第103話落とした花を拾いましょう
ダンスと少しばかりの歓談を楽しんだ後、ヴィセルフとエラ、そしてダンは挨拶周りに向かった。
名残惜しそうな三人とは反対に、機嫌の良さそうなレイナスに促され向かったのはブッフェ台。
並ぶスイーツをひとつずつ説明しながら、小皿を片手にいくつかを楽しんでいた、その時だった。
「これはこれは、レイナス様。やっとご挨拶が叶いましたな」
にこにこと目を細めながら話しかけてきたのは、ぽってりとしたお腹と頬が目を引く一人の紳士。
年は私のお父様と同じくらいか、少し上くらいだろうか。私にも会釈をしてくれたから、気の利く良い人のような気がする。
彼は簡単に名乗った後、手にしていたワイングラスのひとつをレイナスに軽く差し出した。
「王都を中心にいくつかのレストランを経営しておるのですが、なんでも近頃ヴィセルフ様が、スパイスの輸入に力を入れはじめたと小耳に挟みましてね。よくよく聞いてみれば、レイナス様のご尽力の賜物とか。楽しい祝いの席に恐縮ながら、ぜひとも私の話も一度お聞き頂きたいのですが、いかがでしょう?」
笑んだその人が、チラリと横目で私を見遣る。
そのアイコンタクトにはっと察した私は、「申し訳ありませんが、そうした話は後日に……」と渋るレイナスの言葉を遮って、
「レイナス様。私、少しばかりお化粧を直して参ります」
「ティナ嬢? それでしたら、僕も途中まで一緒に」
アナタを一人にするワケにはいきません、と小皿を受け取ってくれたレイナスに、私は大丈夫ですと笑んで、
「会場を出て、すぐの廊下ですし。さすがの私でも迷いません」
「いえ、そういうことでは……」
「見知った使用人も多いですし、困ったことがあれば助けを呼びます。すぐに戻りますから」
言いながら視線を紳士に移すと、礼を告げるようにして会釈を返してくれた。
「レイナス様。美しく心優しい彼女の往復する、ほんの数分の間だけです。どうかこのグラス一杯分だけの恩情をかけては頂けませんかね」
私が「さあ、レイナス様」と見上げると、レイナスは渋々といった様子で、
「……わかりました。ティナ嬢の心配りに感謝されることですね。いいですか、ティナ嬢。知らぬ者に声をかけられても、相手をしてやる必要はありません。真っすぐ、寄り道をせず。ちゃんと僕の側に戻ってきてください」
あれ?? お母さんかな???
思ったそれは口にせず、「はい、必ず」と軽く膝を折ってから、背を向けた。
振り返らずに、人の合間を縫って会場の外へと向かう。
(危なかった……。お父様に感謝しなくちゃ)
幼い私に語りかける、在りし日のお父様の姿が脳裏に浮かぶ。
「いいかい、ティナ。貴族にとって夜会とは、交流の場でもあってね。それもただの交流じゃない。その場で商談になることも珍しくはないんだ。そんな時、女性であるティナは、空気を察して席を外さなければいけないよ。少し難しいかもしれないけれど、それが淑女のマナーだからね」
さっきのあの、アイコンタクト。あれはかんっぺきに"席を外せ"の合図だった。
王都……というより、貴族界隈全般の情報に疎い私は、あの男性がどれだけの影響力を持つ人なのかはわからない。
けれどパーティーに出ている以上、私だって家名を背負った貴族の一員だ。
ましてや側には、レイナスもいた。
私がうっかり間違った振る舞いをしていたら、家名とレイナスの名誉の双方に傷をつけていたかもしれない。
(今更ながら、こっわいなあ貴族社会)
家に戻ったら次の夜会の機会までに、もう一度勉強し直そうかな。
目指すは安心かつ安全な婚活……!!
決意に胸中でぐっと拳を握った刹那、
「あの、少し、よろしいでしょうか」
「はい?」
振り返った先にいたのは、今にも泣きだしそうに顔を歪めた、小柄なご令嬢。
私の記憶の限りでは、面識はないはずだ。
ただならぬ様子に「どうかされましたか?」と訊ねる前に、彼女は小さな口を必死に動かして、
「突然、ごめんなさい。どうか、助けていただけませんでしょうか」
「何かあったのですか?」
「その、ここでは上手く説明が出来なくて……。一緒に来ていただけますか? 見て頂いた方が、早いかと存じますので」
うるうると瞳に膜を張る彼女に、私はちょっと焦りながら「わかりました」と首肯する。
一瞬だけ「知らぬ者の相手をしないように」と言ったレイナスの姿が脳裏に浮かんだけれど、これは緊急事態だ。
ほっとしたように笑んだ彼女が「こちらです」と案内するままに付いて行くと、彼女は長い廊下を進んで、更に突き当りの角を曲がった。
(こっちは基本的に、お客様が入って来るような場所じゃないはずなんだけれどな)
会場の扉から遠ざかり、特にこれといった箇所もないこの廊下は、基本的に人が通ることはない。それこそ使用人でさえ。
とはいえ立ち入り禁止というわけではないし、迷ったり、興味心が沸いたとかで進んでくる人がいてもおかしくはないわけで。
途端、先を歩く彼女が、ピタリと歩を止めた。
それから開け放たれた窓に近づき、促すようにして私に視線を遣る。
「少し風に当たろうと思いましたら、落ちてしまって」
同じように窓に近づき、外を覗き込む。
するとそこには、少し先の枝葉に引っ掛かった、赤い――。
「シクラメンの花?」
隣の彼女が、「ええ」と頷く。
「花のひとつくらい諦めればいいとお思いでしょう。ですがあの花は、私にとってとても大切な花なのです。なんとか取ろうと必死に手を伸ばしてみたのですが、この通りでして……」
言いながら彼女が、窓の外に手を伸ばす。けれども残念ながら、花には届きそうにない。
とはいえ、まったく無謀とも言い切れない距離だ。
(彼女の身長だと厳しいけど、私なら、もしかしたら)
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