第75話助けてくれたのは

「くーちゃん!?」


 突き当りで立ち止まり、周囲を見渡す。けれど先ほど見かけた犬の姿はおろか、人っ子一人いない。

 私は再び駆け出す。


(どこ行っちゃったの……っ!)


 走って、走って。迷路のような角を何度も曲がる。

 そのうち胸が苦しくなって、私はとうとう足を止めた。荒い呼吸を繰り返す。


(やっぱり、見間違いだったのかな)


 そうだよ……ね。

 くーちゃんまでこの世界にいるなんて、そんなハズ――。


「……これはこれは。綺麗なお嬢さんがこんな場所で、どうしたってんだ?」


「この辺りでお茶会の報せなんて出せる家、俺の知る限りじゃゼロのはずだけどなあ?」


「!」


 顔を跳ね上げると、後方からにじり寄って来る、若い男が二人。

 どちらも薄汚れたシャツとズボン姿で、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべている。


 ――しまった。


 即座に周囲を見渡して、私はやっとのことで自分の失態を悟った。

 ネズミの走る側溝に、薄暗く湿った空気。頭上ではためいているのは、誰のとも知れない、ほつれだらけの洗濯物。

 どうやら夢中で走っているうちに、裏路地の下層労働者街に紛れ込んでしまったらしい。


(早く出なきゃ……!)


「す、すみません。すぐに戻ります……!」


 道を塞ぐ男たちとは反対の路地に向かって、再び走り出そうとする。

 けれど即座に肩を掴まれ、


「おっと、そう邪険にすんなよ。お迎えが来るまで待ってたほうがいいだろ」


「それまで俺たち流の"お茶会"でもどうだ? あーんなつまんねえ、すました交流じゃなくて、もっと楽しいやり方でよ」


「! 離して!」


 ひとりのつま先を思いっきり踏みつけて、「ぐうっ」とひるんだ隙に駆け出した。


「あんにゃろ……!」


「捕まえろ!」


 背後からは怒号が飛んでくるけれど、振り返らずにとにかく走る。

 前世から、ここぞって時の足の速さには自信がある。

 けれども慣れないヒールに、動きにくいドレス。

 おまけに地理の複雑さも相まって、気づけば路地の行き止まりに追い込まれてしまった。


「はあ……はあ……ちょこまかしやがって……。この街で俺たちから逃げ切れるわけねーだろ」


「さーて、どうしてやろうか。手間をかけさせてくれたぶん、きっちり元は取らせてもらうぞ」


 息を乱しながら、男たちがにじり寄ってくる。


(ど、どうしよう……!)


 登れそうな塀は、ない。武器になりそうな棒もない。

 私の魔力は戦闘向きじゃないし、体術の心得もない。


(かといって、このまま大人しく捕まるだけなんて……!)


 手の内の紙袋には、エラとダンに選んでもらった品物がぎっしり詰まっていて、それなりに重量がある。


(これだけは、したくなかったけれど)


 そうも言ってられる状況じゃない。

 この紙袋を投げつけて、怯んだその隙に――。

 覚悟にぎゅっと腕に力を込めた刹那、眼前に黒い塊が飛び込んできた。

 男たちが「うわあ!?」と驚愕の声を上げる。


 黒い塊。違う、犬だ。

 真っ黒で、胴が長くて。おでこから鼻先にかけてと、手足が真っ白な。


(う、そ……っ)


「くー……ちゃん?」


 絞り出すような声で呼ぶも、反応はない。

 その犬は私を庇うようにして男たちとの間に立ち、グウーッと威嚇の声を上げながら睨みつけている。


「んだこの犬っころ! そこをどけ!!」


「蹴り飛ばしちまえ!」


「や、やめ……!」


「ガウッ!!」


「おわあっ!!」


 跳ねるようにして男たちがのけ反った、その時。

 敵意を剝き出しにしていた銀色の瞳が、チラリと私を見遣った。

 え、と思ったその刹那、


「アオーーーーーンッ!!!!!」


 喉を反り、黒犬が遠吠えを響かせる。

 男たちが「な、なんだ!?」と混乱に怯む最中、私は違和感に、自身の胸元へ視線を落とした。


「!? 魔岩石が、光って……!?」


 ドレスの上からでも分かる、揺れ動く赤い灯。

 即座にドレスから引き出すと、やっぱり、ヴィセルフからもらったあの魔岩石が明るく光を放っている。


「どうして……っ」


「――ティナ!!」


「!?」


 顔を向けた先には――。


「ヴィセルフ様!?」


 駆けてくるその人に思わず名前を口にすると、男たちは「ヴィ、ヴィセルフ様だと……っ!?」「んなまさか!」と明らかにうろたえた。

 ヴィセルフはギッと眼光を鋭くし、


「テメエ等、よくも……っ!」


 ヴィセルフが開いた右手を振り下げる。すると男たちを取り囲むようにして、地に炎が立ち上がった。

 そうだ。ヴィセルフの魔力分類は赤。

 自在に炎を出現させ操る、強力な魔力の持ち主。


「うわあ! あちい!!」


「んだこれ止めてくれ!!」


 男たちの悲鳴に眉ひとつ動かさないまま、ヴィセルフが一歩一歩近づいて来る。


「……テメエ等、ティナに何をしやがった」


「その娘のことか!? なにもしてねえよ!」


「迷ってたみてーだから、大通りまで案内してやろうと……!!」


「ほう……? どうやら余程あぶられてえみてーだな」


 ヴィセルフの右手が光る。と、男たちを囲む炎がじりりと内側に動いた。

 男たちが「ひいっ」と互いに背を合わせ、少しでも逃れようと必死に縮こまる。


「うううう、嘘じゃねえ!! ちょっとばかし肩には触っちまったが、怪我もさせてなけりゃ盗ったりもしてねえ!!」


「そそそ、そうだ! この嬢ちゃんが自分で勝手にこんな路地まで来やがったんだ! 俺たちが連れてきたんじゃねえ!」


 いやいや、今まさに私に危害加える気満々だったよね!?

 しかもそっちが追いかけてきたから、こんなトコまで逃げてくるはめになったんだしね!?

 思ったけれど、喉元で押しとどめる。

 目の前のヴィセルフは、すっと赤い瞳の温度を下げ、


「そうだな。ここで全部焼いちまったら、後処理が面倒だな。膝下までを焼いて、そのまま運ばせるか。……焼けただれていく痛みに、意識が飛ばなけりゃいいが」


「ひっ……!」


 徐々に狭まる炎に、とうとう男たちがかかとを上げる。

 ――まずい!


「ヴィセルフ様……!!」


 私はがばりとヴィセルフの右腕に抱き着いた。


「ティナ!?」


 よほど驚いたのか、裏返る一歩手前な声を上げたヴィセルフを見上げ、


「落ち着いてください、ヴィセルフ様!」


「いやおま、腕が――っ!」


 ヴィセルフが息を呑んだのは、私が掴み上げた彼の手を自分の頬に押し付けたからだ。

 一国の王子相手に不敬なのは百も承知。

 けど、今はなりふり構っていられない!

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