第4話 望み

 絶対に許せない奴がいる。


 それは“父親”という集団だった。

 もっと言うなら、ハーライン峡谷と呼ばれる地帯に、長きにわたって棲まい続ける、残酷を極めた山賊集団だ。


クルトの母は、かつて田舎町から田舎町へと、嫁入りに向かう裕福な少女の『侍女』として、その峡谷をまわり込む街道を通りがかることになった。

 馬車に乗ったあるじである娘は艶やかで、地方でも富豪の家に生まれ、これからもそう変わることのない豊かな未来を、一行は思い描いていたことだろう。


 だが、勿論そんな一部の者の立場のままに夢想された絵図は、完成しなかった。


 おごそかな道行きに射かけられた矢は、たった一本。

 それで左右を見渡せる草原の馬上にいた護衛の男が落ちたとき、すでに残りの者や、女たちの馬車下には、伏せ隠れていた屈強で醜悪な男らが殺到していた。


 その場では、女性が傷つけられることはなかったと、側頭部を強打され、片目の視力を失った子供が町へと伝えている。だが、夜盗にさらわれた女たちは、短くない時間を峡谷で、知らぬ男たちの肌の下で過ごすことになった。


 ――それからしばらく経って、さらわれた少女の嫁入り先に、吉報と凶報が同時にもたらされることになる。


 捜索を受けていた女たちは、人買いに売られるために囚われた訳ではなかった。

 だがそれは、山賊たちの、非道の中の気まぐれでもあったのだろうか。ハーライン峡谷から町まで、余興のように生きていることを知らせるために届けられた女性は、ほとんどが途中で息を引き取ることになった。

腕や足を、下卑げびた男らの気分次第で馬につながれ、引きずられてたどり着いた先では、秀麗だった主の娘もほとんど人としての判別がつかなくなっていたらしい。


 ……クルトの母は、運が良かったのだろう。

 街道のはし、草原寄りを走った馬につながれた彼女は、たった一人、まともに口がきける女性として、街の人間に保護されていた。


 ただあちこち皮膚はすり切れて肉が露出し、数えきれないほど繰り返し男を受け入れた彼女は、ほとんど記憶を残すことはなく、父親の判別もつかないままに、クルトを産むことになった。






「……うん? どうした、お主。いつもと違う、ずいぶん深刻な顔つきをしておるではないか」


 街中を歩いていると、エノーラがそんな言葉をかけてきた。

 彼女は今、いつものように黒い煙として姿を現しているわけではない。そもそもあれは自分エノーラに慣れていない者に存在を認識させるための姿であり、コンパクトの半径数メートル以内なら、どこにでも物体や声を出現させることが可能らしかった。


「あんたは、ほんとにデタラメな存在だな……」

 疲れたようにクルトは言うが、もはや彼女の本体、《蒼玉》の妖しい輝きを見てしまった後では、すべてがどうでもいいことのように思えた。


(俺がもしこんな仕事をしていなかったら、あれほどこの宝石に魅入られることもなかったんだろうか)

 その日暮らしさえできればよく、大きな欲などは持っていないつもりだったが、モノが違う、という存在は、やはりあるらしい。


 卑しい心なのか、それとも子供じみた“夢想”なのか、青年はエノーラの本体を手放すことができなくなっていたのだ。

 ……たとえ『寿命が激しく縮まる』というような話を聞いた後のことでも……


「おっ、クルト。ここではないのか? お主が先ほどの古売屋で、これから食べに行くと話していた食堂は。……なかなかに閑散としておるようじゃのう」

 いつになくぼんやりしていると、青年は耳元のささやきで鳥肌が立ってしまった。エノーラの声は、ただ普通に話していたとしても、とにかくなまめかしい。


「なあちょっと、頼むから少し離れた場所からしゃべるようにしてくれよ、エノーラ。近すぎるとびっくりするんだ」

 首元をなでながら、クルトは店の看板を見上げた。


 大通りにあるわけではないので、この『命を包む亭』は、さほど知られている店ではない。だが、出てくる品物がとにかくすべて包み料理、飲み物ですら、いくつかのメニューは硬質ゼラチンや、果肉をくり抜いた果皮に入れてくるというクセの強い店なので、わりあい好事家マニアに受けているのだ。


「まだ盗みを始めて、浮ついたような気持でやっていた頃は、稼ぎがあると偉そうだったり、ことさら立派な店に入るのが嬉しかったがな……やっぱりまあ、そんなことをくり返していると、心をゆるめて、落ち着いて食べられる場所が一番になったよ」


 ……ふっ。根っからのしみったれじゃのう。

 そろそろ彼女の軽口にも慣れてきたので、クルトはその言葉に、力を抜いて肩をすくめるだけである。


 そして、今日は腹いっぱい食えるなと、久しぶりにうれしい気持ちできしむ押し戸に手をかけたのだった。

 




「おお! それはたらのホイル焼きか? まず儂によこすのじゃ! そのき肉“三種の夏葉”包みも……あっ、アワビのパイ包み焼きじゃとおっ! いつからこんな辺鄙な店で、これほどの魚介が手に入るようになったのじゃ!」


 全くけしからん! と次々にテーブルの上の料理を消していくのは、むろんエノーラだった。青年はバレないように、皿をかちゃかちゃと一人でかたづけるが、さっきから飲み物しかろくにれていない。


(おい! あんたそんなに食べて、大丈夫なのか? 栄養を摂るってことは、つまり……出す方も……)


「!」

 どすっ、と鳩尾みぞおちに衝撃がとんできて、クルトは黙ってしまった。


 女神レディーに何を言っておる! そんなものは天使の雲みたいに、どこかへ飛んでいってしまうわ!!

 やはり耳元でけたたましく怒られるが、さっぱり意味は分からなかった。


 青年は胸元のダメージから立ち直ると、メニューを手にとり、今度はちゃんと自分のための注文をしていく。


 ……ったく、この女は……。“持ち主の欲望を叶える”存在ではなかったのだろうか。

 いま見ている限りでは、ただの寄生生物パラサイトとして、自分の人生を謳歌しているように思えるのだが……


 青年はそう感じながら、あらかた片づいてしまった料理を眺めて、一息ついていた。

「――」

 ふう。店内がいているうちに食べ終わるつもりだったけど、日が昇り切っちまったか――


 こちらの街外れにある飲食店の並びにも、少しずつ人通りが増えてきたようである。

 いくらかは自分たちがいる食堂もやかましくなって、クルトも周りに遠慮することがなくなっていた。


「……なあエノーラ。あの『契約書』のことなんだけど」

 それは、突然の話だった。

 彼は忌まわしい感情とともに、その“願望”を語りだしている。

「あんた、たとえば『誰かを殺しても』欲望が回収できるって書いてたぞ」


「……ふぅん?」

 ゆらり、と。

 声が一段低くなり、逆に周囲の音は、いきなり二人から遠くなったような気がした。


「お主、そういう男だったのか? 儂はまた、今回はのんびりしたあるじに行き当たったと思っていたのだが……」

「茶化すなよ。あんたの契約書の余剰書き、あれは今までの持ち主が解ったことを記してきたものだろう? 『エノーラに誰かを殺させて、その相手の解放された欲望を集めることで、寿命を縮めずに生きられる』と書いてあったぞ。ほんとにそれは可能なのか? なぜ今までの持ち主は、それをやらなかったんだ?」


 当たり前のことではあるが、やけに自分が死ぬことに怯えていたという、前回の主である魔術士。そして、本来なら自ら考えなければいけないような、“裏技”まがいのことまで明記してある書類。

 裏道しか歩いて生きてこれなかったクルトにとっては、あってはならないようなお膳立てばかりだった。


「……まあ、お主が望むなら、儂はいくらでも人を殺してやろう」

 そう言いながら、エノーラはまた耳裏でささやいた。


「じゃが勘違いするなよ? この世に、たしかに“殺されるべき”という人間が、どれくらいおると思う? 立場のある物が、死に値するような横暴な生き方をしておったとして、その恩恵を知らずに受け、まっとうに生きている人間は? ――人とは、本来“こう生きてやる!”と強く決めていても、どうしても心が無防備になる瞬間というものがある。……全部返ってくるぞ? 儂の力を行使したために、自分が本来持っていた願望さえバラバラになってしまうような苦しみと、土下座してでも救われたいと思う、命の終わりが」


 まるで虚無に包まれていくような感覚のなか、クルトはその言葉を聞いていた。

 だが、そこから時間が経ち、笑顔が生まれていったのは、エノーラにも想像がつかなかったことだった。


「何じゃ、お主? もしかして、狂っておるのか?」

 自分が契約を結ぶことのできる主は、おおむねまともでなければならない。

そういう心の持ち主にだけは敏感なエノーラだったが、思わず自分の感覚を疑っていた。


「……いや、たぶん俺は正気だよ」

 クルトは、強く拳をにぎりしめながら言う。

「べつに命を奪わなくたっていいんだ。ただ、どうしようもなく――あんたの契約書の逃げ道にもあったように――その人間の欲望が根こそぎ折れるほど、ぶっとばして解放してほしい奴らがいるってことさ」


「……ふむ」

 エノーラは、やや納得したようにつぶやいていた。

 けれど、真面目な顔をしてテーブルを見つめていた青年は、なぜかその時、この願いを口にしてはいけなかったような気になっていたのである。

 しかし――


「分かった。お主の願いは叶えてやろう。……だが忘れるなよ? 憎しみを人生の前進のための力に昇華させるのではなく、それを元凶に返そうとしたとき、お主は自分の未来を一つ失うのだ」


 彼女が言った言葉に、クルトはふたたび中身のない、乾いた笑みを浮かべていた。

 

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