五回目 ㉗僕の想いを君に


     *


 これで、思い出話は終わりだということなのだろう。彼女はにっこりと笑って口を閉ざした。

 口を挟まず、彼女の語る言葉を心身で受け止め、温かなもので胸が満たされた。知られざる彼女の心境に、喉の奥がひりつく。


「そっか。あれは、柚希の書いた小説だったのか」


 今でもきちんと覚えている。図書室で拾ったあの小説。とある出来事によって傷ついた少女に、優しく寄り添う少年の物語だった。赤い文字で所々修正されていたその原稿は、一目で公募用のものであると理解した。何より、熱意が籠っていた。

 あの日偶然拾った小説の原稿が、僕らを引き合わせて、そして恋をさせた。

 僕の独りよがりなんかじゃなくて、互いに初対面だったあの文化祭の時から、僕らはずっと同じ気持ちだったんだ。


「うん。いつ気づいてくれるかなって、ずっとドキドキしてた」


「今でも信じられないよ。あの小説を書いたのが、まさか柚希だったなんて……」


「ひっどいなー。陰ながら応援してるとか書きながら、本当は全然応援なんてしてなかったんじゃない?」


「いや、誰が書いたんだろうってちょくちょく気にはしてたんだよ。今もまだ書いてるのかなーとかさ。でも、柚希だとは思ってなかった」


「まあ言わなかったわたしも悪いけど……。でも、ずっと読んでたら気づきそうだけどなー。文章の特徴とかでさー」


「だってあれ、BLものじゃなくて青春ドラマだったじゃないか」


「失礼な! わたしだって他のジャンルのものも書くよ! っていうか他のも読んだんだから知ってるでしょ!」


 頬をぷっくりと膨らませる柚希の頭を、よしよしと撫でてやる。すると、柚希はふにゃっと表情を和らげて大人しくなった。

 まったくわかりやすいやつめ。そこがまた可愛いんだがな。

 存分に堪能した手を引っ込めて、窓の外を見やる。既に日は沈んでいて、辺りが夜に飲まれようとしていた。


「次の文集用にはどんな話を書こうかなー」


 期待を含めて声で、柚希が未来を見据える。


「せっかくだからループものなんてどうだ?」


「お、いいねー。この繰り返される夢を題材にしたミステリー小説って感じで。そうなると、主人公はやっぱり彼方くんかなー?」


「ちょいと気恥ずかしいけど、柚希の書く僕の描写は気になるな」


「もちろんお人好しで変態でよく独り言を呟いてる駄目系主人公だね!」


「全然愛着わかないなーその主人公。誰も読まないんじゃないか?」


「大丈夫だよー。少なくとも一人は読んでくれるよ。だから安心して主人公をやりなって。ね?」


「って、読者は僕一人ってことじゃないか。……虚しすぎるよ。せめて主人公は代えてくれ」


「駄目だよ、主人公は彼方くんじゃなきゃ盛り上がりに欠けるから」


「それはいまいちよくわかんないんだが……。まあいいや、大人しく犠牲になればいいんだろ、犠牲になれば」


「まーたそんなこと言って、本当は楽しみなくせにーこのこのー」


 仕返しとばかりに、今度は柚希が僕の頭をわしゃわしゃと撫でまわす。年下扱いされているみたいでむず痒いが悪い気はしない。仕方なく、この行為に甘んじてやろう。

 やがて、乱暴だった彼女の手が、徐々に、弱く、優しくなっていく。その手を下した柚希が、朗らかな調子で口を開いた。


「来年の文化祭かー。もっと楽しいことがたくさん待ってるんだろうね」


「ああ、今日だけじゃ足りなかったこと、もっとたくさん待ってるさ」


「次の文化祭、彼方くんは何がしたい?」


「そうだなぁ、二人にコスプレしてもらって、文集の売り込みとかどうだ?」


「またそういう変態なことばっかり考えて。もうちょっとちゃんとしたものはないのかなー?」


「僕が変態じゃなくなったら、それこそアイデンティティがクライシスするじゃないか」


「まあそうだけど……」


「いやそこは否定してくれよ!」


 ったく、僕のことをただの変態だと思っていやがる。僕には変態以外にも、ちゃんと個性があるんだ。……と信じたい。


「じゃあ、そういう柚希は何がしたいんだ?」


「わたしはねー、ちょっとしたノベルゲームとか作ってみたいな」


「お、いいんじゃないか? そのためにはまずプログラミングの勉強をしないとな」


「あとイラストを描けるようにもならないとね」


「早速これからやらなきゃいけないことだらけだ」


 きっと楽しい。そんな未来を辿れたら……。


「あと、今度は文化祭、三人で回りたい、かな」


 柚希が遠慮気味に笑うから、僕はありったけの笑みを送る。


「ああ、そうだな。三人で勝負事とかしてもいいかもな」


「いいねーそれ! 楽しそう! もちろん順位を競って、最下位には罰ゲームだね!」


「受けて立とうじゃないか! 絶対に僕は負けないからな!」


「わたしだって負けないから! 彼方くんに恥をかかせてあげる!」


 うっしっしと何やら悪巧みながら笑う柚希に対抗して、僕も彼女に笑いかける。これから待っている、最高の未来を想像して、楽しみを先取りして、僕は彼女と笑い合う。


「楽しみだね、彼方くん」


「ああ、楽しみだ」


 二人で過ごしたこの一日を、遥かに上回るほど充実した日々がこれから毎日やってくる。この一生分の幸福感を更新してくれるような日常が、ずっと、ずっと、続いていく。

 それは絶対に、楽しいに決まっている。

 だから、そんな未来を切り開くために、今日という一日の終わりを祝福しなければならない。

 今日を終わらせて、明日を迎え入れなければならない。

 もうすぐ、文化祭は終わる。この夢も、終わる。

 だというのに、彼女と歩みたい未来がどんどん膨れ上がってきてしまう。だからもう、この辺りで終止符を打たなければならない。


「なあ柚希?」


「うん? どうしたの? 彼方くん?」


 この夢が終わったら、僕らはもう恋人ではいられなくなる。彼女のことを好きでいることは許されなくなる。この気持ちは、ここに置いていかなければならない。

 溢れ出す想いを、目の前の彼女を――。


「僕たちさ……今日で別れようか」


 最初から決まっていたこと、決められていたことだ。僕らの関係は、長くは続けられない。そういう約束のもとで成り立った関係なんだ。

 自然消滅っていうのも、ありかもしれない。でもそれは、別れではなく、辿った足跡を掻き消す行為に違いない。そんなのは、僕は絶対に望まない。

 彼女と歩んだこの旅路は、僕の大事な宝物なんだから。

 大好きな彼女への想いをここに置いていくには、僕の意志だけでは足りやしない。未練を残さず、悔いを残さず、想いを断ち切るためには、この気持ちを、言葉にしなくちゃいけない。

 だから――。


「僕は、柚希のことが好きだった。大好きだった。でも、今はどうだろう? 僕にはもう、そんな気持ちはないのかもしれない。柚希との恋人関係は、きっと一日限りで十分だったんだ。これ以上はさ、長くは続かなさそうな気がするんだよ」


 彼女を好きでいることが、僕の歩みを止めてしまうというのなら、僕はもう彼女を好きではい続けない。そしてそれを、彼女が強く望んでいるというのなら、尚更。


「うん。わたしも、彼方くんのこと、大好き、だっ……た。でも……もう……わた、し……彼方くんの、こと……」


 言葉を紡ごうとすればするほど、柚希の焦点が定まらなくなる。どこへ吐き出せばいいのかわからないといった様子で瞬きを繰り返し、その度に、数多の感情が弾き出された。


「ったく、何泣いてんだよ、柚希?」


「だって……だって……」


「誓った、だろ? 僕はこの夢の間だけ、柚希は生涯、互いを愛すって。だからもう、終わらせなくちゃいけないんだ。それを望んだのは、柚希だっただろ?」


「でも、やっぱり……わたし……」


「駄目だ、柚希。僕らは一度そう誓ったんだ。今更なかったことにはできない。ほら、泣いてないで笑ってくれよ? 泣いてお別れなんてしたくないだろ? それに、僕ららしくもない」


 彼女のそばに歩み寄り、そっと涙を拭いとる。それでも、一度決壊した堤防からは、中々そいつは止まってくれないみたいだ。


「いや、だ……。わたし、まだ……彼方くんと一緒に居たい……。彼方くんと、もっと……たくさんの、思い出を……作りたい……っ」


「もう、十分幸せだって、そう言ったじゃないか、僕も、柚希も」


「う、そ……嘘だよ……。そんなの、無理……。まだいっぱい、やり残したこと……ある……まだ、彼方くんのこと……諦め、られない……。だから、わたし……まだ……死にたくない……死にたくないよ……っ!」


 彼女に想いを伝える度に、僕は彼女を泣かせてしまう。彼女を守りたいと思っていても、僕が彼女を壊してしまう。彼女を死なせてしまった僕に、本当は彼女を愛する資格なんてなかったのかもしれない。でも、それでも彼女は、こんなどうしようもない僕を選んでくれた。こんな大嫌いな自分自身のことを、大好きだと言ってくれた。

 言葉にすればどうとでも言える。わかっている。自分が半端な人間だってこと。でも、目の前の彼女が泣いているんだから、ほっとけるわけがないじゃないか。

 だから、僕はそんな彼女を強く抱きしめる。


「なあ柚希。僕のこの温もりは、まだ君に伝わっているか? 僕の、君を想う気持ちは、きちんと君に届いているか?」


 鼻を啜り上げる柚希が、嗚咽交じりに首を縦に振る。


「言葉っていうのはさ、凄い力を持ってると思う。文字に起こしても、声に出しても、それを受取る誰かに想いを伝えることができるから。嬉しいことも、悲しいことも、悔しいことも、辛いことも、妬ましいことだって、何だって届けることができる。でもその代わり、言いたくないことも、聞きたくないことも、どれだけ自分が拒んでいようと、それを遮ることはできないし、消し去ることもできない。凄い力を持っている分、やっぱり副作用は付き纏うんだ。僕らの必要としているこの処方箋には……」


 柚希を抱きしめる両腕に、ありったけの力を籠める。言葉になんて表せられない、彼女への溢れ出す想いを、壊れても構わないから、それでもいいからと強く、強く押し付ける。


「だけど、この温もりは、抱きしめた相手にしか伝わらない。僕が今抱きしめているのは誰だ? 僕のこの想いを受け止めてくれているのは誰だ?」


 柚希が、僕の背中に手をまわし、僕の想いに必死で応えようとしてくれている。


「僕は、他の誰でもない、たった一人の君に、この想いを届けたい。でも、届かないっていうならそれは仕方ないよな。僕の熱量不足なんだから。君への想いが弱すぎる僕に責任があるってことだから。でももし、この想いが君に届いているのだとしたら、どうか、笑ってほしい」


 切なる願い。僕の想いが本気かどうかは、君が判断してほしい。


「だから、泣きたいならずっと泣いててもいいよ。でも、僕はそんなのは嫌だね。僕なら笑っていられる。こんなに可愛い彼女と付き合えて、結婚までして、これ以上の幸せはもう訪れっこないんだからな。悲しくなんてないし、寧ろ誇りに思う。僕は世界一の幸せ者なんだって、他の人たちに自慢したいんだ。だから笑ってる。柚希がどんなに悲しく思ってても、僕はずっと笑っていられる。大好きな彼女が、今まで僕にそうしてくれてたように、いつまでも、いつまでも笑顔でいられる」


 君がどうしても笑えないというのなら、僕が君みたいに笑いかけ続ける。いつか君が泣き止んで、僕に笑顔を向けてくれるまで、僕はずっとそばに居る。

 君も知っての通り、僕は嘘がつけない正直者だから。君が笑うまで、ずっと、ずっとそばに居続けてしまう。いつまでも、自分のこの気持ちを君に押し付け続ける。

 君が勘弁してくれって更に泣いても、僕は絶対に止めてなんかやらない。

 僕は、君みたいに生きるって決めたから。例え君が迷惑だと思っても、君を想って迷惑をかけ続ける。自分がどんな目に遭おうと知ったことじゃない。僕は自分のことより、君のことが大事だから。

 でも君は、僕がずっと隣に居ることを絶対に望みはしないだろう。君は僕なんかと違って、自分のことよりも他人のことを優先してしまう、どうしようもないくらいに優しい人だから。

 僕は信じている。僕と君の気持ちが通じ合っていること。僕の想いが、君に伝わっていること。君は誰よりも心が繊細で傷つきやすいけど、それ以上に誰よりも芯が強くて、他人のためなら自分自身になんて負けないってこと。そんな君を追いかけて来たから、それが全部嘘じゃないってことを。

 僕は信じている。

 だから君は、きっと笑ってくれるはずだ。

 僕の愛した、あどけない笑顔で――。


「……ありがとう、彼方くん。ずっと、大好きでした」


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