5.花火平岬にて
「花火平ぁ~、花火平ぁ~」
電車が駅に着くと、私はおしょうゆさんが入ったデイパックを背負う。これから岬にある灯台に向かうのだ。
――花火平岬。
先端に灯台がある、海からせり上がる岸壁が有名な観光地。
『なんでも、打ち上げ花火が横から見えるくらい標高が高いっちゅう噂やで』
「それも醤油ネットワーク情報?」
『せやな』
それほどまでに標高が高いのなら安全だ。
私は、おしょうゆさんと一緒に海に行こうと決意した。
「あれはね、十年前だった……」
灯台への道を歩きながら、私はおしょうゆさんに話しかける。
「大きな津波がこの地域を襲って、従姉妹の麻里さんが行方不明になっちゃったの……」
麻里さんは何処に行ってしまったんだろう?
あの日、彼女の身に何が起きたんだろう?
それを想像するたびに、テレビで見た津波の映像が私の心に襲い掛かる。
――黒い水、冷たい空、巨大な波。
きっとあの中に飲み込まれてしまったんだ。その恐怖は、まるで自分の身に起きた出来事のように心に刻みつけられた。
海は危ない、海に近づいちゃダメだ、海を見に行ったら大変なことになる。
「あの日以来、私は海に近づくことができなくなった……」
十年経った今でも、その恐怖は消えていない。
むしろ十年目だからこそ、その事実は重く私の身に迫りつつあった。
「麻里さんはね、私よりも十歳年上だったの」
何でも知ってる優しいお姉さん。
その年の差は、永遠に縮まることはないと思っていた。
「今年、私は麻里さんと同じ年になる。そう思うと、いたたまれなくなって……」
あの時、麻里さんが何もできなかったとは思いたくない。
でも同じ年になった私に何ができるかと問われても、何も答えることができない。
願いは一つ。津波の被害を軽減したい。
麻里さんだって、そう願っていることは明らかなのに。
「ねえ、おしょうゆさん。「稲むらの火」って話、知ってる? 火を起こして津波から人々を救ったという人の話」
『
「そう、濱口梧陵。醤油に関係ないのによく知ってるね、おしょうゆさん。それも醤油ネットワーク情報?」
『関係ないことなんてないで。梧陵はんは、湯浅の醤油商人の子や』
「えっ、そうなの?」
まさか津波と醤油が、こんな風に繋がるとは思わなかった。
『それに梧陵はんはな、子供の頃、この地域に住んどったんやで』
「ええっ!?」
私は何か不思議な縁を感じていた。
「私ね、十年前のことを思い出すたびにいつも考えるの。濱口梧陵が生きていたら、もっと多くの人が助かったんじゃないかって。濱口梧陵のことをもっと早く知っていたら、私は麻里さんを助けられたんじゃないかって」
自分の心を押しつぶしていたのは、そんな自責の念だった。
『沙希ちゃん、人間はそないに完璧やあらへんで。たとえ梧陵はんが生きとったって、結果は変わらんかったと思う』
「何でそんなこと言えるの? 濱口梧陵は藁に火をつけて、人々を津波から救ったのよ」
『それはフィクションや。本当の梧陵はんはな、不覚にも津波にさらわれてしもうたんやで』
「ええっ!?」
そんなこと初めて聞いた。
「嘘。そんなの嘘よ」
『梧陵はんかて人の子、湯浅の子。不意打ちくろうて津波にさらわれてしもうた梧陵はんはな、海の中で必死に陸を探したんや。しかし夜で辺りは真っ暗。当時は江戸時代やから、今みたいに街の光もあらへんし。だから運よく陸に上がれた梧陵はんは、すぐに藁に火をつけたんや。海に流された人々に陸の位置を教えるためにな』
ま、まさかそれが真相だったなんて……。
自分の中で神格化されていた濱口梧陵のイメージが崩れ去った瞬間だった。
『「稲むらの火」は、この話をもとにして作られたフィクションや。でもな、梧陵はんが偉いのはここからなんやで。二度と同じ悲劇を繰り返さんようにと、私財を投じて堤防を建設したんや』
そんなことがあったとは……。
そうか、濱口梧陵も私も同じなんだ。
あの時に何もできなかったことを後悔するんじゃなくて、これから何ができるのかを考えなきゃいけないんだ……。
『おおっ、海の香りや。懐かしい潮の子守歌や』
気がつくと目の前に白い灯台が迫っていた。
岸壁に打ちつける波の音もかすかに聞こえてくる。
『おおきに、ホンマにありがとな、沙希ちゃん。わいはそろそろお別れや……』
「おしょうゆさん、もうちょっと待って。灯台まで連れて行ってあげるから」
『沙希ちゃんは今、十年前の悲しみを乗り越えようとしとる。せやから、もう大丈夫やと思うで』
「そんなこと言わないで。ほら、もうちょっとで海を見せてあげられるから」
『ほな、さいなら……』
「海だ! 海が見えた! おしょうゆさん、海だよ!!」
おしょうゆさんの返事は、これ以上私の耳に届くことはなかった。
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