三回目 ⑮不吉な風、靡く転遷
部室の扉が静かに開いた。
どうやら柚希と梨乃が帰って来たみたいだ。
お疲れさん、と声をかけようとしたところで、よどんだ空気を感じ取りその言葉をぐっと飲み込んだ。代わりに、込み上げてきた彼女らへの不信感が口からふっと出た。
「な、なあ。何かあったのか……?」
柚希も梨乃も、そっぽを向いて何も答えてくれなかった。
沈黙は肯定とみなすべきだろう。そう判断し、僕はそれ以上ここでは追及しないことを選んだ。これから梨乃に訊ねればいい。そういうことにして。
椅子から立ち上がり、彼女らのもとへ歩み寄る。
「それじゃあ柚希、店番よろしくな」
なるべく自然に声をかけ、柚希と立場を交代する。力なく頷いた柚希を尻目に、僕は先に部室の外へ出た梨乃の後を追った。
扉が音を立てて閉まったのを確認すると、まあ返事はないとわかってはいるが取り敢えず行先の確認を取る。
「行きたいところ、あるか?」
僕の前方を行く梨乃がピタリと立ち止まり、顔だけを振り向かせた。
「……屋上でいい?」
「死にたくないです」
「……何言ってるの?」
キレ気味に返答されてしまったが、僕の反応は極自然なものだと自信を持って断言できる。あの梨乃に屋上でいい? なんて訊かれたら突き落とされるんじゃないかって勘ぐってしまうのは無理もないだろう。
こちらの様子を窺う梨乃の眉間にみるみるうちに怒りが刻み込まれていく。
やばい、本当に殺されるかも。危機回避のため、僕は梨乃から距離を取ろうとした。だが彼女は暴力を振るうような素振りなど見せなかった。
「……瀬戸君に訊きたいことがあるから」
「僕に訊きたいこと? それは……あのルーズリーフに書いてあったことを読んでいる、ということを前提にした話か?」
「わかってるなら、大人しく同行して」
冷たくあしらうように吐き捨てられた。
梨乃は相当機嫌が悪いらしい。いつもより棘のある声と表情だった。僕は首を竦めると、言われた通りに彼女の指示に従った。
人の目などまったくもって気にせずに、屋上へと通じる階段を上りきる。もちろん普段なら施錠がされていて、屋上には一切の立ち入りが禁じられている。そんな屋上の扉がいともたやすく開いたのは、ここが夢の中の世界だからだろう。
それを証明するために、梨乃はこの場所を選んだというわけか。
入ったこともないその扉を潜り、観たこともない景色を一望した。目の前の広大な街並みに一人感動していると、こともなげに梨乃が口をついた。
「……瀬戸君。単刀直入に訊くけど、柚希のことどう思ってる?」
「はい⁉」
それは単刀直入過ぎた。
梨乃の口かららしくもない言葉が聞こえてきたのだが気のせいだろうか。
真偽をはかるべくして彼女の真珠のように黒い瞳を一心に見つめる。しかし、こっちが恐れ入るくらい露ほども微動だにしなかった。
つまりは気のせいではないということか。
何とも返答に困る問いかけだ。つい先日フラれたばかりの僕にとって、それは至極難儀な問題なのだ。梨乃の言う、どう思ってる? というのは所謂恋愛対象としてって意味合いを含んでいるのだろう。
もちろん今でも柚希のことが好きだという想いは変わっていない。だが、その気持ちを梨乃に告げるというのは流石に厳しいし恥ずかしい。
「えっと、何で……そんなことを?」
梨乃がどうしてそんなことを知ろうとしているのか、何となく理解は出来ているが、僕の勘違いである可能性に賭けてその真意を訊かせてもらおう。
「……柚希が、瀬戸君に告白されたって言ってた」
時が止まってしまったかのような衝撃だった。
柚希が言っていた? どうして? どうしてそれをわざわざ梨乃に告げたんだ? 別に口止めはしなかったが、まさか口外するとは思っていなかった。
僕の心境が顔か声に出ていたのだろう、梨乃が補足と言って口を開いた。
「……昨日から、柚希と瀬戸君の様子が変だったから、さっき問い詰めた。中々白状してくれなかったから、瀬戸君を脅してでも聞き出すって言ったら、観念して教えてくれた」
「何で、脅してでも訊き出そうって思ったんだよ? あと脅すってのが現在進行形な感じがしてすごく怖いんですが……」
というか柚希から僕らの気まずさの原因を聞き出したのなら、ここでわざわざ再確認する必要もないだろう。僕がそう捲し立てようとしたその時――。
屋上に一際大きな風が吹いた。そいつが不穏な空気を孕んで僕の背中を撫でる。冷たい汗が背中を伝い、ゾッとして総毛立った。
「私は……柚希が怪しいと思う」
心臓を鷲掴みにされたように体が震え上がった。
柚希が怪しい? 一体どういう理屈でそうなるんだよ。そう詰め寄りたかったのに一歩も足が出ないのは、自分が少しでもそれに心当たりがあるからだろう。
あのルーズリーフは、梨乃が僕に向けて記したメッセージだった。それを読んで思い当たった人物が柚希であったのだから否定のしようがない。
「それは、この繰り返しの元凶としてってことか?」
梨乃は僕を見据えたまま無言で頷いた。
彼女がそう睨んでいるということは、それなりに強い確信と何らかの根拠があるということなのだろう。そしてそれは恐らく、この明晰夢という現象は柚希が主で操作していて、その原因が僕らのギクシャクした関係であると。
認めたくはないが、きっとそういうことだ。
なら、ここで僕が嘘をついてしまうのは野暮だろう。
「僕は、今でも柚希が好きだ。その気持ちは変わってない」
僕は胸奥に秘めたる彼女への想いをきっぱりと断言する。
瞬間的に瞳孔を開いた梨乃が、背中を向けて転落防止用のフェンスへ近づいた。
「……そう」
風の音に紛れて小さな声が耳に届いた。
目線の先で、梨乃が背丈の高いフェンスに爪を立てている。
「……柚希も、きっと瀬戸君と同じ」
聞き逃すなんてことはしなかった。芯の通っていないか細い声ではあったが、その言葉があまりにも現実離れしていたので風の音には呑まれなかった。
「ちょっと待ってくれ、何の冗談だよ。自分で言うのも何だが、僕はフラれているんだぞ? それともあれか? 僕をからかおうって根端か?」
僕が嘲るように笑ってみせると、相変わらず背を向けたまま梨乃は首を横に振った。
「違う。そこが、今回の要因だと思う……」
「それは、柚希が嘘をついてるってことか?」
「そう……。理由はわからないけど」
梨乃の後味の悪い頷きに、僕は返す言葉もない。
僕が柚希に告白してフラれたのは嘘で、本当は両想いだった? それこそわけがわからない。どうして嘘なんてつく必要があったんだ? 柚希が嘘をついてしまったがために、この現象が始まったなんてのは、理に適わないじゃないか。それに、柚希が本当の気持ちを打ち明けることによって、僕らがこの夢から解放されるのだとしたら、どうして柚希は今もなお嘘をつき続けている?
きっと考えていたってわかりっこない。それは柚希自身の問題だ。
「ねえ瀬戸君。……好きっていうのは、どういうことを言うの……?」
突如として放たれた質問の意味がよくわからなかった。
好きというのはどういうことを言うのか。そんなこと、あまり考えたことがない。というよりか、好きという感情は明確な言葉で表せないような気がする。
具体的に、僕が柚希のことを好きだという理由を教えろと言うのならまだ言葉に出来るのだが、そもそもの好きという感情の定義など考えもしない。
ただ、僕が柚希に対して抱いる感覚というものが、謂うところの好きという感情の定義に通用するのなら……。
「ずっと一緒に居たいって、そう思える人のことを好きって言うんじゃないか?」
梨乃の肩が小波程度に跳ねた。きっと本人は気づいていない。
「そう……」
質問のスケールの大きさの割に、その返事は圧倒的に劣る小ささだった。それは、いつもの梨乃にはそぐわない哀感が漂う声で……。
「なあ梨乃? どうしたんだよ? さっきからなんか、らしくないぞ……?」
なるべく梨乃を刺激しないようにと意識し、やんわりとした口調で言ったつもりだったのだが、彼女はこちらを見向きもしなかった。
ここで話をしないといけなかったくらいなのだから、まだ梨乃は僕に言わなくちゃいけないこと、もしくは訊かなくてはいけないことがあるはずだ。それに、僕も彼女に訊かなくちゃいけないことがある。
昨日から彼女が僕と柚希の間に不信感を抱いていたように、僕もついさっきの二人には同じものを感じた。梨乃が柚希に僕らのことを問い詰めただけなら、きっとあそこまで異様な空気にはならないはずだ。
「えっと、何かあったのか? さっき二人とも様子が変だったし……。その、よかったら聞かせてほしい」
梨乃の小さな背中に力強い視線を送る。その熱が届いたのか、梨乃が風に靡かれながら僕の方へと振り返った。
「何で?」
表情こそはいつもの冷酷なままだったのだが、その双眸は何かを探っているかのように朧気だった。
「何でってのは、どういう意味だ?」
「そのままの意味。どうして知りたいのかって……」
そんなのは言うも愚かなことだ。だからといって、僕が黙っていれば梨乃は口を割らないだろう。僕は自分の気持ちを素直に吐いた。
「それは、二人が心配だからだよ」
しかし梨乃は、納得出来ないといった風に顔をしかめている。
「……柚希が、じゃないの?」
突き放すようなその声に、珍しく怒りを覚えた。
「はあ? 何言ってんだよ。柚希一人だけが心配なわけないじゃんか。僕は柚希も梨乃も両方とも本気で心配してるから訊いてるんだ! 梨乃だけは心配してないなんてことは断じてない!」
自分でも一驚を喫するくらいに腹の底から感情が飛び出していた。それだけ今の梨乃の言葉は不愉快だった。僕はこれまでのたった一度でも、梨乃のことをおまけみたいに思ったことなんてないのだから。
「……じゃあ、柚希のことは好きだから心配してるとして、私のことが心配な理由は何?」
梨乃は一体何を言っているんだ? 何を探ろうとしているんだ? まさか、この期に及んで僕のことを疑っているとでも言うのか?
僕は腸が煮えくり返りそうな気持ちを落ち着かせて、極めて冷静に言葉を紡いだ。
「そりゃあ、友達だからだ。……こんな、恥ずかしいことを立て続けに言わせないでくれよ」
「……友達……」
梨乃は、僕の口にした言葉を切り取り、小さな声で反芻しては口ごもる。
「ああ、そうだよ。友達だから、心配になるのは当然だろう」
これで梨乃も納得しただろうと、僕は昂然とした態度をとる。
だが、案に相違して、梨乃は儚げに相好を改めて首を傾げた。
「……どうして、友達だったら心配になるのが当然なの?」
「それは……」
答えられなかった。
こんなところで言葉が詰まるとは、僕も中々に薄情な人間だと思った。
友達だったら心配になるのは当然だ。それ以外に言葉が出ない。
それはどうしてだ?
だって、友達同士がギクシャクしてたら心配になるじゃないか。
それじゃあ理由にならない。
なら、どうして僕は友達だから心配になるのは当然だなんて言ったんだ?
それで納得させられると思ったからだ。
でも梨乃は、哀愁を帯びた瞳で僕を見ているじゃないか。
梨乃の望んだ答えはそうじゃない。僕は答えを間違えた。
今更取り繕ったって、きっと信用してもらえはしないだろう。
いや、そもそも僕には彼女の求めている答えがわからない。
梨乃のことを友達と呼ぶ割には、あまりにも彼女のことを知らなさ過ぎた。
「……ごめん。変なこと言って……」
傷心を風に交えて、梨乃は屋上から出て行ってしまった。
僕は彼女を追いかけることもなく、ただその場に立ち尽くしていた。
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