四回目 ⑲忍び寄る後悔

 休憩所の中庭に設置してあるテントの中で、梨乃は空いている席についてじっと僕を待っている。そんな彼女のもとへ、僕は両手に豚汁の入った容器を持って寄った。


「はい、梨乃の分」


「……ありがと」


 小さな声で返事をして、梨乃は素直にカップを受け取った。

 学習机を一つ間に挟んで、梨乃と向かい合うようにして腰をかける。今まで梨乃と向かい合うなんて状況がなかったので、妙にむず痒い。が、その距離の分だけ僕と梨乃の心の距離が近づけたような感じがして嬉しかった。

 いただきますと手を合わせて、豚汁を一口すする。胃に直行してじわっと染み渡る温もりが実に心地良い。


「……さっきの話の前に、明晰夢のことを話してなかったから、そっちからいい?」


 梨乃は豚汁に一切手を付けずに口火を切った。だから僕も、一旦その手を止めて彼女の言葉に耳を貸すことにした。


「ああ、頼む」


 僕も丁度それを訊こうと思っていた、と言い添える。


「私が明晰夢というものに気づいたのは、二回目の夜。……次の日を迎えられるか確かめるために朝まで起きてるつもりだった。でも、零時になった途端に意識が途切れた」


 梨乃の話には、僕も心当たりがあった。確かあの日、僕も同じ時間まで起きていたはずなんだ。なのに、零時になった途端いつの間にか眠りに落ちていた。いや、強制的に眠らされたと言った方が正しいのかもしれない。そんな感覚に近かった。

 梨乃の言葉に頷き、僕もあの夜のことについて簡潔に説明した。


「それで私は、タイムリープや夢について調べてみた。そこでひと際目を引いたのが明晰夢だった。夢を夢だと自覚でき、内容を操ることが出来る。……私は、文化祭の変化についてリストアップし直してみた」


 それは恐らく、僕が明晰夢というものを知った、あのルーズリーフのことだろう。


「でも、かき氷屋での変化、放送室での変化、ニュースの変化、これらの三つに共通点が見いだせなかった。私は焦った。このままだと、私たち以外の夢を操作している誰かには辿り着けない、その目的さえわからないって……。でも……そこで、私は一つ見落としていることに気づいた。一日目と二日目の間に生じた変化がもう一つあったこと……。瀬戸君と柚希、二人の様子の変化、そこに鍵があるような……そんな気がした。だから、私は二人に個別に訊ねてみることにした。……でも、瀬戸君に訊くまでもなく、あっけなく犯人が割れた」


 それが、柚希であった。言わず語らず、僕らにとっては共通の認識だった。


「結局わかったのは原因だけ……柚希が、嘘をついてる理由。それは教えてくれなかった」


「その嘘ってやつは、昨日言っていた僕への返事が嘘だったってやつか?」


「ええ」


「梨乃はさ、どうして柚希が嘘をついてるって思ったんだ?」


 どうしても、僕は嘘をつかれたとは思えない。告白されて、嫌だから断るってのは当然だろうけど、好きなのに断るってのはないんじゃないだろうか。それに、その言葉を安易に信じ込んで舞い上がりたくはない。


「……さっき瀬戸君に言った通り、私は好きというものがわからない。けど、私は人の負の感情とか嘘には敏感……。だから、柚希のそれにはすぐに気づけた」


 プラスの感情に疎い分、マイナスな部分は広く深く映るということか。その感覚は、あまり良いものではない。自分にとっても相手にとっても。


「柚希は、瀬戸君のことを友達として好きって言っていた。でも、その時の柚希は……とても苦しそうだった。何かを堪えているような……そんな感じで。柚希は、他人のことを考え過ぎてるからこそ、自分の気持ちに正直になれない……」


 梨乃のまるで核心をつくその声には、慈悲を孕んでいるような毛色がした。

 もし、本当に梨乃の言う通り柚希が嘘をついているのだとしたら、柚希は一体誰のために嘘をついているんだ? それが昨日から引っかかっていて納得が出来ない。


「……柚希の過去については、聞いたことある?」


 そんな突拍子もない問いかけに、僕は透かさず相槌を打った。


「ああ、前に一度聞いた」


「聞かされるまで、まったく想像もしてなかったでしょ?」


「正直、一瞬耳を疑ったよ」


 過去の話を聞いた当時のことを思い出し、目を伏せる。

 あの日僕は、悲しみや苦しみがこれからも柚希に降りかかるのなら、それらから彼女のことを守りたいってそう思った。でも実際はどうだ? 僕には一体何が出来たというんだ? 寧ろ彼女のことを苦しめたのは自分だったじゃないか。


「耳を疑うのは無理もない。……柚希はずっと他人に気を遣われたくないからって、絶対に自分の暗い部分を表に出さないようにって気を遣っていた……。だからその分、柚希は自分の気持ちに正直になれないんだと思う。ずっと、他人のためにって思ってるから……」


 一体誰のことを言っているのだろうかと、俯瞰してしまうほど、僕は柚希のことを何も知らないのだと思い知らされた。


「……自分のことばかり考えていると、周りが見えなくなる人がいる。柚希はその逆だった」


 その言葉に胸がチクリと痛んだ。

 それは、僕がよく陥ることだ。現に僕は一回目のあの日、柚希に告白してフラれた後すぐに逃げ出した。あの場に残された柚希のことなんて考えもせず一目散に帰路についた。

 そんな僕だから、あの日柚希を傷つけたんだ。


「……柚希は、他人に気を遣うことを当たり前だと思ってるから……」


 そこまで言い切ると、梨乃は手元の容器を両手で持ち上げて、中身を一口すすった。


「梨乃って、柚希のことよく見てるんだな。僕なんかと違って、柚希のことをちゃんと想ってる。それに比べて僕は……自分のことしか考えていなかった。柚希のことが好きだって気持ちばかりを押し付けて、当の柚希のことを全く考えられてない……」


 そんな自分のことが、どうしようもなく嫌いだ。そこまで口にしようとしたその時、妙な既視感を感じた。初めてのはずなのに、僕は一度こんな思いをしたことがある。柚希のことを傷つけたんだって、後悔したことがある。こんな会話を、どこかで既にしたことがある。


「……どうしたの?」


 急に言葉を詰まらせた僕を、梨乃は訝しそうに見やる。


「なあ、梨乃……。この会話、どこかで一回したことがないか?」


 馬鹿なことを訊ねているのは百も承知だ。でも、それを確認して自分が馬鹿だったということを証明したかった。この後悔してるっていう感覚を信じたくなかった。


「瀬戸君も、やっぱりそう思った?」


「やっぱりって……」


 期待を大きく上回る答えに、僕の声は間抜けにもうわずっていた。


「私も昨日、初めて柚希を傷つけたことを後悔したはずなのに、また失うって思った。今まで一度も言ったことのない言葉に……なぜか、また柚希を失ってしまうって後悔した」


 きちんと椅子に座っているはずなのに、僕の膝が突然笑い出す。

 認めてしまってはいけないものが、今、ひたひたと背中ににじり寄っている。それから顔を背けたいと、また逃げ出したいと、僕は愚かにもそう思っている。


「……昨日、私は柚希に向かって、友達じゃないって……言ってしまった」


 そう言った梨乃の顔が酷く青ざめていた。きっと僕も、同じような顔をしているに違いない。僕もそれと同等、もしくはそれ以上の仕打ちを柚希にしてしまったんだ。


「ずっと嘘をつき通そうとする柚希に向かって、ついカッとなって……私は……最低なことをした……」


 梨乃は悔しそうに下唇を強く噛み締めている。それだけで、梨乃がどれほどその失言を取り消したいと願っているのかが見て取れる。


「……瀬戸君もいつか思わなかった? また柚希を失ってしまうって」


 柚希を失う。そんな謂れのない不安が僕にも降りかかったことを、いつの間にか僕は思い出している。でもそれが、いつのことなのかはまだわからない。


「僕にも、そんなことがあった。もう二度と、柚希の無邪気な笑顔を見ることが出来ないって……あれは、いつだったか……。よく覚えてないんだけど、僕は確かにそう思ったことがある……」


 知らないはずの不安が渦を巻いて僕を取り込む。それに抗うことも出来ずに、僕は後悔の海に溺れて行く。

 僕が犯した罪は何だ? 僕が柚希を苦しめた原因は何だ? 僕の柚希への想いが、柚希を苦しめたのか? 本当にそれだけだったのか? 僕は、柚希にもっと酷いことをしたんじゃないのか? 僕は、柚希を……。


「……瀬戸君に、お願いがある」


 正面に座る梨乃の縋るような瞳に、僕は石化されてしまったかのように指一つ動かせなくなってしまった。


「柚希の、あの子の心の奥底に閉まってある気持ちを……引き出してほしい。あの子を、この苦しみから解放してあげてほしい……。それはきっと、瀬戸君にしか出来ないから」


 それを引き出せば、きっとこの夢は終わる。

 そして僕は、また後悔する。そんな気がした。

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