最終章
Side梨乃 ㉘約束
一二月上旬の風は、夜の闇と溶け合い冷気を孕ませている。凍えるような寒さに体の軋む音がするが、その程度では足を止めるには及ばない。縺れる足だって構いなしに、走る。
こんなことになるのなら、普段からもっと運動をしておくべきだった。
舌打ちを月夜に紛れさせ、華崎梨乃は目指すところへ急ぐ。
未だに信じられない。漠然とした夢のかけらを抱え、親友との約束を果たすために、彼女は決して足を休めやしない。
〝これは夢だから、きっと目が覚めたら忘れちゃうと思う。だから、もし覚えてたら……どうか、わたしとの約束を果たしてほしい〟
何とも柚希らしい、遠慮深い言葉だ。しかし、梨乃の辞書には、約束を破るという言葉は存在しない。もっとも、親友との大事な約束だ。尚更果たさずにはいられないだろう。
〝忘れない。柚希のことも、約束も……。柚希が勇気を振り絞ったのだから、私もそうする。……逃げないことの強さを、柚希が教えてくれたから〟
哀傷を鋭い双眸からまき散らし、彼女は夜を駆け抜けた。
あの日から、何度も訪れたこの家屋。彼が姿を現したことはまだ一度もない。
玄関先に佇み、息が整うのも待たずして呼び鈴を鳴らす。だが、それに応答するような者の気配など感じられない。当然だ。時刻は深夜の三時を回っている。普通なら誰も出て来やしないだろう。しかし、梨乃にとってそれだけは絶対に避けなければならない。
覚悟を決めた梨乃は、呼び鈴をしつこく鳴らし続ける。
屋外まで反響するブザー音。その振動は、まるで自身を追い返すべくして鳴っているようにも錯覚する。
受け入れられないなら、受け入れてもらえるまで鳴らすのみ。
もう一度、その手が呼び鈴に触れようとした時、扉の鍵をまわす音がした。
勢いよく、目の前の扉が開かれる。
玄関から顔を出した家主は、鬼のような形相で梨乃に向かって怒鳴りつけた。
「誰だ! まだ深夜なんだぞ! 時間を弁えろ!」
怒声が耳を劈く。人が本気で怒鳴りつける迫力は、並大抵の人間では耐えられないだろう。
「突然お邪魔してすみません……! とんだ無礼だということはわかっています! でも、お願いします……! 今! 瀬戸く……いいえ、彼方君に、会わせてください……!」
決して楽観視などしていなかった。扉が開かれたら、それでゴールだなんて思ってはいない。寧ろ、立ちはだかるのは困難ばかりだということは知っている。いつだって、梨乃の眼前には壁ばかりが聳え立っていたのだから。でも彼女は、そんな壁を自分の力だけで乗り越えてきた。だからこその強さで、彼女はここに立っている。
逃げることだってもう許されない。大切な親友が与えてくれた勇気に、背を向けるなど言語道断。
どんな罵声を浴びせられようとも引き下がるつもりもなければ、黙って怒鳴られ続けるつもりもない。
非礼を詫び、彼との対面を懇願する梨乃は、一心不乱に頭を下げ続けた。
「お願いします……!」
丁寧に頭を下げる少女の姿に、家主である父親は小さく息を呑んだ。依然として状況はわかるまい。だが、怒声を浴びせるべき相手ではないということは理解したのだろう。ましてや、夜中だというのに肩で息を切らしているなど、只事ではない。
「……君は、彼方の友達か? すまない……。頭を、上げてくれ……」
予想外の家主の声を聞き、梨乃はゆっくりと顔を上げる。
「……はい。申し遅れました。私は華崎梨乃と言います。彼方君の、友達で部活仲間です」
「そうか……。怒鳴って悪かったね。それにしても、どうしてこんな時間に?」
至極まっとうな問いだ。梨乃自身も、どうしてこんな時間に走ってまで無礼を働かねければならないのかと嘯きたいほどだ。
でも、だからこそ答えねばなるまい。
「彼方君は今、部屋で泣いているんです……」
「彼方が泣いている? どういうことだ? あいつと、電話でもしていたのか?」
もちろん電話などしていない。そもそも彼方と連絡すらついていないのだから不可能だ。
しかし、ここは嘘を通すに限る。夢のシンクロなんて話が、誰にでも通じるとは思えない。
「はい。それで、夜中だということを弁えたうえで、一刻も早く駆け付けるべきだと判断し、お邪魔させていただきました」
演技力は抜群だ。何せ、彼方に、役者を目指してみてはどうかと本気で思わせたほどなのだから。
「そう、だったのか……。彼方は、部屋に籠りっぱなしで……俺たちと顔を合わせてくれないんだ……。ずっとそんな日が続いてるよ……」
「……そう、ですか」
彼の心に根付いた絶望の尺度は、柚希への想いと直結する。果たして、自分なんかに彼を支える大役が務まるのだろうか。……わからない。でも、それでも、やると決めたのだから妥協なんてしていられない。
「華崎さん、彼方のこと、頼んでもいいかい?」
縋るような父親の瞳に、梨乃は決意を灯す。
「もちろんです。私に任せてください」
そのために、ここまでやって来たのだから。彼女は力強く頷いて見せた。
父親に教えてもらった通りに、階段を駆け上がり、手前の部屋の前に立つ。どうやら鍵はついていないみたいだ。それを確認すると、一度呼吸を落ち着かせて、不退転の決意を持って扉を開け放つ。
彼女の瞳に映ったのは、地べたにひれ伏し、ノートに向かって必死に何かを書きなぐる彼方の姿だった。
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