタの面白い所で、怖い所。
どちらにしても、アタシが嘘をつき続けた"裏切者"である事実は変わらない。
温度の低い自室に戻り、窓の外を見上げる。
これは期待に近い予感だ。ティナはきっと、クラウン学園に来る。
あの子はそれだけの力を持っているし、運命もまた、あの子を導くはずだから。
再会の「ごきげんよう」が、アタシたちの本当の、「さようなら」。
(その日まではどうか、"友達"のクレアのままで)
夜空で輝く星々。
共に過ごしたあの部屋から見えたそれよりも、ずいぶんと少なく感じた。
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