五回目
五回目 ㉓終わりを始める朝
何度も目にした九月二一日という日付が表示された画面をそっと閉じる。ベッドから身を起こし、窓の外に目を向ける。空は青いというよりかは明らかに白に近かった。まるで霧がかったみたいに、眩い真っ白な光が街を包み込んでいた。
――この夢が終わりへ近づいている。
身支度を済ませて部屋を出ると、階段を踏みしめるようにして下りていく。リビングでは、この夢のパーツでしかない両親が一回目と同じ光景を見せていた。テレビから聞こえるアナウンサーの言葉も、流れる映像もテロップも、朝食の献立も新聞記事も、あの日と何も変わったところはないみたいだ。
だけどただ一つ、変わったことがある。
それは、昨日までの僕には絶対にあるはずのなかった、ずっとこの日のままでいたいと願う気持ちだ。
僕は、今日が二〇一八年九月二一日であることに安堵していた。
駆け足で部室へ向かう。一瞬でも早く、一秒でも長く柚希のそばにいたい。胸の高鳴りが、足よりも先に彼女のもとへと向かって行くものだから追いつくのにも一苦労だ。
目的地へ到着し、扉を勢いよくスライドさせる。
映し出される景色の中に、彼女は当たり前に存在した。
「びっくりしたぁ。どうしたの? そんなに慌てて」
瞼をぱちぱちと瞬かせて、椅子に腰かけた彼女が僕を見ている。
今目の前にいる椎名柚希は、ベッドに横たわり目を瞑ったままの姿ではなく、目を、口を、手を動かし、意識ある姿で存在している。
そんな当たり前の奇跡がたまらなく愛おしい。
「あ、もしかして、早くわたしに会いたかったとか? まったく可愛いやつだな~」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる柚希。彼女にとっては些細な冗談なのかもしれない。でも、僕にとっては嘘偽りない本音だ。
「ああ、そうだよ。僕は一秒でも早く柚希に会いたかった」
僕の言葉に、柚希はまるで痴態を晒してしまったかのように蒸気する。
「自分から言い出したくせに何で真っ赤になってんだよ」
「だ、だって、まさか……真顔でそんなこと言うなんて思わなかったから……! いつもみたいに、冗談とか言うって、思ってたのに……」
ああもう恥ずかしい、などと呟きながら柚希は顔を背けた。
「そういえば、梨乃はまだ来てないのか? 今まで一番早く来てたから珍しいな」
いつもなら定位置に座ってルーズリーフにペンを走らせるか、文集販売の準備をしていた彼女は、今日はそこにいなかった。
「あ、あのね彼方くん。梨乃はもう、ここにはいないんだ」
「え? もう、夢から覚めたってことか?」
「うん、昨日のキャンプファイヤーの後に、ね」
何でまた中途半端に退場したんだ。どうせなら最後まで一緒に……ってもしかして、僕らに気を遣ったってことか? なんとなく、梨乃ならやりかねないと思える。
「ん? 梨乃がいないとなると、文集販売はどうするんだ?」
どっちかがここに残らないといけなくなるのなら、二人で回ることなんてできなくなるんじゃないだろうか。
「そんなの簡単だよ。時間を決めて二人で店番して、その後はここを施錠して二人で回る。それでいいじゃん? だってこの世界は、夢なんだから」
「そう、だったな。なんか夢だって実感がわかなくて、つい真面目に考えてしまった」
この世界が夢だと思えないほど、繰り返される文化祭は僕の中で日常と化してしまっているみたいだ。皮肉な話だ。昨日まであれほど夢であることを望んでいたのに、今度は現実であってほしいと願っているのだから。
「あの彼方くんが真面目に考えるなんて柄でもない」
「何言ってるんだよ。この僕は至極真面目で優秀な男だぞ?」
「うっそだー。至極真面目で優秀な男くんは、ブックカバーで中身を隠してこっそりとエッチな本なんて読むわけないじゃん」
「はッ⁉ 一体それをいつどこでご覧になった⁉」
まさか、僕がそんな失態をするわけがない。だって僕は外出中にエッチな本なんて読まない。基本的にブックカバーの下では百合小説しか読んでいないのだから。
いや待てよ? ってことは僕は嵌められたのか⁉
「へー、やっぱり読んでるんだー。冗談のつもりだったんだけどまさか自爆するなんて、アホの極みだねー。うっしっし」
ぐうの音も出ない。いい加減、自分のアホさ加減が嫌になる。
「で、どんなの読んでたの? わたし気になるなー、至極真面目で優秀な男くんがいったいどんなエッチな本を読んでるのか」
「教えられないね。それは男子にとって機密事項なんだ。でもどうしても知りたいっていうんなら、交換条件として柚希にも白状してもらおう」
「ねえちょっと待って。何でわたしも読んでるって設定になってるの?」
「え、読んでないのか⁉ まさか読んでないのか⁉ あの柚希が⁉」
「だから何で読んでなきゃおかしいみたいになってるの⁉」
「だって僕見てしまったしな。まさか柚希があんなものを読んでいるとは……」
「え、な、何を見たの?」
形勢逆転。柚希がまたもや顔を赤くして慌てふためき始めた。その反応だけで柚希にもやましいことがあるのだとわかってしまう。まさかこんなにわかりやすい嘘に引っかかるとは。
「柚希も存外アホだな」
「あ、アホじゃないよ! っていうかわたし、どれを見られてしまったの⁉」
「柚希? 自分も自爆してるってこと、わかるか?」
思い当たる節がないといった顔で、首をひねる柚希。
駄目だ。これはもしや、僕よりもアホなのではないだろうか。
「僕は、柚希がエロ本を読んでるところなんて見たことがない」
まあ、BL本がエロ本に分類されるのなら話は別だけど。
僕の言葉の意味を理解したらしい柚希が、形容しがたい表情へと変貌していく。なかなかに妙な言い回しだが、今の柚希は、真っ赤に青ざめるという矛盾した表現がよく似合う様子をしていた。
「やめて……そんな、憐れむような目を向けないで……。あと、エロ本言うなぁ……」
柚希は机の上に突っ伏して、顔を腕の中に匿うように埋める。彼女の耳元がまるで霜焼けしたかのようになっているのを確認して反省した。
少し、やりすぎてしまったみたいだ。
「えっと、ごめんな、柚希」
声をかけるが、反応はない。これは本気で恥ずかしかったのだろう。
まあそうだよな。女子としては、エロ本を読んでいるという事実がばれるというのは相当ショックが大きいだろう。
「彼方くん……。罰として、今日の開会式はわたしとここでサボってもらいます……」
抑揚のない沈んだ声で提言する柚希。
それって、柚希と二人きりってことだから罰にならないんじゃないだろうか。
「僕は別に構わないけど」
もちろん了承したはいいが、いったいどういった風の吹き回しだろうか。
「彼方くんには、いつぞやの恥ずかしいエピソードっていうのを聞かせてもらいます……」
前言撤回。とんでもない罰ゲームだった。
「はい……。謹んで承ります……」
僕に、断るという選択肢は用意されていなかった。
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