第30話わたくしの心を掬い上げたのは
ヴィセルフ様にとって、わたくしは名ばかりの婚約者。
それはもはや事実として、社交界に広まっている。
今更、わたくしのご機嫌をとっておけ、という指示を受けているとは考えにくい。
そうなると、この言葉は紛れもなく彼女自身が発したことになる。
(王家ではなく、"ブライトン家"に奉公先を変えたい……という考えをお持ちなのでしょうか)
王家には行儀見習いとして仕えているご令嬢も多い。
けれども一般的なお屋敷での奉公とは少々異なり、本人の強い希望がなければ、個室ではなく二人部屋を与えられていると聞く。
もっと言うのであれば、主人からの"おさがり"もほとんどないとか。
それでも王家に出入りする、上流階級の男性に見初められようと、王家の侍女を望む声は絶え間ない。
けれどヴィセルフ様は、大の社交場嫌い。
そのため出会いの機会も薄いと、早々に引き上げるご令嬢も多いとか。
(……たとえ、この彼女もそうだったとしても、わたくしを気遣ってくれたのは事実)
聞きようによっては、主人であるヴィセルフ様への苦言とも取れてしまう言い回し。
それでもおどけたようにして笑う彼女は晴れやかで、なんだか、こちらもつられて笑んでしまう。
「そのような光栄な場に立ち会うのが、わたくしなどでよろしいのでしょうか?」
「エラ様にご賞味いただけるのであれば、こんなにも光栄なことはありません!」
膝を折り、敬意を示してくれた彼女に礼を告げ、わたくしは"チュロス"なる未知のお菓子を口に運んだ。
――衝撃だった。
初めて知る食感に、味。
彼女の言葉通り、このお菓子は今はじめて、この国でのお披露目を迎えたよう。
つい、興奮を抑えきれずに声を上げたわたくしにも、彼女は怪訝な顔ひとつせずに嬉し気な笑みを咲かせた。
「エラ様にお出ししましたお菓子ですので。心ゆくまでご堪能下さい!」
胸中が、ほわりと和らいでいく感覚。
けれども即座に、わたくしは自身を律した。
勘違いしてはいけない。彼女がこの笑みを向けているのは、わたくしが"ブライトン"だから。
家名の後ろ盾がなければ、わたくしなど。微笑みひとつ、向けてもらないのだから。
……それでも。
(こうして新たな経験を生んでくださった彼女に、少しでも、返せたらよかったのですが)
残念ながら、わたくしには、"ブライトン"を動かす力はない。
彼女から視線を外したのは、その笑みがさっと消え去る瞬間を見たくはなかったから。
「ですが……わたくしがどれだけこの菓子を気に入ろうと、残念ながら、ブライトン家からの恩恵は望めないかと……」
せっかく楽しませて頂いたのに、申し訳ない。
無力な自分の情けなさを噛みしめながら告げた私に、彼女は心底驚いたような顔をした。
それから必死に誤解だと言い募る。
「私、知っています。"令嬢の中の令嬢"と尊敬の眼差しを集めるエラ様が、誰よりもそうあろうと必死に努力なさっているの。特にヴィセルフ様とのご婚約が決まってからは、より一層、ご自身の心よりも"ブライトン家"としての在り方をその背に負ってらっしゃるの」
深く深く沈んだ、胸の奥底で。
雫が一滴、落ちる音がした。
「ここには、一介の侍女である私とエラ様しかおりません。他の目はないのです。なのでせめてこの、美しい草花に囲まれたお茶会のひと時だけでも、"ブライトン家"ではなくエラ様として、その心を安らげる場になれたらと……っ!」
("ブライトン家"ではなく、"わたくし"として――?)
"わたくし"の価値は、存在理由は、"ブライトン"の名の下にある。
その証明が、"エラ"とつけられた名。
わたくしの心、なんて。誰も必要とは――。
「エラ様。この場ではエラ様がどんなにその背を崩そうと、咎める者はおりません。例えお紅茶を音を立ててすすろうと、私の耳には小鳥のさえずりしか届きませんし、フォークではなくその指でクリームを舐めとったとしても、私はティーカップにお紅茶を注ぐのに夢中で気づかないでしょう」
この国ではあまり見かけない、紫の色をした瞳。
その瞬きは、かつてないほど真摯で。
彼女から発される言の葉ひとつひとつが、わたくしの胸の奥深くにじんわりと沁みこみ、真っ暗な水面を揺さぶる。
「この奇異なお菓子がテーブルに乗る"おかしな"お茶会では、笑うも怒るも心のまま自由に。そうした願いをこめて、チュロスをお出ししたのです……っ!」
感情をそのまま吐露したように、息をあげる彼女。
噓偽りのない、彼女の願いを乗せた言葉たちが、わたくしの仄暗い水面に光を射す。
「……わたくしの心、ですか」
彼女の照らした光に。
ずっと眠っていたそれが、トクリと動き出した。
「そのようなことを言って頂けたのは、初めてでございます」
――気づいてくれた、人がいた。
わたくし自身さえ、忘れてしまっていた心に。不必要だと、切り捨てたそれに。
この方は、彼女だけは。"エラ"の名を持つ少女ではなく、"わたくし"を、その瞳に映してくれる。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
彼女は心底驚いたような声をだしたけれども、即座にその名をおしえてくれた。
ティナ・ハローズ。
その家名に覚えはないけれども、そんなことは取るに足らないこと。
わたくしの心を掬い上げてくれたのは、紛れもなく。
この目の前に立つ、眩き朝日のごとき笑みを浮かべた、ティナなのだから。
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