第14話
「な、なんでフリージアがここに…… ?」
「それはもちろん、イリニを助けるためだよ」
「俺を助ける…… ?」
イリニは訳がわからず、息のかかる距離で自分の顔を覗き込むフリージアを見つめた。彼は彼女の両腕の上に乗っかっていた。
「そのまんまの意味。特別にあたしがイリニをあの竜のところまで送り届けてあげる」
「送り届けるって…… で、できるのか!? どうやって!?」
「投げるの」
簡単な言葉なはずなのに、理解するのに少し時間を要した。
「そしたら、フリージアは? どうやって上に戻るんだ? 戻れる方法があるのか?」
「あたしの事、まだ気にかけてくれるんだ。人をたくさん殺したし、こんなに酷い事もしたのに」
そう言って、フリージアはイリニの石化された腹部を、愛おしそうに手でなぞった。
「当たり前だ! 確かにお前は色々やり過ぎた。それでも、お前は俺の大事な仲間なんだ! その事実は変わらない!」
イリニは必死に訴えかけた。
「ありがと。あたしも色々イリニと話したい事あるけど、これ以上はだめ。あんまり離れちゃうと、うまくあっちに投げられるかわからないから。ほら、あたし結構不器用だし」
「冗談言ってる場合じゃないだろ! 俺が助かったとしても、このままじゃフリージアが!」
「私の事はいいの。イリニの命が、今は何よりも大事だから」
ふいに、背中の衣服を引っ張られ、フリージアの顔が遠ざかる。視界には遥か下の樹海が映り、肝を冷やした。
彼女は今まさに、イリニを投げ飛ばそうとしている。そして、おそらく彼女は自力で上へ戻る手段を持ち合わせていない。そのまま一人だけ、地面へと落ちるつもりだ。
「ばいばい」
その悲しそうな声音が、イリニを突き動かした。
彼はフリージアの手から離れた瞬間、咄嗟に身体を捻り彼女の腕にしがみついた。さすがの彼女も、彼のこの奇行は想定外だったらしい。目をひん剥いていた。
「こら! まだ俺の話は終わってないぞ! 話が終わるまでは、この手は離さない!」
「イリニ…… ちょっとしつこいよ。今そういう雰囲気じゃなかったのに。ムードを大切にしない男は、女の子に嫌われるよ?」
「ななな、なんで今そんなこと! いや、別に俺はそんな事気にしてないけど! たとえ女の子にモテなくなっても、俺はこの手を離さない! 俺だけ助かるなんてごめんだ!」
「一瞬手の力緩んだけど、ちょっと気にしてない?」
「してない! まったく!」
イリニはフリージアに巻き付けていた腕を、さらにきつくした。
たしかに、今の彼はみっともない醜態を晒している。例えるなら、妻に逃げられそうなのを、必死に食い止めてるような夫のような格好だ。
だが、そんな事はどうでもいい。
「どうだ! これでもう逃げられないぞ!」
「なんか悪役っぽいセリフ。はぁ…… イリニはもっと他人の気持ちを考えないとね。あっちにいる女だって、きっと今のイリニと同じ気持ちだったんだよ?」
「魔王の娘が?」
「イリニはいつもそう。自分の命は二の次で、他人を最優先に助けようとする。仲間が無事なら、自分はどうなってもいい。あたしと初めて依頼を受けた時もそうだったよね。まだそこまで親しくなかったのに、命がけで。一歩間違ってたら、死んでた。あの時の私がどんなに心配したか、イリニにはわかる?」
フリージアが急に真面目な顔をして聞くので、イリニは少なからず驚いた。
そういえば、そんな事もあった。今から四年くらい前の、彼女が仲間に加わるきっかけになった依頼だ。
「い、いやぁ、あの時はついうっかり命を張っちゃって……」
「すごく嬉しかった。あの時一生付いていこうって決めたくらいだし。でも、"仲間思い"も度が過ぎると、ただの自分勝手だよ? これからは他人の気持ちもちゃんと考えなきゃだめ。あんたがいなくなったら、みんなが悲しむ」
「悪いな、フリージア。俺はこれからもーー」
ほんのちょっと気を抜いてしまった、その刹那。
フリージアはするりと、イリニの腕から抜け出す。そして、彼が反応する間も無く、素早く彼の衣服を掴んだ。彼の身体が、彼女の足元から弧を描いて上がっていく。
(何やってるんだ俺! 早く掴むんだ! どこでもいい! とにかく掴め!)
イリニは必死に手をバタつかせるが、全てが虚しく空を切る。彼を掴むフリージアの腕を捕まえればいいだけなのに、その腕が絶妙な位置にあって届かない。
「大丈夫、また会えるよ」
「だめだ、フリージア!」
言下に、フリージアが手がイリニから離れた。下から感じていた強風が真逆になる。
彼はすぐに彼女の方へと向きを直し、夢中で手を伸ばす。しかし、もう届かない距離だと察した。
何をしたところで、それは悪あがきに過ぎない。
それでも、彼は手を伸ばし続けた。そうすれば手が届くはずだと信じた。信仰心なんてないくせに、こういう時だけ神に祈った。
「嫌だ! 行かないでくれ!」
フリージアはひらひらと手を振っていた。
彼女の柔らかな笑みが、グングン遠ざかっていく。彼女の表情が霞んでいく。彼女の姿が霞んでいく。
やがて、小さな点となり、黒に近い深緑に飲まれていった。
「あぁ、そんな……」
助かるはずのない高さ。もう二度と、フリージアには会えないのだと理解した。
「尻尾! 尻尾を掴んで!」
真上の方で声がしたが、イリニは無反応だった。何をする気力も湧き上がらない。
「ちょっと聞いてるの!? ねえ! 声聞こえてるでしょ!? 上見て! こら! 変態の民!」
魔王の娘の叫びは、全て右から左へ流れていく。身体が鉛のように重い。
自分も下に落ちれば、助けられるかもしれない。暗く狭い頭の中で、イリニはそんな夢物語に逃げようとしていた。
(俺は、もう……)
頬に鈍い痛みが走った事で、イリニは我に帰った。
「は、早く上がって…… ! 本当に落ちちゃうから…… !」
見上げてみると、魔王の娘が竜の足にぶら下がり、尻尾でイリニをキャッチしていた。どうやら、尻尾の先で叩かれたようだ。
「ま、魔王のむすーー」
「一々長い! 早く上がってこい!」
弾かれたようにイリニは魔王の娘の身体を上ると、今度は彼女を引っ張り上げた。竜の足は意外と大きく、指一本につき一人が座れるくらいだ。
その一本に腰掛けると、彼は首をだらりと後ろに向けた。
不快なくらい
腹の底を揺らすほどの低い
眼下の樹海がみるみる内に明るく照らされていく。フリージアがどこに落ちたのか、もう判断つかない。
「フリージア……」
「ねえ、あなたどうやって上に戻って来たの…… ? 太陽の民って、羽とか生えてたっけ…… ?」
隣の竜の指に座る魔王の娘が、呆れたような声色で聞く。下で何が起こっていたか、知らないらしい。
「そんなわけないだろ…… フリージアが俺を……」
そこから先、言葉が続かなかった。
しばらくの間、どちらも押し黙ってしまう。
鼻をすする音が聞こえて、イリニはちらりとそちらを向いた。魔王の娘が膝に顔を埋め、その小さな肩を震わせていた。
「魔王の娘?」
「別に泣いてなんてないし!」
「いや、まだ何も言ってないけど……」
「勝手な事言うだけ言って、私を一人にして…… もう戻ってこないと思ったら、急に戻ってきて…… そしたら、全然喋らなくなるし…… あなたが自分勝手過ぎるから、ムカついて震えてるだけ! 心配もしてない!」
「あ、ああ……」
何がとは言わないが、凄い露骨だ。
さっきフリージアに言われたセリフが甦る。
(魔王の娘も、今の俺と同じ気持ちを……)
心が抉られるような、どうしようもないこの苦痛を魔王の娘も
「ごめん、心配かけて」
「だ、だから、心配してない……」
急に魔王の娘の声が掠れて、不鮮明になった。
「おい、魔王の娘?」
魔王の娘はそのままイリニの方へ倒れかかってきた。意図せずその頬に触れて、彼は心づいた。
「酷い熱だ……」
竜の脚が間にあるおかげで直射日光は免れているものの、それでも着実に陽の毒素が魔王の娘を
(悲しむのは後だ。落ち込むのは後だ。今だけは忘れろ。目の前にある命を助けるんだ。もう誰一人として、仲間を失っちゃいけない)
イリニは目蓋を乱暴に擦ると、胸中に
「魔王の娘、もう少しだけ耐えてくれ! どこか村に着陸して、そこで療養させてもらえれば!」
意気込んで、前に向き直った時だった。
イリニは視界の中央を占領するものに気づき、驚愕した。今までどうして気に留めなかったのか。
(あのバカにでかい木…… まさか、フリュギア王国のシンボル、聖樹ローレル?)
障害物など存在し得ない、延々と広がる一面の空。そこに一本だけ
びっしりと青葉を蓄えた巨木の頂点は、今竜が飛行している高度より少し低いくらい。
(ていうか、なんだあのうねうね…… なんかきもい……)
巨木の周辺には、それと同じ色の触手とも根ともつかない物体がいくつも生えていて、今も奇怪にうねっている。こちらは巨木の半分の長さもない。
イリニはさらに巨木の周りに目を配った。
(やっぱり違うのか? どこにも国らしきものは見えない。というか建造物一つない。それに、 前見た時とは、随分地形が違うような……)
聖樹ローレルはフリュギア王国のシンボルとされているだけあって、その木の近辺に国が存在している。しかも、そこはかなりの規模だから、肉眼でも十分に視認できるはずだ。
しかし、それらしきものは一向に見当たらない。それどころか、すぐ前方には、北から南にかけて、途方もない規模の溝が横切っていた。どんな地殻変動があったのか。とにかく以前この国を訪れた時、近くにあんなものはなかった。
(でも、フリュギア王国以外に、あんなでかい木がある所なんて知らないし…… あ、ちょうど木の影になってるのか)
一番あり得る話だ。
「おい、黒い竜! あの木の裏に回ってくれ! できるだけ急いで!」
竜はイリニの声に応えるように喉を鳴らすと、速度を上げた。
ダメ元で試しにやってみたのだが、案外いけるものだ。なんだかよくわからないが、運が良かった。
「もう少しだ。大丈夫、まだ間に合う。」
魔王の娘の荒い呼吸が、予断を許さない状態であると明示していた。そんな彼女を見ていると、こっちまで息苦しさを感じる。
間に合ってくれ。
ふいに鈍い音が響き、竜が一瞬小さく揺れた。続いて、頬の辺りに生温かい液体が飛んでくる。
不審に思い、イリニは顔を上げた。だが、すぐにそんな思いは消えていった。
「おお、もうこんな近くまで! これなら裏に回るまで、もう数分もかからない! 頑張れ、黒い竜ーー」
竜の頭部に視線を移し、ようやく気づいた。
「え、どうなって……」
竜の長い首が、根本からなくなっていた。そこから大量の血液が噴き上がり、その飛沫がこちらに飛んできていたのだ。
(敵!? こんな上空に!? でも、どこから!)
四方を見渡しても、近くを飛んでいるものはない。
よって、陸地からの攻撃が考えられるが、空中を高速で移動している物体に攻撃を当てるのは至難の技だ。人間離れした鬼才の持ち主が迎撃したのか、もしくは。
(まさか、あのうねうねが…… ?)
今も眼下でおどろおどろしく
(もう攻撃はしてこなさそうだけど…… これはまずい……)
急激に高度が下がっていく。竜の翼が広がったままなので、落下速度はそこまで速くない。それでも、この高さで二人が助かる見込みはない。
(あれは…… !)
イリニは一面の緑の中に、とあるものを見つけた。
上手くあそこに落下できれば、あるいは。
(二人とも助かるんだ! 魔王の娘も、俺も、絶対に死なせない!)
イリニの目に、橙色をした決意の光が
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