第79話この世界では半分こ

 迷ったのは、くーちゃんの提案が魅力的だったからじゃない。

 そりゃ、例えば前世の私なら、喜んで頷いていただろうけど。

 けれど、今は……。


「……ごめんね、くーちゃん。私、一緒には行けない」


 するりと手を引いた私に、くーちゃんが悲し気に眉根を寄せる。


「どうしてだ。俺と会えて、嬉しくないのか。……もう、一緒には居たくないか」


「そんなわけ……! くーちゃんとこうしてまた会えて、ほんっとうに嬉しい。一緒にいれたら楽しいだろうなって思うよ。けど、今のくーちゃんは"ニークル"だし、私も"ティナ"だから」


 私がくーちゃんと一緒に行ってしまえば、きっとこの世界はゲームの通りに進んでしまう。

 そりゃ、精霊族の森にいってしまえば、この国がこの先どうなろうと、私にはたいした影響はないのかもしれない。

 それでも。


「前世の記憶を取り戻してからね、この国で大切なものが、たくさん出来たんだ。人とか、場所とか。私がいなくなったら、きっと全部が壊れちゃうから。それだけは、絶対に嫌なの」


 それにね、と。

 私は自分でも予想外だったと肩をすくめて、


「今ね、すっごく仕事が楽しくて。前世の時は、ずっと好きな事だけしていたい! 仕事なんてしなくてよければ、絶対しない! って、あんなに思ってたのに。……たぶん、私が嫌だったのは"働くこと"じゃなくて、"理不尽にさらされ続けること"だったのかなって」


「……今は、それがないのか?」


「うーん、まあ確かに誰かさんの無茶ぶりとか、思いつきに振り回されたりするのもしょっちゅうだけど。けれどちゃんと私の話を聞いて、考えてくれるし。環境は整えてくれるし、出来れば正当に評価をしてくれるし。何より私を認めてくれてるんだって、よく分かるし」


 ヴィセルフだけじゃない。

 ダンにしたってそうだし、王城の料理人さんたちも、使用人仲間も。

 そりゃ失敗すれば叱られるし、意見がぶつかったり、小言を言われることもあるけれど。

 それでも皆、ちゃんと"私"を"私"として扱ってくれる。


 都合よく気力を、体力を絞られ続けて。

 ボロボロの雑巾みたいになっていた前世とは、違う。


 私を見つめる、戸惑いと不安に揺れる双眸。

 しっかりと見つめ返して、私は力なく垂れ下がった彼の右手を両手で握りしめる。


「心配してくれてありがとうね、くーちゃん。でも今回は、"ティナ"の人生はまだ……こっちで頑張らせて」


 きっと今、彼の頭上に犬耳があったのなら、へたりと下げられているだろうな。

 そう思わせる悲し気な顔をしつつも、引き結ばれた唇が「……わかった」と呟いた。


「なら俺は、近くで見守ろう。そっちの生活が嫌になったら、いつでも来るといい」


「うん。ありがとう、くーちゃん。あ、ニークルって呼ばないとか」


「どちらでもいい。アンタが呼んでくれるのなら、それが俺の名だ」


「ええと、それじゃ……誰かに知られると混乱しちゃうかもだし、出来るだけ"ニークル"って呼ぶようにするね。うっかり"くーちゃん"って呼んじゃうかもだけど」


 ああ、と頷いたニークルは、何かに気づいたように視線を宙に投げた。


「どうかした?」


 訊ねた私に、「……いや」とやはり視線を巡らせながら、


「何やら先ほどから、甘いような、刺激のある香りが……。花とは違う、食欲をそそられる匂いだ」


「あ、それたぶん、私が持ってきたシナモンロールだ」


「シナモンロール?」


 私は噴水の縁に置いていた布包みを開いて、「そう」とニークルに見せる。


「シナモンとお砂糖をたっぷり使った、ケーキみたいなパンなんだけど……。食べてみる?」


「……たのむ」


 並んで噴水の縁に腰かけ、私は半分に割ったシナモンロールをニークルに手渡した。

 受け取ったニークルは興味津々、といった風に眺めてから匂いを嗅いで、一口をパクリ。


「これは……。しっかりと甘いのに、独特な香りのおかげで随分と食べやすくなっている。噛み応えもあって、満足感のあるパンだな。アンタが作ったのか?」


「んーん、作ったのは王城の料理人さんたち。私は前世の記憶を頼りに、材料とか、手順とかを必死に伝えているだけ。あ、あとは味見役って感じかな」


「……そうか。どこかで嗅いだことのある香りだと思ったが、前世のアンタが食べていたのか」


 ニークルが、嚙み締めるようにして薄く口角を上げる。


「この姿だと、アンタと同じものを共有出来ていいな」


「あはは。ワンちゃんだと、なかなか同じものを食べさせてあげられないしね」


「まったくだ。アンタ達はいつだって、美味そうな匂いをさせていたっていうのに。時折"お裾分け"だってくれる時もあったが、ほんの一口二口だけだったしな」


 もう一口をかじりながら向けられた恨みがましい視線に、私はつい、笑ってしまう。

 ああ、やっぱりくーちゃんだ。じんわりと浮かぶ前世の光景が、懐かしくて、あたたかい。

 こんな感情を覚えるのも、あの時偶然くーちゃんを見かけて、こうして再会できたからで――。


(あれ、そういえば)


「ねえ、ニークル。どうしてこの間、あの路地にいたの?」


 精霊族は基本的にその殆どを森の奥で過ごし、こちら側に現れるにも、人目につかない夜を好む。

 ゲームでの知識をもとに訊ねると、ニークルは気まずそうに視線を落とした。

 察した私は慌てて、


「ごめん。言いたくなかったら、全然――」


「いや」


 ニークルは視線を私に戻し、


「今代の精霊王が子を成していない場合、次代の精霊王は月下美人の花から生まれることは、知っているか」


「あ、うん。ゲームで見たから……。って、まさか」


「あの辺りに、まもなく開花を迎える月下美人があると聞いた。それで、真偽を確かめに」

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