第86話優しさの代償

「シナモンロール、おいしく食べてね」


「でも……っ、これ、お姉さん達が買ったやつだろ! そんな、そんな、オレは別に恵んでもらおうだなんて……!」


「違うの。これ、試食ってことで貰ったやつで。だからお金は払ってないし、私もあなたに、恵もうだなんて思ってないよ。これはあなたのお母さんへの、誕生日のお祝い」


「母ちゃん、への……?」


「そう。貰ったもので悪いのだけれど、一年に一度の、素敵な日をお祝いして」


 複雑そうに顔を歪める少年からは、まだ色濃い葛藤が伝わってくる。

 私は苦笑交じりに、


「このお店ではね、シナモンロールよりも安いお菓子も売っているの。だからもし、このシナモンロールを食べて気に入ってくれたら、今度は別のお菓子を買いに来てくれると嬉しいな。そうしてくれたら、無料で貰ったこのシナモンロールで、未来のお客様を一人増やしたも同然だし」


「……オレが、未来のお客様?」


「うん。だって、この店はこれからもココにあるのだもの。今すぐに買うことは難しくても、美味しそう、食べてみたいって思ってくれているのなら、いつか買いに来てくれるかもしれないから。だから、あなたも未来のお客様のひとり。でもお母様のお誕生日は、この一年で、今日しかないから」


 ね? と。

ハンカチにくるんだシナモンロールを差し出すと、少年は視線を彷徨わせてからそっと受け取った。


「……オレ、もっと金貯めて、絶対に買いにくるから」


「うん。待ってるね」


「絶対、絶対にだかんな! 嘘じゃねえから! だからっ」


 ありがとな。

 宝物のようにハンカチを胸に抱えて、少年が頬を緩める。


(やっと、笑ってくれた)


 安堵を胸中に抱きながら、膝を伸ばす。


「いい一日を」


「もうこれまでんなかで、一番に幸せな気分だよ! 母ちゃんに渡してくる! お姉さん達に、さいっこうの祝福を!」


 手を振って駆けていく少年に手を振り返しながら、微笑ましい気持ちで見送る。

 お母さん。お母さんかあ。

 この世界の"お母様"は中々の心配性で、私が王城に向かう当日も、「いつでも戻ってきていいですからね」と涙を浮かべていた。


 元気にしているだろうか。

 近頃は手紙もろくに書いていなかったから、そろそろ一報出してもいいかもしれない。


 それから気がかりなのは、前世の"お母さん"。

 くーちゃんが死んじゃっただけでも辛いだろうに、私まで、あんなことになっちゃって。

 きっと、お父さんが支えてくれると思うけれど。本当、二人には親不孝なことをしちゃって――。


「さて、ティナ。満足した?」


 不意に呼ばれた名に、「あ」と意識が引き戻される。

 クレアは肩を竦めると、


「とりあえず、目的地に向かおうか。お説教はそれからね」


「へ!? お、お説教!?」



***



 まだ朝の気配が色濃いベンチに並んで腰かけ、バスケットの布を取ったクレアが「どれ食べる?」と訊ねてくる。

 冬へと移行しつつある最中、噴水の傍らは少しばかり肌寒い。

 けれどクレアの案内のおかげで、近くのカフェで温かい紅茶を手に入れることができた。

 ちびちびと湯気を楽しみながら身体を温め、暫し腰を落ち着けるには丁度いい。


 私はふっくら焼いた卵焼きを挟んだ、たまごサンドを。

 クレアはもうひとつのシナモンロールを選んで、


「それじゃあ、ティナ。食べながらお説教といこうか」


「……はい」


「ティナの行動の、何が悪かったんだと思う?」


 あ、美味し、と。

 シナモンロールを咀嚼しながらの問いかけに、私は「ええと……」と一連の流れを思い出す。


「あの子に、"仕事"をあげられないのに話かけたこと?」


「うん。それも正解の一つかな。けどさ、そもそもティナはどうして"それ"が悪いことだって言われているか、わかってないでしょ」


「う……それは、はい」


 辺境の、良く言えばのんびりとした田舎で育った私には、街でのルールがよくわからない。

 困った時は、互いに助け合う。私の父が治める小さな領地では人も資源も限られていて、それが普通だったから。

 とはいえさすがに私でも、誰それとむやみにお金を渡してはいけないことくらいは理解しているけれど……。


「……あんなに小さい子が困っていても、気にかけてはいけないのが"街"なの?」


 拗ねたような言い方になってしまったのは、自覚がある。

 クレアはそんな私を視線だけで一瞥して、


「この場所で"困っている子供"は、大勢いるからね。いちいち気にかけていたら、キリがない。まあ、それでも気まぐれに手を差し伸べる人もいるけれど、アタシはそれが必ずしも"良い事"だとは思えないかな」


 クレアは噴水を眺めながら、「例えばさ」と続ける。


「この街で、飢えている側が恵む側になれる可能性なんて、針の先よりも小さいわけ。どんなに必死に、汚れだらけになろうとさ、結局は身分の壁に阻まれる。この辺はティナにも覚えがあると思うけれど、結局、そういう"仕方なさ"ってモンを恨みながらも消化していかないと、生きていけないでしょ」


「……うん」


「で、さっきの子はさ、今回のことでティナっていう"光"を知っちゃったんだよね。自分が困っている時に、助けてくれる優しい人を。そうするとさ、次に困った時も、"もしかしたら"って誰かの助けを期待しちゃうわけ。無意識にね。けれど実際は、助けてくれる人なんて誰もいない。それでも温かい思い出は捨てきれなくて、もしかしたら、もしかしたらって。そうやって何度も期待しては、絶望し続けるわけ」


「……! そ、れは」


「ねえ、ティナ。あの子はきっとこのシナモンロールを食べて、その美味しさに感動すると思うよ。けれどさ、もしも彼がコレを"もう一度食べたい"って思ったら? 必死に働いて、買いに来るって保証がどこにある? 手っ取り早いのはゴミを漁るか、盗むかでしょ。それどころか、店の前でティナを待ち伏せてねだってくるかもしれない。ううん、ねだるならまだマシかな。ナイフでも持って脅してきたら?」


「そんなわけ……っ!」


「ない、って。言い切れる?」


「……っ!」

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