幕間 柚希と梨乃の出会い

 柚希と梨乃の出会いについて、一度だけ柚希に聞いたことがある。あれは確か、数か月前の出来事だ。今回は、そんなある日の記憶――。


 僕の部屋で、棚の上に飾ってあるアリヤちゃんのスケールフィギュアを矯めつ眇めつ眺める柚希に、ちょっとした好奇心のつもりで訊ねてみた。


「そういえば、柚希と梨乃っていつからの友人なんだ? 二人が意気投合するような話題とかなさそうな気がしたんだけど……」


 二次元、主にBL好きの柚希と、特にこれといった趣味のなさそうな梨乃の二人が一環して分かり合えるものがあるとは思えない。

 僕の視線の先で、問いがまるで聞こえていないかのように柚希は真剣に観察していた。

 アリヤちゃんのスカートの中身を。


「おい、そこは僕だけの秘密の領域だぞ」


「いや~ついつい気になっちゃってさー何色なのかな~って。やっぱ美少女フィギュアの醍醐味じゃん? パンツって」


「わかりみが深い。しかもアリヤちゃんのフィギュアって、細部までこだわってるからな」


「ほんとにね~。布の質感とかかなりリアルだよー? しわの付き方も本物そっくりだし」


 前屈みになって下から覗き込むものだから、僕の位置からは柚希のスカートの中が見えそうになっていて、僕は思わず熟視していた。

 ――あ、もう少しで見えそう、本物。


「えっと、わたしと梨乃のことだっけ?」


 思い出したようにクルッと振り返る柚希と同じ速度で顔を背ける。


「ん? ああ、そうそう。いつからの仲なのかな~って」


 目線を窓の外に放り出し、僕は悠然とした物腰を保つ。然りとて心中は、天と地がひっくり返ったように狼狽している。危うく僕の尊厳が無くなるところだった。


「梨乃とは中二の時からの仲だよ~。まあ、彼方くんの言う通り、共通の趣味とかないからさ、意気投合して仲良くなったっていうわけじゃないけど。あ、隣座ってもいい?」


「ど、どうぞ」


 フィギュアの鑑賞を終えたらしい柚希は、ベッドに腰かける僕の隣へと座り込む。軽く沈んだ表面に確かな存在感を感じ取り、妙に緊張してしまう。言うに及ばず、女の子を部屋に通したのは柚希が初めてだった。


「……彼方くんになら、話してもいいかな」


 やけに落ち着いた柚希の声色に、若干戸惑った。

 普段の彼女には似つかわしい物悲し気に微笑む表情の裏から、闇が顔を覗かせる。


「えっと、ちょっと暗い話になっちゃうけど……聞きたい? いや、聞きたい? なんて言い方は違うね……。彼方くん、聞いてくれない?」


 正直迷った。人の闇は簡単に踏み込んでいい領域ではないことを十分に理解しているから。僕にはこれといって悲惨な過去はないのだが、物語の世界で見てきたヒロインたちのそれと、これから語られるのであろう話が類似しているような空気を感じた。

 だから躊躇われる。

 しかし、好きな女の子の闇なら受け止めたいとさえ思える。たとえそれで薄氷を踏むようなことになるのだとしても。


「よかったら、聞かせてほしい」


 僕の覚悟を、柚希の星空のように澄み渡った濁りのない瞳が見据える。

 やがて彼女は自身の手元に翳を落とし、真情を吐露した。


「わたしね、中学二年の時に大事な友達を亡くしたんだ……」


 ハッと息を呑み隣人へと目を向ける。繊細な輪郭で描き出された横顔は、触れてしまえばほろりと表面が剥がれ落ちそうなくらい不安定だった。

 柚希は脇目も振らずに続ける。


「その子がかなりの腐女子でさ、当時わたしは二次元とかに興味なかったんだけど、ごり押しされてね。まあそこから現在進行形でどっぷり沼に浸かっちゃってるわけだけれど。その子は絵がもの凄く上手くてね、二人で同人誌を作ろうってことになったんだ」


 わたしがシナリオ担当で、その子がそれを漫画に起こしたんだよ、そう柚希が付け足す。


「二人で一冊の同人誌を完成させると、とあるイベントに参加できることが決まって。初めてのことで、わたしたちは心を躍らせて会場に向かってた……なのに……」


 続く言葉がなくとも、断腸の思いに耐える柚希の痛々しい横顔だけで、僕の胸を劈くのには事足りていた。


「神様って意地悪だよね……。どうして、あの子だったのかな……。どうして、わたしだけを残して……。あの子は、本気で作家を目指してたのに……。なのに、わたしだけ助かって……」


「柚希……」


 口を衝いて出たのは彼女の名前だけ。気の利いた言葉なんて、僕の口からは零れはしなかった。それだけ僕は、きっと幸せな人生しか歩んでいなかったんだ。誰かを慰めることも出来ないくらいに、僕は苦しみも悲しみも知らない幸せ者だったんだ。

 僕が一人自己嫌悪に陥っていると、柚希が自嘲気味に笑みを零しながら顔を上げた。


「ごめん。話が逸れちゃってたね……」


 そっとはにかんだ柚希の翳は、普段のあどけなさを含んでいるからこそ儚くもあった。


「それから、わたしはずっと塞ぎ込んでて。そんなわたしに、慰めの言葉をかけてくれる人はたくさん居た。でも、わたしはそれが逆に苦痛で……。本人たちにはそんなつもりはなかっただろうけど、何だか早く立ち直れって急かされてるような気がして……すごく、嫌だった」


 柚希は目元を窄めて奥歯をきつく噛み締める。

 僕にはそれもわからない。慰めの言葉というものは、その対象者を元気づけることの出来る唯一の砦だと思っていたのだから。


「だからわたしは、昼休みの時間だけでもひっそりしてようと思って、誰も近寄らない体育館の裏なんかに足を運んでみた。そしたらそこに、学校中で恐れられてて有名な華崎梨乃が居たんだよ」


 相変わらず梨乃のやつは昔から悪目立ちしていたのか。柚希の言う状況が容易に想像出来て、おかしささえ込み上げる。


「怖くて引き返そうとしたら、急に声をかけられて、『ここに用があるんなら、私なんて気にせずそこに居れば』って言われちゃってね。だからわたしは、遠慮しながらもそこに居座ることにした。昼休みになる度にそこを訪れて、互いに口も交わさない日々が幾ばくか続いたよ」


 遠い記憶に想いを馳せている柚希の声は、朗らかさを取り戻しつつある。


「ある日、思い切ってわたしは彼女に声をかけてみたんだ。殆ど何も言ってくれなくて、ほぼわたしの独り言みたいになってたけど、梨乃はちゃんとわたしの話を聞いてくれてたみたいで、相槌は欠かさなかったんだ。それから、いつの日かわたしは、一人になるためにそこを訪れるんじゃなくて、梨乃に会うためにそこを訪れるようになってた」


 言い終えると、柚希は首を回して無邪気に笑ってみせた。


「これが、わたしと梨乃の出会いだよ?」


 そんな彼女の眩しい笑顔の裏には、筆舌に尽くし難い苦しみや悲しみが降り積もっている。だが誰もそれに気づけない。なぜなら、彼女が他人に悟らせないほど器用に自身の闇をひた隠しにしているからだ。

 今の柚希は、とても強い人間だと思った。それでいてきっと誰よりも脆くて繊細なんだ。

 他人を想う強さがある分だけ、自身を支えることに欠けている。彼女は、誰かのために生きることの出来る人間なんだ。


「……だから、文芸部に入ってて、作家を目指しているのか」


 独り言のように吐いた言葉は、柚希に聞こえていたのかわからない。

 彼女の夢は、叶えることの出来なかった彼女の大切な人の夢でもあるのだ。

 気丈に振舞う柚希の心奥には、拭いきれない悔しさが立ち込めている。

 一見冷酷そうに見える梨乃は、本来慈悲深い人間だ。

 それに対して僕は何だ? こんな僕には、一体何があるというのだろうか。

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