第5話 決意を胸に

「おはようございます」

「あーっす……」


 事務所の2階にあるオフィスへ出勤すると、すれ違いざまにやる気のない営業の挨拶が返ってきた。トタン張りの外観はいつ見ても安っぽくて格好悪い。もっと色々あったでしょ。リフォーム事業もやってるなら華やかにしてくれればいいのに。事務所内部に入り、課長の席へ向かう。


「おはようございます、谷岡課長。こちらの方が、ぶるりです」


「あ、君がぶるりさんか。初めまして。課長の谷岡と申します」


 身長140cm。まるで小学生並みの身長に、童顔。どっから見ても子供にしか見えないこの男が谷岡課長。無駄に細かく、綺麗好き。私の大嫌いな奴でもある。特に女性社員には嫌がらせのようにネチネチと注意してくる。重箱の隅をつつくような発言を繰り返すこの男は意外と器が小さく、主任の藤田に頭が上がらないことが多い。情けない課長だよ。


「初めまして、ぶるりです」


 可愛らしい声が耳に入ったことで、はっと我に返った。いかんいかん。また闇の世界に入っていくところだったわ。一度入るとなかなか戻ってこられない。しっかりしろ自分! 今日はぶるりもいるんだから。


「いやぁ、こうして見ると新鮮だねぇ。ぬいぐるみが生きているなんて。……じゃ、今日は僕が案内しますよ。まずはこちらへ……」


 課長……完全に猫被っている。普段からあれぐらい謙虚にしとけっての。


「山本さん、おはよう。あれ、ぬいぐるみだよね?」

「あ、おはようございます」


 田渕さんだ。長い黒髪を後ろで結いまとめている田渕さんは、唯一私に優しく教えてくれる。同期の居ない私にとっては友人でもある先輩だ。電話はあまりとってくれないけど。


「そうです。ぶるりっていう名前で、私と一緒に住んでます」


「そうなんだぁ! 可愛いねぇ、ぶるり君! ねぇ、1回抱っこさせてもらってもいいかな?」


「いいですよ。ぶるりも抱っこ好きなので、喜ぶと思います」


 髪留めの赤いリボンを揺らし、田渕さんは体をくねらせている。そっか、こういう可愛いの好きだもんね、田渕さん。伝票を束ねるクリップも、可愛いウサギさんだったし。



「山本さん! 来てたんなら準備してよ」


 このヒステリックな声。来たよ、奴が。


「おはようございます。藤田主任。ちょっと課長と話をしていたので……」


「え、話? 何の?」


 そんな食い気味に聞いてくる話でもないんだけど……。藤田は小さい目を何度もしばたたかせている。前まで牛乳瓶の厚底みたいな眼鏡だったが、最近は外している。課長の「コンタクトの方が綺麗だと思う」という一言が動機らしい。45を過ぎた子持ちのおばさんが、いい年して「女」を見せないでよね。ましてや職場で。こんなことをSNSで呟くと炎上するんだろうな。しかし世の女性達よ。胸に手を当てて自分に聞いてみて欲しい。一度くらいはそう思ったことがあるはずだ。


「いや、今日ぬいぐるみの方が会社見学に来ているので、その件で話をしてたんです」


「あー、はいはい。昨日2人でこそこそ話してたやつね」


すっかり興味を失った藤田は、自分のデスクにあるパソコンの電源を入れた。


「それはどうでもいいけど。出勤したなら手を動かして」

「はい……」


 自分が聞いてきたんじゃん! 言い返したい。でも私はまだ入社1年も満たない新人。仕事も一人じゃ出来ない。どこへ行ってもそうだと思うが、入社したばかりの新参者にはあれこれ言う権利はない。そもそも市民権がないのだ。いいように解釈されないことも多い。


 いや、我慢だ。我慢。1年は修行。その間に仕事が出来るようになればいい。そして私を虐げてきた奴らに、今までの分「お返し」するのだ。醜いとは思うが、この腹の底にある野心がなんとか私を奮い立たせていた。




 ここは客室。と言っても、広いフロアに透明な仕切りを立てかけ部屋に見立てただけなのだが。上等な黒塗りのソファへ座ってお茶を啜るぶるり。持ち手があるものだったので、なんとかお茶を飲むことが出来ている。


 ぬぅー……。僕は本当にここで働かなくちゃダメなのかな。皆怖い顔してパソコンとにらめっこして。こんな重い空気嫌だよう。いつまでも芹奈に甘えん坊したいよう。……緑茶ちょっと苦いなぁ。これで餡子が沢山詰まった最中なんか食べれたら、最高なのになぁ。


「一通り社内を回ったけど、何か質問はありますか?」


 課長がにこやかに話しかけてくるので、事前に訊いてみようと思っていたことを口に出した。


「ここにはお菓子は置いてないのですか?」


 「お菓子?」と一瞬訝し気な顔をするが、すぐに猫被った谷岡課長の顔に戻る。


「……あ、あぁ。えーと、社内には備え付けのお菓子はないんですけど、取引先からお中元でもらうものなら、給湯室に置いてあると思います」


「ここで働く時は、お菓子を食べてもいいですか?」

「えぇ、構いませんけど」


 この人、僕の事をお菓子にしか目がないぬいぐるみだと思ってる。でも僕が一番好きなのは蜜柑なんだよね。


「実はこの会社にぬいぐるみの方が来られるのは初めてでして。一応ぬいぐるみの方でも出来る事務仕事がありますから、採用が決まればそちらで働いて頂くことになりますね」


 そうなんですか。僕はもう帰りたいなぁ。早く帰って、芹奈の美味しい家庭料理が食べたいよう。


「HPにも募集要項が載ってますので。もし興味があるなら山本に連絡してください。面接の日を伝えますから」


「分かりました。どうもお世話様です」


ずずずっと濃い緑茶を飲み干し、ぶるりは客室から出た。




 茶色いフローリングをトテトテ歩き、芹奈の姿を探す。


「あ、いたいた。芹奈ぁ―。おーい」


 近寄っていくと、芹奈は電話中だった。ぺこぺこと頭を下げ、困った顔をしている。


「はい、はい。いえ、申し訳ありませんが、夜間は対応しておりませんのでっ……あ、あの!」


——ガチャ。


 受話器を置いて、芹奈は大きく溜息をついた。目頭を押さえて下を向いている。お家で見る芹奈じゃない。気を張り詰めて、びくびくしている。隣の椅子に飛び乗り、前足で背中をポンと叩いた。


「どうしたの芹奈ぁ? 大丈夫?」

「……あ、ぶるりか。どうだった会社見学?」


 この2時間で頬が痩せた気がする。無理やり笑顔を作って僕に微笑んでくれる芹奈は、今にも倒れそうだ。


「もうすぐお昼だね。どうする? 私は午後も仕事だけど。一緒にお弁当食べようか?」


「やーまーもーとーさん! 皆にお茶入れてきて。今日は電話が多いから喉乾いたわー。私コールドコーヒーね」


 芹奈の隣にいるボブヘアーの女性社員。首からかけている社員証には「藤田主任」と書かれている。


「あ、はい」


 急いで席を立ち、給湯室に向かう芹奈。それを追いかける僕。


「……ねぇ、芹奈ぁ。大丈夫?」


「大丈夫! ぶるりにも入れてあげるからね。何がいい? あ、オレンジジュースがあるよ。蜜柑好きだから、これにしようね」


 きっと何も考えないようにしているのだろう。さっき電話口で何を言われていたのか分からないけど、物凄く怒った声が受話器から漏れていた。震える手でコーヒーを注ぐ芹奈を見て、僕はようやく決心した。

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