第9話 株式会社ぶるり 設立
ハローワーク帰り。ぽつぽつとビニル傘に当たる雨を聞きながら、私はアパートの階段を上る。鉄で作られた階段は錆びついており、1段上がる度にトンと無機質な音が鳴った。
「仕事、見つかるかな……」
開いていた傘を軽く振ると、ふぁーっと雨粒が四方へ飛び散っていく。私の不安な気持ちも一緒に離散してくれれば良いのに。日に日に重くなっていくドアノブを回す。
「ただいま」
この時期の求人は多く出回っている。4月からの採用に向けて募集している企業が沢山あるからだ。しかし前職場での出来事が未だに忘れられず、私は勇気をもって一歩踏み出せずにいた。
「ぶるり、帰ったよー」
いつも玄関までやってくる同居人がいない。どうしたんだろう?
「あれ? 誰かの靴がある」
基本的にぶるりは靴を履かない。だから雨の日なんかは玄関マットで足を拭いて、先にお風呂へ入るのだが。やけに小さい靴だ。子供かな?
「ぶるり? 誰かいるの?」
リビングの扉を開けると、コタツを取り払ったテーブルで蜜柑を食べているぶるりと——。
「……誰ですか?」
見たこともない黄色いクマのぬいぐるみが、ぶるりへ書類を見せて説明している。私の姿を捉えたそのクマは、まん丸い黒い瞳をぱちくりさせた。
「あっ、芹奈様ですか?」
可愛い見た目からは想像もつかないほど渋い声だ。低音ボイスフェチの女子には堪らないだろうが、相手はぬいぐるみ。笑い出しそうになるのを誤魔化すため、眉間に皺を寄せた。
「そうですけど」
「私はぬいぐるみ社会保険労務士事務所のジュディと申します。以後お見知りおきを」
そう言って、着ていた紺のスーツポケットから名刺入れを取り出し、丁寧に差し出してきた。あまりにも慣れた動作だったため、「あ、はい。宜しくお願いします」と思わず両手で受ける。クマの身長がぶるりと同じくらいのため、つい屈んで受け取ったが、その際の礼儀作法はあっただろうか。思案してみたが全くわからなかった。新人研修のビジネスマナーでもこんなパターンを想定したものはなかったのだから、知らなくて当然と言えばそうだが。
名刺には会社名と、誇らしげに映るジュディの顔が印刷されている。
「ぬいぐるみの社労士……」
独り言のつもりだったが、目の前のクマにはしっかり聞こえていたらしい。大きな耳がぱたりと動いた。
「はい。私共のようなぬいぐるみでも、活躍している者は沢山おります」
——ぬいぐるみでも活躍している。
その言葉は、私の言外の意味に対して回答されたものだった。
「あ、そんなつもりじゃないんです。社労士って資格を取るのも難しいですよね。私も挑戦したことがあったんですけど、難しすぎて断念したことがあって……。凄いです、本当に……」
慌てて弁解したが伝わっただろうか。漆黒の瞳を覗いてみると、意外にも怒りの感情はなかった。
「ありがとうございます。……今回、ぶるり様からご依頼を受けた件で、芹奈様のご自宅にお邪魔させて頂いております」
「依頼?」
「はい、会社を立ち上げる諸手続きについて、私に一任したいとのご連絡を頂きましたので、それにかかる日数や費用についてご説明していたところです」
ジュディはいそいそと座り直すと、ぶるりの方へ向き直った。
「ぶるり様、金額はこちらの方で宜しいでしょうか?」
「うん、これでお願いするねー」
「かしこまりました。お支払いは手続きが完了後、先ほどお伝えした口座へお振込みください」
「ほーい。じゃ、よろしくー」
待て待て待て。話が急展開過ぎる。会社を立ち上げる? 支払い? 一体どういうこと?
「ぶるり? ちょーっとよく分からないんだけど……」
「ん? 何が?」
「前に会社を立ち上げるとか言ってたじゃん。あれ本気なの?」
ぶるりはけろりとした顔で言い放った。
「そだよ」
いやいや。そんなに簡単に言えることじゃないでしょ。本当に会社を立ち上げるっていう意味分かってるのかな?
「大丈夫なの? 会社倒産したら、ぶるりは借金抱えることになっちゃうんだよ? わかってる?」
「大丈夫、芹奈には迷惑かけたりしないよ。会社を運営するのは僕だから」
「だからって……資金は? 私とぶるりのお金合わせても50万円もないんだよ?」
そう言うと、ぶるりはタンスの引き出しを開けて、通帳を取り出してきた。しかもそれは私の通帳ではない。一体誰の……?
「僕の通帳だよ。ほら、これ見て」
ぶるりはパラパラ預金残高のページをめくり、私に突き出した。そこには驚くべき数字が印字されていた。
「500万円!? どうしたのこのお金!」
こんな大金いきなり手に入れられるはずがない。宝くじ? いや、それなら私にも事前に言うよね? 強盗!? いや、そんな悪い子じゃないから。自問自答を繰り返していると、ぶるりが解答をくれた。
「ぬいぐるみ助成金っていうのがあるんだよ。ね、ジュディさん」
「はい。芹奈様にもご説明致します」
ぬいぐるみ助成金——ぬいぐるみが目覚めた直後は財産がないため、路頭に迷わないよう政府が拠出する助成金。ジュディの説明によれば、ぬいぐるみ1匹に生涯支給される金額は500万円らしい。いくらなんでも高すぎると思うだろう。だがぬいぐるみが就ける仕事は軽作業などの簡単なものだけ。正社員に登用されることはほぼ無い。日本におけるホームレスの人口は1万5,000人ほど。そのうちの7割はぬいぐるみだ。収入は健康保険も受けられないアルバイト。助成金を使い果たし、ゴミ溜めから少しでも食べられるものを探しているぬいぐるみは日本に大勢いるのだ。
「え、でもぬいぐるみ就職説明会とかあるんですよね? パンフレットも貰ったし」
「ぬいぐるみ用の就職説明会が開催されていますが、実際は就職できたとしても最低賃金の給料です。おまけにボーナスもつかない場合が多いのですが……ぶるり様のように、仕事が出来るぬいぐるみについては、人間と同じように扱われるようです」
確かにぶるりは仕事が出来る。色んな事に気が付くし。私が覚えるのに2か月もかかった伝票処理、ぶるりは1週間でマスターしちゃったし。自分がとろいだけなのかもしれないけど。ぶるり辞めちゃったけど、勿体ないことしちゃったのかも。
「芹奈様は、ぬいぐるみが目覚めた後の大半はどうなるか、ご存じですか?」
「目覚めた後……家を探したりするとか?」
「いえ……人間の方が購入後、この世に生を受けた彼らを待つのは、突然の別れです。家族になったと思った人間から家を追い出された、なんていう話はざらにあります。ぶるり様のように恵まれたぬいぐるみの方もいらっしゃいますが、収入を確立していない学生や子供がいる家庭では特に起こることなんです。ぬいぐるみ売り場で突然命が宿る場合もありますが、辿る道筋は大体同じです。……私と違い、ぶるり様は本当に恵まれていらっしゃる」
ジュディは黒いビジネス鞄に手早く荷物をしまうと、丁寧に一礼した。
「会社の名義はぶるり様でご登録されるので、会社が倒産しても芹奈様には一切の負担がかからないようになっております。それについてはご安心ください。……ぶるり様にはお伝えしましたが、会社を設立後、私は専属の社会保険労務士として色々とアドバイスさせて頂きますので、どうぞ宜しくお願い致します」
「はぁ……」
「それではまた後日」と言い残し、ジュディはアパートから出ていった。
未だ夢心地のような気分だ。ぶるりが会社を立ち上げる。本当にやるんだ。
「芹奈ぁ」
「……なに?」
「芹奈を苦しめる花丸ガスは、僕がやっつけてあげるからね!」
そっか。ぶるりは敵討ちのために会社を立ち上げようとしてくれてたんだ。
褒められる動機ではないと思う。復讐なんてしてもきっと幸せになれない。だがそれは綺麗ごとじゃないのか? みんな口ではそういう理想を語りたがるが、世の中に仕返しをしない人間など、聖人でもない限りあり得ない。直接手を下さなくても、どこかで必ず「ざまあ」と思っているはずだ。
「ぶるりはいい子なのに、そんなことしていいの? 復讐なんてして、後から後悔するかもしれないよ?」
「後悔しないよ。でも芹奈が辞めて欲しいっていうならやめるけど……」
ぶるりは私の目を真っ直ぐに見た。ジュディさんにキャンセルするなら今しかない。どうする? 復讐なんて愚かなことはせず、全うに働く道を選ぶか?
——山本さーん! 聞こえてますかぁ? 私はブラックコーヒーが良いって言ったんですけどぉ。
——あーあーあー山本! 就業時間はとっくに過ぎてるぞ! ……あーほら、残業代が発生する時間になったじゃねぇか! 俺が松村部長に怒られるんだからな!
——何!? 今忙しいんですけど。話しかけないでくれる? 分からないなら他の人に聞いて!
——もー、入金処理の金額タイプミスしちゃったじゃない。山本さんのせいだからね!
山本! 山本! 山本!
うるせぇよ。
私の中で、何かが音を立てて切れた。
「ぬいぐるみのくせに生意気っ」
ぶるりを抱き上げ、ふんわりと抱きしめる。頬ずりをすると、「ぬーん」と間延びした声が上がった。
「ありがとう。私のこと心配してくれたんだよね?」
私にはもうぶるりしかいない。でも、ぶるりも私しかいないんだ。私は覚悟を決めた。
「……会社名はもう決まったの?」
「株式会社ぶるり」
「そのまんまじゃん……」
♢
後日、ジュディから手続きを完了したとの連絡を受けた。会社立ち上げの書類を受け取り、振り込みも済ませた。いよいよこれから始まるのだ。花丸ガスへの復讐が。
2021年4月4日 株式会社ぶるり設立
代表取締役 山本ぶるり
事業内容 ガス事業
資本金 500万円
従業員数 2名
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