第87話さようならの約束

 見つめるオレンジブラウンの瞳に、私は奥歯を噛みしめる。

 ない、って。あの子のことを何も知らない私が、言い切れるはずがない。

 私が言えるのは、"ない、であってほしい"という一方的な願望だ。


 ただただ困っている様子の子を、放っておけなかった。

 私でも力になれるんじゃないかと、話しかけてしまった。

 ほんのひと時だけでも喜んでくれればと、シナモンロールを渡してしまった。


 ――その全部が、後々の彼を傷つけることに繋がるだなんて、微塵も考えずに。


「わ、たしは」


 何を言っても自分を守るための言い訳にしかならなくて、言葉を飲み込む。

 思わず視線を落とすと、クレアが小さく息をついた気配がした。


「知らないモノを想像しろってのは、難しいだろうしね。今回の件は、いいお勉強になって良かったってことでいいんじゃない。しばらくこの辺りを歩く時は、気を付けたほうがいいとは思うけど」


「…………うん、わかった」


 なんとか呟いた刹那、頬に片手が添えられた。

「ティナ」と。導くような手つきで、顔をクレアに向けられる。


「これからさ、ティナはこうして街に出ていく機会が増えていくのはもちろん、社交界に顔を出さなきゃいけない場面も増えていくと思うんだよね。けれどきっと、誰もこういう"影"の部分は教えてくれないだろうから。そういうのは、アタシが見せてあげるよ。……それがアタシだけに出来る、唯一だろうし」


 だからさ。クレアはどこか寂し気な笑みに変えて、


「"毒"を知りたくなければ、アタシから離れてよ」


「クレア……?」


 見つめる瞳が酷く真摯で、だからこそ、これがクレアの本心なのだと分かる。

 するりと離れていく指先。

 それがまるでクレア自身の心のような気がして、私は即座に握りしめた。


「離れたり、しないよ」


「…………」


「私、知らないことばかりだし、またこうやって間違えちゃうことも多いと思う。けれどそんな私を、クレアが嫌だと感じないでいてくれるなら。私から離れることは、絶対にない」


「……相変わらず優しいね、ティナ。けれどそうやって、誰でも許す必要はないから。付け込まれるだけだよ。自分を守るためには、不要なものは切り捨てていかないと――」


「クレアは私にとって必要な人だよ。っていうか、これまでも散々お世話になってるし、むしろ今後ともよろしくお願いしますと頭を下げるべきというか……ともかく!」


 私は両手でクレアの指先を握りしめ、必死にその両目を見つめる。


「影でも毒でも、クレアが教えてくれることは大事なことだもの。ありがたいって、本当に感謝してる。だからクレアが私に呆れるまでは、どうか一緒にいさせて? だって私はクレアのこと、本当に本当に大好きだもん」


「……ほーんと、そういうとこ、敵わないよね」


「へ?」


 肩を竦めたクレアが、仕方なさそうに笑む。

 それからそっと、私の手の内から指先を引き、


「アタシさ、冬が深まる前に、家に帰ることになったんだよね」


「……え?」


 家に、帰る?

 嫌な予感に、ドクリドクリと鼓動が早まる。


「お、お休みの日に、一回お家に帰るってこと……だよね?」


「ううん。侍女勤めを辞めて、家に戻るってこと」


「っ!」


 クレアが、侍女を辞める。

 わかってる。私達は、あくまで"行儀見習い"だ。

 ずっと王城にいれるワケでもないし、いつ、帰ったっておかしくない。

 ――けど。


(こんな、急に)


 心の芯が冷えついて、指先が、震える。


「それって、もしかして、私が迷惑かけ続けちゃったから嫌になって……」


「まさか、違うに決まってるでしょ。ティナに愛想を尽かしたんなら、わざわざこんな陰気臭い話なんてしていかないし。……春から王都クラウン学園に通うことになってさ。その事前準備もあるから、戻ってこいって」


「王都、クラウン学園……!?」


 この世界の元になった乙女ゲーム【不遇令嬢は恋に咲く】の、舞台になる学園……!


(やっぱり、クレアもただのモブ令嬢じゃなくって、ゲームに関係したキャラクターの一人だったんだ……!)


 けれどそれなら他の攻略対象キャラの皆みたいに、ゲームの記憶が戻ってもいいはずなんだけれど……。

 それがないってことは、学園には通っているけれど、特別エピソードは持たないやっぱり"モブ"ってことに――。


(ううん、今はゲームのことよりも)


「そっか……。それじゃあ、クレアとこうして一緒にいられるのも、あと少しなんだね」


 王都クラウン学園に通うには、名家の子息令嬢か、強力な魔力を持つか。

 あるいは、特別な功績があるか。

 そのどれも持たない私にはそもそも、通学の選択肢はない。


 クレアも分かってくれているのだろう。

 私の表情を伺うようにして見つめてから、「……うん、そうなるかな」と噴水に視線を流し、


「あのさ、ティナ。さっきアタシが言ったことは、全部本心だよ。不用意な優しさを振りまくのは危険だから、控えるべきって話も。時には切り捨てることも、必要だって話も」


 けどさ、と。

 クレアは膝元に下げた食べかけのシナモンロールに視線を落とし、


「あの子はティナのおかげで、もしかしたしら一生口に出来なかった味を知ることが出来た。代用品のプレゼントを手に、気まずい誕生日を祝うのではなく、幸せに溢れた"おめでとう"をお母さんにあげられた。それは全部、ティナがいたから。ティナだったからしてあげられた、彼にとっての"奇跡"だよ。……アタシはさ、そういう"ティナ"でいて欲しいとも思っちゃうんだよね」


「クレア……」


「実際さ、ティナのそういう無邪気な"光"に救われている人も、たくさんいるし。アタシも楽しませてもらっている一人だし。出来ることならこのままさ、今まで通り、心のままにいられるのが一番なんだろうけど。世界が広がれば広がっただけ、周りも、本人も、変わっていくものだから」


 どこからか靡いた風が、私とクレアの髪を柔く揺らしていく。


「アタシはさ、ティナがそうやっていつか"ティナらしさ"を完全に失くしちゃうのが、一番嫌なんだよね。……それだけは、何があってもアタシの"本当"なんだって。覚えていてくれたら、嬉しいかな」


 クレアの、こんな弱気な笑みは初めて見る気がして、私は即座に大きく頷いた。


「うん、絶対、忘れない。……私、クレアの同室になれて、本当に幸せだったから。会えなくなっても、必ず覚えてるね」


「……ありがと、ティナ。ま、そういうことだからさ」


 途端、悪戯に口角を上げて、ていとクレアが私の頬を指でつつく。


「ティナがちゃーんと自分の身を守れるように、教えられることは教えていくつもりだから。今日のことも、しっかり反省してよ」


「う……はい。肝に銘じておきます」


 しょんぼりと頭を垂れた私の隣で、クレアが楽し気に笑う。

 あったかい。けれどこのあったかさも、あと、数か月。


(……寂しい、なあ)


 クレアは私に"優しい"と言ったけれど、私からすれば、クレアのほうが"優しい"なって。


「……ありがとね、クレア」


 たまたま同じ部屋になっただけの、手がかかってばかりの私をこんなに気にかけてくれる。

 こうして"行儀見習い"に来ていなければ、きっと一生、出会うことのなかった人。

 今、隣にいる奇跡を。共に過ごせるあと数か月を、大事にしたい。


「最後の日まで、よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げた私に、クレアは小さく噴き出してから、


「こちらこそ。今後とも、よろしく」


 まるで"この先"の希望を僅かにでも残してくれるような言葉が、例え社交辞令でも、嬉しかった。

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