四回目 ⑳溢れ出した痛み
柚希の心の奥底に閉まってある気持ちを引き出すなんてことが、本当に僕なんかに出来るのだろうか。まったくもってその自信はない。でも、それでこの夢から僕らは解放され、柚希も救われるというのなら、賭けてみる価値はあるのかもしれない。
気合を入れるため、恒例のビンタを両頬にかます。
十分に気合が整ったところで、僕は部室の扉を開いた。
そこに――柚希は居なかった。
「なっ……」
トイレにでも行っているのかもしれない、なんて都合の良い可能性が頭をよぎったがすぐに捨て去った。何せ交代の時間であり、このタイミングだ。もしもそうだとしたら、柚希のことだから梨乃にメールの一つでも送っていただろう。それがなくとも、せめて書置きくらいはしているはずだ。
それがないということは……。
「……瀬戸君、柚希のこと、任せてもいい?」
信じられないくらい落ち着いた声だった。梨乃には、まるでこうなることが予想出来ていたかのような口ぶりで……。
「ああ、任せてくれ」
力強く頷き、僕は部室を飛び出した。
出ないだろうとわかってはいるが、念のために電話をかけてみる。
やはり、何度かけ直そうと柚希がそれを取ることはしなかった。
なら仕方ない。片っ端から捜しまわるのみだ。
心当たりなんてものはないし、考えていたってきっとわかりはしない。
だったら、手当たり次第にこの校舎内を捜しまわるほかないだろう。
僕は近場から一つずつ可能性を潰していった。空き教室にも入った。何やら公演中の教室だろうとお構いなしに扉を開けた。それでも見当たらなかったので、靴も履き替えずに外を走り回った。
だが、どこにも柚希の姿は見られなかった。
「一体……どこに、行っちまったんだよ……」
ぜえぜえと息を切らし、荒々しく肩で息をする。
誰かに行き先を訊くってのも手だろうが、そもそも柚希は顔が広い方じゃないし、柚希のクラスメイトが誰なのかも知らない時点でそれに頼ることは出来ないだろう。
息が整うのも待たずに、僕はもう一度校舎に戻った。
決して足を休めることはなく、僕は梨乃へと電話をかける。
お客さんが居ないタイミングだったのだろう。幸いにも梨乃は、一コール目で電話に出た。
『……見つからなかった?』
「悪い。一応校舎も外もすべて一通りは回ってみたんだが、見当たらなかった」
『……本当に全部回った?』
「全部回ったよ。……トイレ以外は」
通話が切れてしまったんじゃないかと疑うほど、向こうから何も聞こえなくなってしまった。少し不安になり、僕が口を開こうとすると――。
『……屋上は?』
「あっ……」
『……きっとそこに居る』
「完全に見落としてたよ。そういえば昨日は入れたんだったな」
何となく、最初から梨乃はわかっていたんじゃないだろうかと思う。こうなることがわかっていて、僕に昨日のことを話したんじゃないかとさえ思える。
「なあ梨乃、もしかして柚希が居なくなるってことわかってたんじゃ……」
『柚希は、今……瀬戸君を必要としている。瀬戸君なら、あの子の気持ちを、きっと……』
梨乃は何かを言いかけて、通話を強制的に終了させた。
何なんだよ、まったく。
軽く舌打ちをして、スマホをポケットに突っ込む。
昨日入った屋上は、僕らの部室がある棟だった。なら、きっと柚希も向こうに居るだろう。根拠はないが、取り敢えずそっちへ向かう。
人波を器用に掻き分けて渡り廊下を突っ切ると、階段を二段飛ばししながら全速力で駆け上がる。立ち入り禁止の張り紙がされた、僕の胸辺りの高さのフェンスを軽々と乗り越え、屋上までの短い階段を上りきる。普段なら必ず施錠がされている重い扉を蹴破るようにして開け放った。
その扉の向こうに――柚希は居た。
「柚希っ!」
僕は、からっからに乾ききった喉から声を絞り出すようにして、愛おしい彼女の名前を叫んだ。
その声に、背を向けていた柚希がそっと振り返る。
さっきまで泣いていたのだろうか、目元が微かに赤くなっていた。
「……彼方くん……もう、来ちゃったんだ……」
弱々しいその声に、身が引き裂かれるような痛みが走った。悲しそうで、苦しそうな、心が荒んだような表情を僕は見たことがない。
こんな表情、させたくなかった。
「柚希、どうしたんだよ……?」
壊れ物を扱うように優しく声をかける。
だが柚希は決して口を開こうとはしなかった。
「なあ、柚希――」
「い、嫌だっ……」
掠れた声で、柚希が僕を拒絶する。
だから僕は、一度その足を止めた。
好きな女の子に拒絶されるってのは、こんなにも苦しいんだな。
でも、柚希の抱えている痛みに比べたらきっと大したことはない。泣いていた彼女の心境に比べたら僕のなんてちっぽけな痛みだ。
彼女はどうして泣いていたのだろうか。そんな他人事じゃ済まされない。どうして泣いていたのかなんて明白だ。僕の所為、それ以外に答えは見当たらない。
僕が柚希に告白してしまったあの日から、すべてが狂い始めたんだ。元凶である僕に、柚希のそばに寄り添う権利なんてあるのだろうか。いや、僕の所為だからこそ、僕が柚希のことを支えるべきなんじゃないだろうか。
僕は、柚希にこんな表情をさせたくて好きだって言ったわけじゃない。
柚希の笑顔を、誰よりも近くで見ていたかった。
ずっと笑顔でいてほしかった。ただ、それだけだったのに。
もう、二度と悲しい思いも苦しい思いもさせたくないって、そう思ったから僕はこの気持ちを伝えたんじゃなかったのか!
拳をぎゅっと強く握りしめて、意志を凝固する。
梨乃が言ったように、本当に柚希が自分の気持ちに正直になれなくて、今もそうして苦しんでいるのなら、柚希自身が認めようとしない柚希の心の奥底に眠っている気持ちを、僕が認めさせてやればいい。
それを、僕は梨乃に任されたんだ。
そのためなら、多少卑怯な手を使ってしまっても構わないだろう。
すっと息を吸い込み、考えがまとまったところですべてを吐き出した。
「僕はさ、今までずっと一人だったんだ。胸を張って友達と呼べる人が一人もいなくて、僕はずっと一人で……学校なんて無くなってしまえばいいって、ずっと思ってた。何のとりえもなくて、自分の趣味以外には無関心で、良いところなんて何一つとしてない、こんな僕なんかの手を取って一緒に過ごしてくれるような人は誰一人としていなかった。……柚希と出会うまでは」
柚希は虚ろな眼差しで僕を見ている。
一体何を言い出すんだと、その瞳が不安の色を帯びている。
「柚希は、こんなちっぽけな僕のことを、快く仲間にしてくれたよな? それは、柚希にとっては何気ないことだったのかもしれない。でも、僕にとってはこれまでにないくらい嬉しいことだったんだ。自分を受け入れてくれる、自分を認めてくれる人に出会えたことが、何よりも嬉しかった。だからきっと、もうあの時既に、僕にとって柚希は特別な存在になっていたんだと思う」
そうだ。僕にとって柚希は、とっくの昔に特別になっていたんだ。初めて声をかけてくれたあの日から、僕はもう、柚希に恋をしていたんだ。
「でも僕は、そんな柚希のことを傷つけてしまった。僕が身勝手な想いを抱いて、柚希のことを好きだなんて言ってしまったから、僕は柚希を苦しめたんだよな……」
言っていてつらいし、何より卑怯なことを口にしているってこともわかっている。
それでも、梨乃の言う通り、この前の僕の告白に対する柚希の返事が嘘だったのだとしたら……。
僕はその可能性に賭けて、一番聞きたくないし言いたくないことを目の前の彼女に訊かなくてはならない。
「ごめんな。僕なんかに好きだなんて言われて、迷惑だっただろ?」
柚希の表情から血の気が引いて行くのがわかった。
何かを落としてしまったかのように下を向いて、柚希は小さく首を横に振る。
「ち、違う……迷惑なんかじゃ……」
「もう、僕なんかに気を遣わなくていい。本当のことを言ってくれ」
「……本当、だから……」
「柚希、嘘はもう」
「――違う! 嘘なんかじゃない!」
僕の言葉を掻き消すように柚希は声を張り上げた。
面食らい、たじろぎそうになったが、僕は決して引き下がりはしない。
「もういいんだよ。僕に気を遣ってまで優しくしてくれなくていいから、柚希の本当の気持ちを、僕にぶつけてくれないか? それで、僕はもう柚希に関わらないようにするから」
「何で、そんなこと……。卑怯、だよ……」
顔を上げた柚希は、両目から大粒の涙を流している。
僕はまた、柚希を泣かせてしまったのか。もう、彼女を傷つける言葉なんて言いたくない。言いたくないのに、ここで黙ってしまうわけにはいかない。そんなことをしてしまっては元の木阿弥なんだ。
だから、僕は決して口を閉ざしはしない。
「ああ、自分でもそう思うよ。でも、卑怯なのは柚希もじゃないのか? どんな目的があるのかはわからないけど、柚希は僕らに隠し事をしている。違うか?」
「確かに、隠し事は……してる。でも、言えない……」
「どうしてだ? それは自分のためか? それとも他人のためか?」
「言えない……」
「僕らの推測だと、それはこの繰り返し現象に関わることだと思うんだよ。なあ柚希、そうなんだろ? もしそうなら教えてくれないか?」
そこまで言っても、柚希は口を割ろうとしなかった。
柚希は自身のスカートの裾をぎゅっと握りしめて、必死に何かを堪えていた。
「……それが、きっと二人のためだから……」
喉から細い糸でも引っ張り出したような声が僕の耳に届いた。
それが僕らのため。柚希にとってはそうなのかもしれない。だとしても、何も知らない僕らからしてみれば、それが僕らのためだとは到底思えない。
「僕は迷惑だ」
「……え?」
「僕は、柚希のそんな優しさが、そんな気遣いが……正直言って迷惑だ」
はっきりと言ってやった。僕はもう、柚希の優しさに甘えるなんてことはしない。柚希が傷ついてまで僕に気を遣うなんてのはごめんだ。僕は、大事な仲間に甘んじるような落ちぶれた人間にはなりたくない。それは恐らく、僕だけじゃない。
「きっと梨乃だって、そう思ってるよ」
柚希は、今もなお涙を流し続けている。
その痛々しい彼女の姿なんて見ていたくない。だからといって、そんな彼女を放っておくなんてことの方がよっぽど嫌だ。
だったら目を逸らすな。僕は彼女を救うためにここに立っているのだから。
「……だって、彼方くんは、それがどれだけのことかを知らないから、だから迷惑だなんて言えるんだよ……。本当のことを知ったら、きっと後悔する……」
柚希の言っていることは一理ある。きっと本来の僕らは後悔しているんだ。こうなってしまった原因について、僕と梨乃は後悔している。
でも、今の僕らなら、きっとそれを受け止められる。
「後悔するかどうかは、本当のことを知ってみない限りわかんないだろ?」
そんなのはただの屁理屈だ。自分で口にしておきながら、十分に理解している。
でも、根拠なんてないけど絶対に大丈夫だって確信が持てるんだ。
「それに……僕はもう、とっくに後悔してる……」
「……え。彼方くん、思い……出したの?」
「柚希の言うそれは、まだはっきりとは思い出せてない。でも……僕は今、既に後悔してるんだよ。目の前で……好きな女の子を泣かせてしまっているこんな現状を、胸が張り裂けそうなくらいに後悔してる……!」
嫌なものを一人で抱え込んで、誰にもその痛みを共有出来ないままずっといつも通りを心掛けてくれていた柚希のことを、僕は気づいてあげられなかった。
「もっと早くに気づいていればって……。あの日、柚希に想いを告げなければよかったって、ずっと後悔してるんだよ」
身勝手な自分のことを何度も何度も悔やんだ。
あの日柚希を置き去りにして逃げてしまった自分のことを悔やんだ。
柚希を傷つけてしまったのに、それにも気づかないで平然としていた自分のことを悔やんだ。
そして何より、今もこうやって柚希のことを傷つけながらじゃないと、柚希を救うことが出来ない愚かな自分のことを、悔やんでも悔やんでも悔やみきれないないんだ。
「だから僕はもう、どんな真実だって受け止められる。……受け止めてみせるよ」
柚希の瞳を射抜くほどの覚悟を持ってここに宣言した。
目線の先で、柚希は言葉を失い、ブレザーの袖で目元をこれでもかってくらいに擦っている。その隙間からは、未だに痛みが溢れ出していた。
僕は、嗚咽を漏らしながらそいつを拭う柚希のもとへそっと歩み寄る。
「ごめんな。今まで気づいてやれなくて……。辛い思い、してたんだよな。……それと、さっきから酷いことばっかり言って、ごめん」
柚希の肩を優しく抱き寄せ、彼女の体を僕の腕の中に匿う。彼女に降りかかる悲しみや苦しみから遮るようにして、僕は今度こそ彼女を守ってみせる。
「ごめん、なさい……。ごめんなさい……」
腕の中で、柚希はうわずった声を上げながら泣きじゃくる。
そんな彼女の背中を、子供をあやすようにしてさすった。
「柚希は謝んなくていいんだよ。ずっと僕らのためにって、一人で頑張ってくれてたんだろ? ありがとな、柚希」
それでも泣き止まない柚希に、精一杯の感謝の気持ちを伝える。言葉だけでは伝え切れないこの想いを、彼女を包み込む両腕に託して力を加えた。
壊れてしまいそうなくらい華奢な体を、壊れてしまわないようにと強く抱きしめた。
柚希はぐすんぐすんと鼻を啜り上げながら、僕の胸に埋めていた顔を遠慮気味に上げる。
「……ねえ、彼方くん。全部、話すから……一つ……お願いしてもいいかな?」
「ああ、何でも言ってくれ」
僕が、どんな望みだって叶えてやる。そんな思いを込め、僕は柔らかな視線を向ける。
「きっと、明日……この夢を終わらせるから……。だから最後に……明日、もう一回だけ……文化祭を回りたい」
涙の痕を必死に取り繕いながら、柚希はいつものようにあどけなく笑ってみせた。
だから僕も、全力の笑顔でそれに応えた。
「ああ、もちろんだ」
僕の返事を受け取った柚希は、俯きながらそっと僕から離れる。若干の名残惜しさを感じたが、それをどうこうしようという気はない。
「ありがとう……。約束、だから……わたしが隠してたこと……全部、話すよ……」
もう一度、柚希は目元を拭うと僕に向き直った。
僕も、覚悟を改めて彼女に向き合う。
やがて、その唇が小刻みに震えだした。
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