第3話 まずは家事から始めましょう

「じゃあ、やってみて」

「うん」


 頭には赤いバンダナ。右手にはハンディーモップ。そして体には青いエプロン。完全武装したぶるり。いざいざ、参る!


 すーりすーり……。すーりすーり……。


 後ろ足で立ち上がり、テレビ台の埃を絡めとっていく。


「その調子だよ、ぶるり。」


 褒められちゃった。僕ってやれば出来る子なんだよね。えへへ。


 すーりすーり……。すーりすーり……。


 掃除の様子を見ていた芹奈がおもむろに立ち上がった。


「じゃあ、私洗濯干してくるから。他の部屋もよろしくー」


「えー、ここだけじゃないのー?」


 文句を言ったことで、芹奈の顔が暗くなっていく。


「この家で働いてるのは誰だっけ?」

「芹奈」


「ご飯作ってるのは誰だっけ?」

「芹奈」


「じゃあ、掃除くらいしてもらわないとね。よろしくー」


 むう。仕方ないなぁ。掃除くらいはやってやるか。


 テレビ台が綺麗になったので、今度は床を雑巾がけすることにする。芹奈が盥に水を汲んでくれているから、ひと手間省けたや。おろしたてで真っ白、ふわふわ雑巾。これで床を拭くの勿体無いなあ。


 バケツで濡らした雑巾を、そのまま床に置いた。びちゃびちゃの雑巾を前足で踏みつけ、後ろ足で推し進めていく。芹奈も掃除機かければ早いのになぁ。


「ふふんのふんっ」


 鼻歌を歌っていると、あっという間に終わってしまった。床が濡れて輝いている。……うん、いい感じ。


「この調子で寝室もやっちゃおー!」




——山本さん。これあなたですかぁー?


 あぁ。なんで思い出すんだろう。あんな事。みんながいる前で、帳簿をぴらぴらと見せびらかすようにしてせせら笑う藤田主任。私の上司であり、お局でもある。


 この間、仕事でちょっとしたミスをした。1日の出入金額を帳簿へ記載するのだが、私は間違った金額を書いていたのだ。それをお局が発見し、私のミスが発覚した。


 ま、私が悪い。それは間違いない。……でも、その前日は田渕さんが担当だった。前日からの預かり金の合計が間違っていたのだから、そこに合計金額を足すと間違うのは当然であって、田渕さんにも責任はある。勿論、私も預かり金額が間違っていることに気づくべきなのだが。


「……だからって、入社してまだ半年。しかもその部署に配属されてまだ3ヶ月しか経ってないんだよ。気づくのが無理だっての」


 株式会社花丸ガス。ただでさえ忙しい会社なのだ。電話だってひっきりなしに鳴っている。受話器を上げてもかかってくるから、電話を切った瞬間に次の顧客へ繋がってしまう。そんな状態で入金処理やら何やらしなくてはいけないのだ。ましてや新人が。そりゃ間違いもするでしょ。


 というのが私の言い分だった。お局には言わなかったが、言えなかったことは心に大きなストレスを蓄積させている。早く業務を覚えたい。早く一人前になりたい。そうすれば、お局の支配から解放される。隣の席じゃなくて、せめて向かいの席にしてもらえる。


「あー! 早く仕事出来るようになりたい!」


 少しでも嫌な記憶を消そうと、半ば八つ当たり気味にパンッとタオルを叩いた。




「ぶるり。これは一体何なのかなあ?」


 洗濯が終わったからベランダから戻ってみると、どこもかしこも濡れている。まさかと思い急いで戻れば案の定、リビングは水浸しになっていた。


「ぶるり、どうゆうこと?」

「ぶるぶる……」


 ぶるぶるじゃなくてさぁ。喋れるんだからちゃんと説明してよ。


「どうしてこうなったの?」


 体を震わせているぶるりは、小さな口をこわごわと開いた。


「だ、だって。お部屋を掃除してって言われたから……。でも綺麗になったお」


「でもこれじゃ、びちゃびちゃになっただけでしょ? ちゃんと雑巾絞った?」


「絞ってないよ」


 それだー。原因それよ、それ。絞らないで拭いたらどうなるか、分かんないかな。しれっと平気で凄いこと言うんだから、この子。


「あのね、雑巾がけする時は濡れた雑巾を絞ってからじゃないとだめなの。滑って転んでも危ないでしょ?」


「うん」


「今度掃除するとき雑巾絞るの、出来る?」


「うん」


 うん、ばっかり。もっと言わなきゃいけない言葉があるでしょ。


「ごめんなさいは?」


「ごめなさい」


 ごめなさい? ごめんなさいなんですけど。


 ふと、仕事で言われたことを思い出した。


——すみません? 申し訳ありません、でしょ! 大学出てそんなことも分からないの?


 駄目だ。これじゃあのお局と同じ。私まであんな人になりたくない。


「ごめなさいいぃ……」


 耳で目を隠して床に伏せっている。今のぶるりは仕事場にいる私みたいだ。


 可哀そうに思えてきて、優しく頭を撫でた。まぁ、いいか。ぶるりも反省しているみたいだし。私だってお局になりたくない。


「初めての家事だから、上手く出来ないのは当たり前だよ。一緒に乾いた雑巾で拭こう?」


 ばっと頭を上げたぶるり。


「うん!」


 結局、いつもの倍時間をかけて掃除をやり直すことになった。お蔭で昼ご飯は沢山食べてしまい、体重が2kgも増えた。


「体重増えちゃった……。ぶるりのせいなんだからね」


 丸々としたお腹をさすってころんと横になっているのを見ると、不思議と口元が緩んだ。風邪を引くといけないから、もこもこの毛布を掛ける。幸せそうに寝返りを打つぶるり。


「もぅ、仕方ないんだから」


 仕事で疲れた心を癒す同居人に、私は小さく呟いた。


「これから宜しくね。ぶるり」

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