第8話 ぶるり、会社辞めるってよ〜宣戦布告します〜
冬場で最高に忙しい2月がやってきた。仕事が終わり、いつも通りアパートの駐車場に車をとめる。でも私はいつも通りじゃなかった。動こうとしない私を不審に思ったのだろう。シートベルトをカチャカチャ外していたぶるりが、首を傾けてきた。
「……ぶるり」
「ん? どしたの?」
私は引き攣る口角を上げて、精一杯笑った。
「私、仕事辞めるね」
♢
真夜中の3時。膨らんだ布団がぶるぶると震えている。その振動で目覚める僕。
「むぅー……眠れないよう。芹奈ぁ?」
「……私も眠れない」
ここのところ、ずっと芹奈は疲れている。今みたいに夜中に震えだしたりもするし、朝は僕より起きるのが遅くなった。お昼のお弁当を丸々残すこともしょっちゅうだ。その度に僕が残飯処理係として活躍している。
芹奈の肺炎は治ったはずなんだけど……。寒そうに布団の中で縮こまっている芹奈を暖めようと、いそいそと芹奈の腕へ移動する。
「僕が暖めてあげるね。お尻は特にほっかほかだよー」
ぷりんと突き出す尻をさすりながら、芹奈は泣いていた。この様子じゃ、明日芹奈が会社に行くのは無理そうだ。
「明日僕が行って課長に伝えとくね」
「……ごめんね。情けないよね」
たった数ヶ月で一人前になれるはずがないのに、期待に応えようと一生懸命頑張ってきた芹奈。小言を言われても、課長からパワハラを受けても、職場では常に笑顔であろうとしてたんだ。
僕を抱きしめる芹奈は、まるで小さな子供みたいだった。この世に生を受けてこの方、僕は一度も怒ったことがない。だけどその時思ったんだ。逆恨みだと言われようが、僕には関係ない。
——あの会社をぶっ潰してやるお。
僕はもう、「ただの眠たそうな犬のぬいぐるみ」じゃなかった。
♢
「ど、どういうことだ。会社を葬る? ……何を言っているんだ?」
「新しく会社を立ち上げるんだぁ。それで、ぬいぐるみの従業員を雇う予定です」
部長はぽかんと口を開けていたが、わははと笑い出した。
「ぶるり君は冗談も言えるのか! ぬいぐるみの従業員……ぷぷ」
部長には分からない。芹奈の気持なんか。大切な人を守りたいっていうぬいぐるみの気持なんか!
「芹奈はもう会社に来られないから、有給とって辞めます。はいこれ辞表」
トテトテと机を回り、背中のポーチに入れていた辞表を2つ手渡した。芹奈と僕の分だ。
「僕のお給料は要らないから、芹奈はもう休ませてあげて」
ぶるりの申し訳なさそうな顔に心を動かされた松村部長は、ぐっと顔を歪ませた。
「し、仕方ない。社長には私から報告しておく。ぶるり君は、今日付けで退職することを事務に伝えておこう。まあ頑張りたまぇ。ぬいぐるみの……従業員と……ぷぷ」
何かツボにハマったらしい。への字口が更に山型を描いている。
「あんがとさん。じゃっ」
♢
2021年3月20日。ぶるりが退職の意向を伝えてくれたお蔭で、私はもう二度と会社に行かなくて良くなった。私物は一切なかったから、職場の人達に挨拶もせずに出ていったことは悔やまれるが。残っていた有給6日を全て消費し、私は退職した。入社から僅か10ヶ月のスピード退職。世間的な評価は最悪だろうが、それでもよかった。
「ねぇぶるり、今日は何が食べたい?」
川沿いを歩くぶるりと私。こうして散歩するのは土日だけだったが、会社を辞めてからは毎日の日課になっていた。
「そうだなー。僕エビフライがいい!」
「うん、エビフライにしようか」
「やったおー」
ぴょんとジャンプして尻尾をふりふり。ぶるりも散歩が楽しいみたい。私も楽しい。辞めてしまえば、こんなにも心が穏やかになる。
3月か……。桜の蕾が少しずつ開いている。私もぶるりも、そろそろハローワークで就活しないといけないなぁ。2人分の住民税も払わないといけないし。
ぶるりが稼いでくれた数ヶ月分のお給料は、私の預金口座に振り込まれていた。ぶるりは要らないと言ったらしいが、短い期間でも繁忙期で活躍してくれたことに対して、給料はきっちり支払うという会社の誠意だろう。
人間関係は最悪だったが、福利厚生だけは整っていた会社だ。夏休みは10日間、年末年始も10日間。住宅手当は30,000円。残業はなし。中小企業の中でもこれだけの待遇を用意してくれる所なんて、そうそうない。未練がないと言えば嘘になる。しかし私にはあの会社で勤め上げるだけの精神力・体力がなかった。
「働かなきゃ……」
そうだ。泣き言を言っている場合ではない。通帳の残高は50万円をきっている。
預金が減っていくのを見ると現実を思い知らされるが、生きていくため働くしか道はないのだ。
「はぁ……」
苦しい、不幸な溜息が出た。友達は離れ、仕事を失い、自信を失い。今手元に残っているのはぶるりだけ。ぶるりだけ……。
「ねぇ芹奈ぁ」
「なぁに、ぶるり」
「僕、新しく会社を立ち上げるよ。芹奈もやってみない?」
「え?」
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