第7話 実戦テスト

「はあ、はあ、はあ、はあ」 


 俺は必死で森を駆けていた。後ろに迫る巨大な魔力に背中をあぶられる気分だ。上級生達を捲こうとして危険地帯ぎりぎりを攻めたのがまずかった。


 これなら捕まった方がましだったんじゃないか。クライド曰く、王家と騎士院の対立は周知の事実らしいし、俺は何の力もない平民上がりだ。


「よりによって魔狼ダイアべロスかよ!!」


 背後に迫るのは巨大な四つ足の獣。ダイアべロスはべロス系の中級魔獣で熊ほどは大きくないが、その脅威度は十分すぎるほど高い。しかも鼻がいいから魔力が少ない俺も見逃さない。


 中級魔獣は現役騎士パーティーが主に獲物にするクラスだ。つまり、本職でも一人で遭遇したなら基本は逃げるということ。学生が一人で遭遇した日には逃げることすら難しいということになる。


 俺が今日の演習のために作った自前の地図にも、出会ってはいけない魔獣としてしっかり記録している。


 救いは相手の足音に乱れがあることだ。右前腕の毛皮が赤く染まっているのだ。血に魔力の光が見えるということは、まだ出血が止まっていないようだ。


 もしかしたらさっきの三年生が逃した得物だったのかもしれないな。


 走りながら周囲を見る。太陽の方向、地形の特徴と勾配、北の強い魔力の反応は三年生、東のそれよりも弱い魔力の群れは二年生だ。となると向かうべきは東か。この先の河沿いを行くのが一番近い。


 俺は大木を曲がり東に進路を取った。やがて水の音が聞こえ、木々の切れ目から濁った河の流れが見えてきた。


 ここから川沿いに走れば演習地だ。流石に手負いの魔獣が多数の狩人のいる場所に近づかないはずだ。運が良ければ哨戒中の教官に見つけてもらえる。そう思って森を抜けた時だった。


 やっと見えたと思った生存への道が目の前で途絶えていた。前方の地面が泥と化しているのだ。川上の雨による増水か。そんなことまでは押さえてなかった。


 背後の魔力と足音が近づいてくる。藪が揺れ、わき腹と右腕を血で染めた巨体が姿を現した。ダイアべロスは血走った目でエサを見る。中級魔獣とガチで向かい合うのは初めてだ。四つ足なのに俺よりも高いところに顎がある。


 逃げるためには泥沼を迂回して演習地への進路を取り戻すしかない。そして、それは目の前で俺のことを完全に獲物だと思っている、あの狼の背後に抜けないといけないということ。なんだ、退路がないってことかよ……。


 俺の両親もこんな気持ちになったんだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。


 いや、駄目だ。もしも俺がここであきらめたら、レイラ姉たちが……。それに、俺はまだやれることが残っている。


 手に持った狩猟器と懐に忍ばせている魔力結晶を確認する。中級魔獣相手にぶっつけ本番で中位魔術の試用、やるしかない。


 せめて発動だけはしてくれ。祈るような気持ちで狩猟器に魔力を込める。


 複雑で長い回路に魔力がどんどん吸われていく。精製色媒の伝導率は期待通りだ。スムーズなのはいいけど魔力供給が付いていかない。冷や汗をかきながら、何とか術式全体に魔力を通しきった。

 これまで見たことのない濃度の緑光がほとばしった。棒にすぎなかった狩猟器に緑光の刃が宿る。魔力で狩猟器そのものを強化する下級魔術ではなく、狩猟器を芯に魔術の効果を発現するのが中位魔術だ。


 持ち手の方に下がるにつれ幅を増すその形状はまさしく盾と剣を組み合わせたよう。魔力があれば大剣くらいにはなるんだが、俺じゃこれが限界だ。むしろシダの葉みたいに刃が揺らいでいる。


 だが、向けられた魔力の刃にダイアべロスは僅かに警戒したようだ。だが、すぐにじりじりと距離を詰め始める。


 額から脂汗が流れる。目の前の魔獣への恐怖だけじゃない。手足が冷たい。まるで心臓が両手に向かって引っ張られているような苦しさ。油断したら意識がとびそうだ。中位魔術って維持だけでこんなに魔力を使うのか。


 だが、活路はこの手の魔術だけだ。時間がたてばたつほど不利になるのは分かっている。覚悟を決めて前に進む。


 狩猟器を正眼に構える。大事なのは倒すことじゃない、逃走経路を開くことだけだ。刃の先端を向こうの眉間に向け、けがをしている右腕の方に回り込む。僅かに背後への道が開けた。そう思った瞬間、額に魔力による圧力が吹き付けられた。巨大な犬歯の付いた顎が目の前に迫った。とっさに手首をひねって面で受ける。


 がりがりという音をたてながら、大あごが緑の刃の向こうを通り過ぎる。


 反動で後ろに吹き飛ばされ、何とか転がって受け身を取った。今の攻撃に耐えれるのは流石中位術式だ。狩猟器を強化しただけなら狩猟器ごと腕が無くなっていたぞ。


 しかし、今のでがっつり魔力を削られた。明らかに刀身が短くなり、手元のふくらみも小さくなっている。もう一度さっきのが来たら次は本当に腕ごといかれる。


 だが、その時希望が近づいてくるのを感じた。


 演習地の方から二つ、人間の魔力が近づいてくる。教官が魔獣の接近に気が付いてくれたか。


 ここは最大限、守りに集中するべきか。いや、それじゃきっと間に合わない。さっきの一撃だって半ば運で避けたんだ。


 俺にとっての助けはこいつにとっては敵だ。判断のバランスを変えさせるためにもとにかく一撃当てる。そして怯ませる。俺は先端を魔獣に向けて牽制し続けながら、胸元の魔力結晶を握りしめた。


 相手の足の動きでタイミングを計る。地面の倒木を避けて魔獣の右足がほんの少しだけ泳いだ。


 いましかない!!


 姿勢を低くして走った。向こうが改めて踏み込んできたのと同時にその腹に向けて突き上げる。このタイミングなら、そう思った時、襲い掛かってきたのは血だらけの腕だった。


 魔力結晶を掴んだ手に力を籠める。ひび割れる感覚と共に発生したのは自前のものよりもはるかに大きな魔力だ。空になりかけた体に逆流しそうな魔力を全て狩猟器に注ぎ込む。


 光を増した緑の光刃を迫りくる巨大な爪の軌跡に夢中で合わせた。


 ザっという音がして、頭上をゴウという風切り音がした。風圧だけで首を吹き飛ばされたような気分だ。反動で前のめりに体がとんだ。草の葉で頬が切れ、土の匂いが鼻に入り込む。


 遅れて、生暖かい何かが雨のように降り注ぎ、視界を半分ふさいだ。


 何が起こったのか分からないまま、少しでも距離を取ろうと四つん這いで走った。倒木までたどり着いたところで、やっと後ろの魔力が弱っていく事に気が付いた。


 朽木に手を着き何とか二本足で立ち上がった。恐る恐る振り返る。


 そこには右前足を切り飛ばされた魔狼が横たわっていた。苦しそうに舌を出し、もがく魔獣。大量の血が噴き出して地面を染めている。どうやら奇跡的に腕の太い血管に届いたらしい。それにしては手ごたえがほとんどなかったけど……。最初の傷で開いていた毛皮の部分に重なったのか?


「ラ、ラッキーパンチってやつか……」


 思わずへたり込んだ。腕から力が抜け、光を失った狩猟器が地面に転がった。だが、ホッとしたのも束の間だった。後方で茂みがさっと揺れる音がした。


「リーディア様。突出してはなりません。魔力からして相手は中級です」

「間に合わなかったらどうするのよ。学年代表として見捨てられないでしょ」


 慌てて狩猟器に手を伸ばそうとした時、二人の女の子の切迫した会話聞こえてきた。次の瞬間、白い太腿が二組、倒木を飛び越えた。


 前方に着地した赤毛と黒髪の少女。二人は倒れている魔獣を前に硬直した。


「やっぱりダイアべロスって……死んでる!? なにこれどういうことよ。一体誰が…………」


 動かぬ魔獣に向けて剣を構えていた赤毛の少女が、やっと後ろの俺に気が付いた。振り返った王女様は俺を見て口を押えた。


「あ、えと。大丈夫です……多分」


 血まみれの右手と泥まみれの左手を上げる。地面で打った肩が痛いし、細かい擦り傷だらけだ。だが、これで済んだのは幸運そのものだった。


 王女様はほっとした顔を見せる。だが、彼女は何かに気が付いたようにぎょっとした表情に変わった。


「……あなたがダイアべロスを狩ったの? まさかその狩猟器で?」

「え? や、あ、あのこれは……」


 地面に転がる棒切れに王女様の視線が向いている。俺が上級色媒を持ってるなんてどうやって説明する? いや、そもそも上級色媒じゃないんだが……。


 一瞬焦ったが、王女様は首をかしげるだけ。よく見ると狩猟器の術式は魔獣の血で染められてほとんど見えない、柄の近くに覗く回路も焼けこげたように変色している。


「リーディア様。この魔獣はどうやら手負いだったようです。わき腹と腕に青い魔力の物と思われる傷がありました」


 戻ってきたご令嬢が報告した。青い魔力……さっきの先輩達が逃がした魔獣って予測は当たってたか。


「そうです、もともと出血して弱ってたみたいで。偶然ボクの狩猟器が傷のところに当たったみたいで……」


 手負いだったのも魔力結晶の力を借りたのも事実だ。ちょっとズレただけで今頃彼女が見つけたのは同級生の死体だっただろう。


「でも、さっきの一瞬だけど緑の強力な魔力が、とんでもない鋭さを感じたけど……」

「それは、もしもの時の為に持たされてる魔力結晶を使いました。その魔力です」


 砕けた魔力結晶を見せる。額の血糊の下で汗が流れる。これは万が一の時の為に生徒に持たされている命綱だ。本来なら何回か使えるはずの魔力結晶が一度で空になっている。


「でも、この切り口、それに地面の足跡は……」

「リーディア様、ダイアべロスを一人で狩るなどこの者にできるわけがありません。我々でも難しいのですから」

「……そうよね」


 王女様は頷いた。騎士としての常識が勝ったらしい。というか、やろうと思ったら一人でアレを狩れるのか……。っと、それよりもだ。


「あの、助けに来てくれてありがとうございます」


 俺は王女様に頭を下げた。結果的に自分で解決できたとはいえ、来てくれたのは事実だ。


「気にしなくていいわ。学年代表として同級生の安全には責任があるもの。ただ、何故こんなところにいたの。教官がいった危険地帯に近づかないようにという注意を聞いてていなかったの」


 説教が始まった。ここは黙って聞くしかない。


「いいかしら。成績のことに焦りがあるとしても…………。後は、あら、これもあなたのかしら?」


 リーディアが地面に落ちた紙を拾った。俺が事前調査した地図だ。戦いの弾みで懐から落ちたらしい。彼女はそれをじっと見た。


「……ずいぶんと詳しいわね。なるほど、こういう風に情報を……って、ちゃんとここが危険地帯だって自分で書いてるじゃない」

「す、すいません」


 …………


 結局俺は泥だらけのまま二人の女子に保護されるように演習地にもどってきた。同級生たちの軽蔑の目にさらされる。教官からは危険地域に入り込んだことを事務的に怒られた。


 そして今回の演習の成績だが、いつも通り0点だ。狩猟には一番槍のルールがある。ある騎士が最初に魔獣にダメージを与えた場合、その出血が止まるまではその騎士に優先権があるというルールで、獲物の横取りや騎士同士の争いを避けるためにある。


 学年代表として厳密であられる王女様は、そこら辺のことまでしっかりと教官に報告してくれたのだ。まあ、正しいことだし仕方がない。


 考えてみれば王女様達が来てくれなかったらあの後無事に演習区画まで返ってこられた保証もないしな。そこはやはり感謝しなくちゃいけないだろう。


 それにもし成績が認定されたら説明できないし、しかもあの先輩たちに目を付けられる可能性もあった。


 ちなみに、一番槍が名乗り出なかったので魔力結晶と髄液は没収されなかった。


 だが、俺にとっては得点や髄液のことは重要な話ではなかった。今回の演習は最初から錬金術の実地試験だ。肝心のその試験で分かったことの方がずっと重要だ。


「ここのままじゃダメだな……」


 川の水で血と泥を落として焼けこげた狩猟器の術式を見る。自前の低い魔力から魔力結晶の高濃度の魔力にいきなり切り替わった、そのギャップの大きさの跡だ。そして、ほぼ完全に枯渇した体内の魔力はまだ回復していない。


 発動させただけで体が空っぽになったようなあの感覚を思い出す。中位術式の規模による必要魔力の最低ラインを完全に甘く見ていた。

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