第2話 ぶるり、市役所に行く
翌日。早速、私達は市役所にやってきた。地下駐車場に車を置いて、市役所へ入る。
「うわぁ! 綺麗な建物だねぇ!」
ここは最近新しく立て直されたばかりなのだ。綺麗なオフィスで張り切っているのか、職員たちもシャキシャキと働いている。
入り口付近にある案内板には『ぬいぐるみの方はこちらへどうぞ』の文字が。辿っていくと、檜で作られた受付が見えた。天井から『ぬいぐるみ申請窓口』のプラスチック看板がぶら下がっている。
「すみません、ぬいぐるみの……申請をしたいんですけど」
こんな時普通なんて言うのか分からないから、曖昧に申請をしたいとだけ言ってみた。
「あっ、初めてのご登録ですか?」
「えーっと、そうです」
「でしたら、こちらの窓口へどうぞ」
案内された窓口の椅子に座り、ぶるりを膝に乗せた。
「まずは、こちらの申請用紙へご記入をお願い致します」
女性職員に出されたのは、『ぬいぐるみ登録申請用紙』と書かれた申請書だった。
「なになに? 何するの?」
もぞもぞと腕から抜け出し、申請書を見ようと顔を近づけるぶるりを慌てて押さえる。
「私が書くから、ぶるりはじっとしてて。間違えちゃうでしょーが」
「ぶぅー」
ぶぅー、じゃないよ。全くもう。はぁっと溜息を吐いて、ペンスタンドに立てかけられているボールペンを手に取り、必要事項を記入していく。
「申請者は私のことか……えーと……なになに」
氏名、住所、生年月日、電話番号。ここまでは普通だったが、登録者情報——つまりぶるりの個人情報を記載する所——にある口座番号を記入する欄を見て「やっぱり」と肩を落とした。
あーあ。国民健康保険と国民年金、払わないといけないんだ。マジか……。持ってきていた通帳を見て、しぶしぶ口座番号を書き込む。
「あれ……?」
ここで私の淀みなく動いていたペンが動きを止めた。まずつまずいたのが苗字だ。これは一体なんと書けばいいのだろうか。
「ぶるり、苗字ってある?」
「ん? 苗字? そんなのないよ」
「あ、そう」
困ったな。苗字がないなんて。勝手に作るのもどうかと思うし、うーん……。
横を向いてパソコンをいじっていた職員。オロオロしている私にやっと気が付いてくれた。というか、最初から見ていて欲しい。初めてで分からないんだから。
「あ、そこは申請者様の苗字を書いて頂いて構いません」
「そうなんですか。じゃあ、山本ぶるり……っと」
残りは生年月日、出生の欄だけだ。
「昨日だから、2020年12月1日だよね?」
ぶるりから返答がない。
「聞いてる?」
よく見ると、膝の上で丸まって眠っている。大きな鼻提灯が膨らんでは萎む。すぴすぴ。むにゃむにゃ。
「もう……。起きてよ、ぶるり」
鼻提灯をつつく。パチンと割れる音に驚いたらしく、目を真ん丸にして飛び起きた。
「ふぅん!? なになに? 怖いよう!」
両耳をぴんと立てて、周囲を警戒している。いやいや、単に起こしただけだから。
「今日はぶるりのために来てるんだからね。ぶるりの誕生日は昨日でいいんだよね?」
少し声に苛立ちが混ざっているのを感じ取ったのだろう。ぶんぶんと首を縦に振っている。空気が読めるのか読めないのか……。
「出生は、私の家の住所で……。これでいいでしょうか?」
職員が申請書の内容を確認する。
「一番最後の欄に、ご本人様の直筆で署名をお願い致します。あと押印も必要です」
「私のハンコで大丈夫でしょうか?」
「いえ、ご本人と分かるものでないと、認められません」
えぇ! ぶるりは昨日目覚めたばかりなのに。ハンコなんて持ってるわけないよ。
あ、そうだ。
「ぶるりの爪印でいいでしょうか?」
「あ、はい! それで結構です」
下の引き出しからゴソゴソと取り出してきたのは、朱肉と助板。「こちらをご利用ください」とのことだったので、まだ眠そうなぶるりを揺り、覚醒させる。
「起きてぶるり。名前書ける?」
「……ふわぁ。……うん、書けるよー」
「これ持って」とボールペンを握らせる。書きやすいように申請書をギリギリまで引き寄せた。
「じゃ、書くね」
「……なんでこっち向いてるの」
前足は机に向かっているのに、顔だけが私の方を向いている。これじゃあ文字が書けないと思うんだけど……。上目遣いをしてくるせいで、余計すまなさそうな顔に見える。
「僕足が短いから、書く時は字が見えないんだよう」
「確かに。その足の長さじゃ大変だね」とは言わないでおく。流石に大人げないし。
かきかき……。かきかき……。
ぶるりが書いている字は、思っていたより悪くない。ちょっと丸文字だけど。ぬいぐるみなのに、何故か漢字も知っている。これはぶるりに限ったことではないらしい。覚醒したぬいぐるみの中には、文字が書ける者もいる。世界中の学者が研究しているが、8年経った今もどうして知能があるのか、またそれに差があるのか明らかにされていない。今の科学力では難しいのかも。
「後は、ハンコハンコっと」
前足で丸い朱肉台をペタペタと叩く。真っ赤になった肉球を眺めているぶるりに、「それくらいで十分つくから」と押印を急がせた。
——ポンッ。
肉球のスタンプ。こんなふざけたハンコでいいのかと思ったが、職員が良いと言うのだからそうなのだろう。
改めて、職員が書類の最終確認をする。
「はい、内容に不備はありませんね。戸籍や住民票等はこちらに記載のある住所で登録致します。後日こちらの住所へマイナンバーと年金手帳、保険証を送付致しますが、宜しいですか?」
「はい。宜しくお願いします」
終わった……! やっと終わった! 正直、この行政手続きが一番面倒臭かったんだよね。
「あ、山本様。ぶるり様は現在就職されていませんよね?」
「そうですが……?」
「それなら、こちらに就職説明会のパンフレットがありますので、宜しかったらどうぞ」
渡されたパンフレットには『ぬいぐるみ合同説明会』と大きく書かれている。説明会の様子を撮影した写真が表紙を飾っているが、ぬいぐるみが会場の椅子を埋め尽くす光景は圧巻だ。
「あ、参加企業の中には大企業の名前もあるんだ」
職場の先輩から聞いたが、近年ぬいぐるみへの需要が高まりつつあるらしい。彼らの愛らしい見た目が接客に向いている、そう評価されても不思議ではない。何故なら人間がぬいぐるみを作っているからだ。
ふと参加企業欄の中にとある会社名を発見し、思わず閉口する。
「花丸ガス……」
♢
「僕……やっぱり働かなくちゃダメ?」
地下駐車場を歩きながら、不安げにこちらを見上げるぶるり。私はにっこりと笑顔で答えた。
「働かないとご飯抜き」
「ひいいいぃ!」
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