第85話少年の小さな望み

 まだ声変わり前の声で、執事のごとく恭しく礼をしてみせる少年。

 その爪はボロボロで、黒ずんでいる。

 ああ、そうか。彼はこうやって日々、誰かに"仕事"をもらって生活をしているんだ。

 理解した私は「ううん、違くて」と膝を折り、少年に視線を合わせた。


「中、さっきから熱心に見ていたから、どうかしたのかなって思って。私、いちおうここの関係者だから、力になってあげられるかも」


「え……?」


 面食らったように、丸い瞳がさらに見開かれる。

 年相応な表情につい笑みを零しながら、「誰かに用事かな? それとも、中に入ってみたいの?」と首を傾げた刹那、


「そこまでにしておきな、ティナ」


「! クレア」


 私の背後で仁王立ちするクレアに、少年の肩が跳ねる。

 怯えを感じ取った私が「あ、この子は私の友達だから、安心して」と慌てて言うと、クレアは少年を見つめたままぐいと私の肩を引いて、


「この子の言ったことは、全部忘れるんだね。ほらティナ、行くよ」


「ちょっ、ちょっと待ってってばクレア!」


 引かれた手を振りほどく。

 クレアは特に表情を変えないまま、


「"仕事"をあげられないのなら、関わるべきじゃないよ」


 確かに、クレアの言う通りなのだろう。

 けれどもしも彼の望みが"mauve rose"に関連することなら、私にも、出来ることがあるかもしれない。

 ――満足に厨房に入れない、私でも。


「お願いクレア、事情を聞くだけでもいいから」


「聞いて、それからどうするの?」


「私に叶えられることなら、力になってあげたい」


「……あの子の望みが、無茶な要望だったら?」


「その時は、断る」


 真っすぐ見つめて言い切った私に、クレアが小さく息をつく。


「……わかった。待ってる」


「! ありがとうクレア!」


 嬉々として少年を振り返る。

 と、彼は隠し切れない困惑に眉尻を下げて、私を見上げた。


「本当に、オレのお願いを聞いてくれるのか?」


「うん。必ず叶えてあげるかは、聞いてみないとだけど」


 途端、少年はぱっと顔を輝かせたかと思うと、ぴょんぴょん跳ねながら小窓の向こう側を指さし、


「あの、あのパンみたなグルグルしたケーキがあるだろ! あれを買ってきてほしいんだ!」


「グルグルしたパンみたいなケーキって……シナモンロールのこと?」


「シナモンロールって言うのか、アレ。オレ、字が読めないからさ」


 それから彼はハッとしたようにポケットを漁り、


「オレ、今日のために毎日頑張って仕事して、いつもなら断るようなヤツもやって、なんとか金をためたんだ! ほら!」


 小さな両手が開かれる。

 乗っていたのは何枚ものコイン。けれどシナモンロールを買うには、全部合わせても到底足りない。


「えっと……」


「なあ、この金でそのシナモンロールってやつを買ってきてくれよ! オレ、こんな身なりだから店になんて入れてもらえねーし、ホントにどうすっかなーって困ってたんだ!」


 頬を赤らめて興奮気味に話す彼は、本当に嬉しいのだろう。

 うん、ここは黙ってお金を受け取って、足りない分は私が出せば――。


「ほら、ちゃんと断りなよ、ティナ」


 へ? と。私と少年の声が重ねる。

 クレアは「それ」と少年の掌に視線をおとし、


「アレを買うには、全然足りないよ。あとその三倍はないと」


「ちょっ、クレア……!」


「本当のことでしょ。ちゃんと教えてあげないと、その子は分かってないよ」


 そうだけど、そうだけど……!

 やりきれない思いで少年を見遣ると、「これの、三倍……?」と呆然と呟いている。


「足りない、のか。これでも。あんなに、あんなに頑張ったのに……間に合わなかった、のか」


 刹那、緑の瞳がじわりと滲んで、ぽたぽたと雫がこぼれ落ちた。

 ぎょっとした私が「わ、大丈夫!?」とハンカチを取り出すと、彼は急いで腕で涙を拭って、


「わりい、大丈夫」


 少年はぎゅっと掌を握りしめると、無理やり作った不格好な笑顔を私に向ける。


「ごめんなお姉さんたち。声、かけてくれたのに」


「ううん、それは平気なのだけど……」


 感じた引っ掛かりに、私は「ねえ」と腰を屈める。


「"間に合わなかった"って言ってたけれど、誰かと約束でもしていたの?」


「それ、は……」


 少年は迷ったように視線を落としてから、ポツリと呟いた。


「今日、母ちゃんの誕生日なんだ」


「お母さんの……?」


「母ちゃん、前にアレを食べている人を見て、一度でいいから食べてみたいって言ってたんだ。でもオレん家、"こんな"だし。オレの稼ぎもないと、毎日、ご飯もちゃんと食えねえし」


 だから、と少年は唇を嚙みしめて、


「仕事、増やして、こっそり貯めてたんだ。……けど、やっぱりオレにはダメだったみたいだ。アレは諦めて、この金で買えるもんを探すよ」


「…………」


 クレア、と。名前を呼んで振り返った私に、クレアが眉を顰める。

 それから緩く首を振って、


「ハイハイ、そう来ると思ったよ。ひとまず、好きにしたら」


「ありがとう、クレア」


 私は手にしていたハンカチを開き、差し出されたバスケットからシナモンロールをひとつ取り出す。

 そっと包み込んだそれを、少年に「はい、どうぞ。あげる」と差し出した。

 少年が、戸惑いに「これ……」と目を丸くして私を見上げる。

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