第6話 追わずとも、いずれは知れる好奇の末路

「うおー……」


 翌日は、いつになく明け方の空が白く感じられた。

 浅い眠りから目を覚ますと、クルトにとっては未知の若さのフレグランスな身体が、肌もあらわにベッドに横たわっている。


「ほんとに、エノーラは……。持ち主のことを理解してるのかいないのか、分からない奴だな」

 まだ薄闇は部屋の隅に残っていたが、青年は床に敷いた寝袋から身を起こしていた。

 自分の身支度のため、目に毒な少女の身体にシーツをかけて、のっそりと立ち上がる。


 ……カチャ、カチャ。

 しばらく服や装備を点検していると、いくらかはぼんやりしていた頭も晴れ、今日という一日の意味を思い出してきた。

(……そうだ。俺はこれから数日のうちに、生涯殺したいと思っていた相手を、ぶちのめしに行くんだ)


 ふところに何本か収める飛刀を手にとり、その刃の砥ぎを確かめる。

 まだ前の仕事をして間もないので、あわ立った心も、武器もそのまま使えるだろう。


 そんな、感傷的になっている自分におかしくなった時だった。

「よう。立たないクン。女には手を出せなくても、男には気持ちよくモノをぶっ刺す用意をするんだな」


 朝から全開の下品さで、脇棚サイドボードの上から声がかけられていた。

 コンパクトであるエノーラは、かたかたと棚の表面をすべり、そこから落ちそうになってもまだ話しつづけている。


 クルトは彼女の明け透けさにそっぽを向いて、ため息をついていた。

「……はいはい。いいですよもう、俺はヘタレで。そのせいでこうやって警吏にも捕まらずに生きてこれたんだしね」


 ――そのおかげで、彼女エノーラに逢うこともできたのだ。

 そんなことよりも、と青年は話を変えていた。

 傍らに眠っている少女は、大丈夫なのだろうか。よく酒なんかでやるように、目を覚ましたらいきなりシラフでした、みたいなことになったら、この娘はショック死するんじゃないだろうか。


 クルトはだいぶ心配していたのだが、そこはやはりエノーラの面妖さである。

「お主に心配されるとは、儂も情けない存在になったものじゃの……。人の心を操る、というのは、さほど難しいことではないのじゃ」

 まるで胸を反らすように、エノーラは答えていた。


「もともと人間でも、いくらかは操るのがうまい異性はおるじゃろう。コツや経験はいるにしても、そこにどうしようもなく“ある”ものを錯覚させるのは大した力ではない。ただ、一生をかけてそれに情熱を費やす、価値や欲望があるかどうかの問題じゃな。難しいのはそんな動物的情動より――」


 めんどくさい講釈が続きそうなので、クルトはふんふんと鼻歌をうたいながらバッグの中身の点検に移っていった。

 男一人が生活するすべての荷物がそこに入っているのだが、大事なものはほとんどないと言っていい。


 宝石などは古物商のクライドにぜんぶ渡してしまったし、当座の現金と着替え、それに口が汚いぶん嘘みたいに美しいブルークリスタルのコンパクトが入っているくらいだ。


(……いや。これは“大事じゃないモノ”とは言えないか……)

 ふと真剣な目になって、彼はうつむいていた。

 たしかに、取り扱いには難があるだろう。

 だがクルトが手に取った青いケースは、それ自体が無限の夢想をかき立て、ひょっとしたら持ち主を長く願望に生かすのではないか、と思えるような魅力さえあるのだ。


「――さあ、そろそろとう。まずは朝で人出ひとでが増えてくる前に、この娘を家に帰してやらなくちゃ」

 準備を終えた青年は、二、三歩はなれた所にある宿の床をふり返りながら、言った。

 決意を持った旅立ちであると共に、どこかぎこちないセリフになったのは、まあ若さゆえのことだろう。


 ……彼の視線の先には、昨夜脱ぎ置かれたままの、生々しい異性の夜着が折り重なっていたのである。

 ベッドですやすやと気持ちよさそうに眠る少女は、まだ暗闇よりも陽の光の中でこそ、男の目を惹きつける可憐さだったのだ。







《マイカ》の街を後にしたクルトたちは、それから十日ほどのあいだ、とぼとぼと歩き旅をすることになった。


 彼の住むベラクールの中でも屈指の交易都市であるマイカは、その近辺十字にすべて、広大な石街道を敷いている。

はじめは隊商キャラバンでも悠々とすれ違えるような道を南へゆき、半日ほどで、クルトはいつものような石畳の端っこを進んでいくことになった。


「お主、リラの街を出てこっちに来た時もそうだったが、馬を使うことはないのか? 儂の主人でありながらそんなせせこましい行動をとる男は、そうはいないのだぞ」

 また当然のようにというか、それが彼女の存在意義というか、エノーラは青年に贅沢をさせようとしてくる。


 彼女にとってクルトの満足はエネルギーになるのだから、まあ仕方のないことかもしれないが……

「贅沢をしているとなぁ……考え方の土台が傲慢になって、仕事の腕がにぶってくるんだよ」


 青年はそっけなく答えたが、もちろんそれは彼女コンパクトを手離す未来もあるということだ。

 ここのところ彼も、エノーラを利用して太く短く生きていくことを考えたが、それで完全に楽に死ねる保証はない。前の魔術士は素直に喜んだようだが、さらっと横から彼女を奪われ、路頭に迷うようなこともあるはずなのだ。


「――ふん。そういう奴がいちばん、後悔するんじゃ。ああ、なんで自分は、もっと正直に生きなかったんだろう、とな。例えばセックスを色んな相手とやりまくって、性器の色を変色させまくることが人間の成長なのに……」


(……)

 誰もが欲の塊だと思ってるな、コイツは。

「俺は、ただ真っ当に生きたいだけなんだよ。その日食うために盗みながら、本当に生きる価値もないようなクズな金持ちを、これでもかってほど見てきたんだ。性的に道をふみ外した奴は、その時はよくても、人生のランクをいくらか落としたり、穏やかな老後や、死に様を迎えられなかったりすることも多い。……俺はいつか、ちゃんとした仕事を見つけて、それで――」


「おお、見ろ! 河が見えてきたぞ!!」

 そこで、話は突然ぶち切られていた。

 あれはイオーヌの河じゃな。憶えたぞ! 昔は《大地の葉脈》イヴォンと呼ばれていて――


 ブルーコンパクトは、背中の袋の中でざわめきながら、喜んでいた。

 世界をひっくり返すような力を持っている“らしい”くせに、エノーラは自分で移動する能力だけがないらしい。

 ある時は、旅路でいきなり持ち主が事故死し、何十年も荒野でぽつんと過ごしていたこともあるとか。


 ……人間の欲望のエネルギーはすさまじく、すでに膨大な量を溜めこんではいるのだが、彼女は孤独な期間があまりに長かったせいか、さびしがりやの子供みたいな面もあった。

「ん?」


 クルトが前方に何かを目撃したのは、そんな風に、彼女が大河へかけられた石橋にはしゃいでいた時である。

 ……あれは馬か? それにしてはちょっと……


 土煙が立ちのぼり、やがて平原の先に、おぼろげな姿が映りはじめる。

(!)

 そこからの青年の行動には迷いがなかった。すっと目を細めたと思うと、ただでさえ端っこを歩いていた街道からどんどんはずれていく。


「……おい? 何をしておるのじゃ。橋を渡ってしまって、ここはもう平原じゃろう。向こうもこちらが通れるように、道をゆずっておるではないか」

 まだ数百メートルは向こうに見える馬群は、相手に避けさせる時間も惜しいのか、ところどころですれ違う旅人に当たらないよう、集団の半分は平原部にはみ出していた。


 だが。

「バカ……。あの近づいてくる速度と、異様なまでの圧力を感じろよ。あれは軍馬だ。……それも並みの訓練のされ方じゃない。この国じゃあ情報や、戦時――とくに喫緊きっきんの大規模指揮系統なんかに優先的に回される、軍令馬クラスかもしれない」


 クルトは遠方から押し寄せる嫌な重圧に、顔をゆがめていた。

 なぜそれが判るのかと聞かれれば、たぶん後ろめたい人生を歩んでいるからだろう。鍛え抜かれた馬の前に立った時の感覚は、駄馬のそれとは全く違う。


 ブレも、縦揺れも意識も“ただ強く速く走るために”ムダをそぎ落とされた練成馬は、容易に前方の人間をひるませるのだ。

(軍直轄の人間――ああいうのには、万が一でもかすらないように注意しないといけない。俺みたいな裏道を歩いてきた人間は、そういった奴らと関わるだけで、陽にさらされるようにボロが出てくるものだから)


 ごにょごにょとエノーラとやり合っているうちに、もの凄い速度でその馬群は彼らの横を走り抜けていった。

 上に乗っているのはわずかに二人。どちらもよれたフードマントを身につけていたが、そんなものはちょっと観察すれば、気風のある衣服を着込んだ本人らを余計に目立たせている。


 からうまを三頭つれ、乗りつぶしながら最速の道を行く様は、その先に相当数の人間の命運がかかっているような焦り方をしていた。

「ふっ。良かったな、お主。あの宝石を手離しておいて」

 ふいにエノーラがそんな言葉をかけてくる。

「いくつかはまともに鑑定するのを避けておったようじゃが、儂はお主の評価を、あれでそこそこ上げてやったのだぞ。身の程を知らぬ欲望を持ったあるじは、すぐに死んで入れ替わってしまうからのう」


「……やっぱりあんた、知っていたのか……というか、あの宝石は全部あんたが強奪してきたものじゃねえか!」

 そうつっ込みを入れながら、クルトはまたもとの道に戻っていった。


 古物商クライドが言っていたように、あの石の中には、名門家いわく付きの魔石が数個あったのである。

『ジン・ピアス』と呼ばれるルミノア家 《家宝》の方はまだよかったのだが……


「イヤな感じしかしなかったのが、クロス十字・オニキスと呼ばれる、オニキス双晶魔石だよ。あれはいくさの多い北方でも、一、二を争う武門の象徴石だったはずだ。たしか、グラディオス家だったかな……。もし俺なんかが『家宝を回収してきました! 買い取ってください!』なんて持っていったら、即座に捕らえられ、拷問されて出所を吐かされ、関係者一同皆殺しにされるだろうよ……」


 ついさっき、行き違ったときにフードマントの隙間から剣柄の黒石オニキスが見えたことを思い出して、クルトは身ぶるいしていた。

 売品はすべてクライドに丸投げしてしまったが、彼はそういう闇の世界にどっぷりとかっている住人であり、自分が殺されるようなことがあれば、取引相手に不利な情報が流れるよう、常に命に保険をかけている。


「ま、いらん好奇心を出す相手は、ちゃんと選ばないとな。あんたもそんな偉そうにしてると、いつかガツンと痛い目に遭うぜ」

 たまにはこっちも言ってやろうと思い、クルトは背中のエノーラにふり向いていた。

 彼も二十前とまだ若いが、それなりに修羅場はくぐってきたのである。


「おおっ!? 今度は何やら、みすぼらしい田舎町が向こうに現れおったぞ! もしかしてあれか? お主が山賊との決戦前に立ち寄りたいと言っていた、母親の惨劇に関わった場所は!」

 もはや文句が出るどころか、彼女の歯にきぬ着せぬもの言いは、むしろすがすがしかった。


 クルトは、無言のまま顔をひきつらせて、その場に足を止める。

(やれやれ……すまんな母ちゃん。二年ぶりくらいになるのかな……。騒がしい墓参りになりそうだよ)

 それは、まだ青年が十二のころに、性病で皮膚をボロボロにしながら死んでいった、母親が眠る町だった。


「……」

 懐かしい――というような思いはない。

 ひどい目に遭った母を、結局この町は、誰も受け入れてくれなかったのだ。

 生まれた町でも普通の生活がままならなくなった彼女は、誰のものとも知れない子供を抱いて、土地を渡り歩いて生きていくしかなかった。


「“故郷に帰りたい”って、いつも言ってたよな……。なんとか墓標だけは置かせてくれることになったこの場所で、ゆっくり休めてるといいけど――」

 青年はどこか寂しい目をしながら、町の一番眺めのいい高台を見つめていた。

母の墓石は、自分にできる限りの良いものを、皆と離れた静かなところに置かせてもらっている。


 ……この地には、きっと不幸に巻き込まれることも、自ら身体を売ることもなく、ただ平凡な町娘がクルトではない子供を抱いて、幸せに暮らす未来があったはずなのだ。


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