この旅館の地下一階に、大浴場がある。


 が、月人は、部屋にある浴室で、手ばやくすませてしまった。ひとりで、じっくり考えたいことがあったのだ。


 しかし、考えるだけ考えたすえに、考えるという行為そのものが、自分のなかにある、もやもやとしたものを、ますます大きくしていることに、きづいて、頭をかきむしって、考えることを、やめた。


 一方、シャーロットは、意気ようようと、大浴場に行ってしまった。月人は、こうしたところに、彼女とのあいだにある、架橋かきょうできないものを、感じてしまうのだった。



 月人は、窓ぎわの椅子にすわり、いまだ眠らない温泉街の風景を、ひとつの灯りにして、本を読みはじめた。


 なぜか、いつもとはちがい、なにもかもが、あたまに入ってこなかった。温泉街のあたたかい、色の喧噪けんそうは、月人に、ありふれたいとなみを、させまいとしているようだった。



 コンコン。ドアがノックされた。



 月人は、本をうつぶせに置いた。



 コンコン。もう一度、ノックされた。



 ドアのロックを外すと、あおいろの浴衣姿になった、シャーロットがいた。肌がほんのりと、朱色をおびている。あるいてはたどりつけないそのに咲く華のような、あたたかくて、こそばゆい、そんなかおりが、ただよってくる。




 食事まで、まだ少し、時間があった。


 ふたりは、座敷のまんなかの机をはさんで、向かいあった。



「温泉に入らないなんて、ほんと……そんをしているわ。日本にきてから、月人の家で、お風呂に入ることはあったけれど、やっぱり、温泉というのは、格別なのね。かおりも、ぬくもりも、肌ざわりも、雰囲気も……まったく違ったわ」



「シャーロットが満足できたなら、それでいいよ。くににかえってしまったら、味わえないんだから……シャーロットが思うぞんぶん楽しめれば、それでいいんだよ」



 足のぐあいがよくなかったのか、シャーロットは、姿勢をかえた。


 すると、そらしぎみだった、月人の眼に、肌をあたためた、シャーロットのすがたが、とびこんできた。月人は、ドキリとして、ああ、考えるのは、ばからしかったんだと、思った。


「ねえ、いままでなにをして、わたしを待っていたの?」


「……ゆっくり本を読んでいたよ」


 シャーロットの、きらびやかな、金色こんじきの絲は、まだかんぜんに、かわいていなかった。月人は、もう一度、そういうことなんだ、こたえは、たんじゅんなのに、そのこたえに落ちつくと、傷つくのは目にみえていたから、さけていたのだと、きづいた。



 月人がかおをあげると、シャーロットも、それにこたえた。おのずから、ふたりのあいだに、橋がかかるかもしれなかった。

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