第11話

「本当に!? 本当に逃げられるの!?」


 顔は見えないが、その声から魔王の娘の興奮っぷりが伝わってくる。


「ああ! このままフローターが国を出て、どこかに停留するはずだ。あとは荷下ろしに紛れて、この船を出ればいい」


 このフローターがどこで止まるかは知らないが、とにかくこの国さえ出られればいいのだ。

 二人は感極まって、「わーい」と無邪気にハイタッチをした。無闇に騒ぐ事のできない箱の中で、これが最大限の感情表現だった。


「どこか他の国にたどり着ければ、身の安全は保証されたようなもの。そこで、ネクラの悪事を公表すれば、仲間の返還に応じるしかない。あいつの立場だって危うくなるはずだ」


 夢にまで見た光景が次から次へと、明るい色と音を伴って浮かび上がってくる。

 これらの全てが現実になる日は近い。そう信じてやまなかった。何もかもを楽観的に見る事ができた。自分は今まで悪い夢を見ていただけなのだ。


「待ってろ、ブレット、みんな…… もうすぐ元通りの生活に戻れる……」


 フリージアだって、きっと無理強いされてイリニを捕らえようとしていたのだ。彼女も本当は早く逃げ出したいに決まっている。考えてみれば、仲間を殺した張本人の下にくみするわけがない。

 と、一人ぼうっとしていた彼だが、ふと同乗者の存在が気にかかった。


「魔王の娘は、ここを脱出した後はどうするんだ?」

「私は…… 復讐するって決めたの。ネクラって奴を倒す。もう戻れる場所なんてないし」


 迷いをぬぐい切れない、しかし、魔王の娘にしては深刻そうな声音だった。


「他に仲間は?」

「いない。あの人間が攻めて来た時、私だけ逃されたの」


 初耳だった。


 ということは、今イリニと共に箱に詰め込められている少女が、全人類が憎み続けてきた種族。その唯一の生き残りなのだろうか。

 イリニが知っている限りでは、ネクラはタルタロスにいた全ての魔族を殲滅したとの事だったが。

 家族や仲間はおろか、自分の種族と故郷すら失った。彼にはその途方もない痛みを、百パーセント理解する事はできない。

 しかし。


「なら、しばらくは俺と一緒に行動しよう」

「え?」


 不意打ちだったようで、魔王の娘は間の抜けた声を出す。


「まだ出会って日は浅いけど、君が嫌な奴じゃない事くらいはわかる。それに、こっちの世界の事、よく知らないだろ?」

「いや、でも、私月の民だよ? よく知らないけど、そっちは私たちの事嫌ってるんでしょ? 容姿とかも全然違うし」

「容姿に関しては、むしろ俺たちに似てて驚いてるくらいだよ……」


 イリニの記憶にある月の民の像と合致する点は、角と尻尾くらいだ。太陽の民だと身分を偽っても、多分バレない。


「というか、今俺が提案してるのは、月の民である君にじゃない。そういう肩書きを抜きにした、魔王の娘に対してだ」


 暗闇の中だから何も見えない。だが、魔王の娘がこちらをじっと見ているのが、何となく伝わってくる。

 どういう返答がくるのか。少し心配になってきた。


「"魔王の娘"って、肩書きじゃない…… ?」

「細かい! 今そこ気にする所じゃなくない!? そもそも、それは君が名前を教えてくれないからだろ! もう!」


 まさか、揚げ足を取られるとは。ついムキになってしまった。

 それから、またしばしの沈黙が訪れた。


「……いい。元々国を出るまでの協力関係だったし、私は太陽の民なんて信用してないから」

「その割に、さっきまでは俺の言う事を何の疑いもなく聞いてくれてたけどな」

「ち、違っ…… ! あれは一時的であっても、仲間だったから…… 一応話を聞いてやっただけで、ちゃんと心の中では疑ってたし……」


 その後も何か必死に反論していたようだが、声が小さくてほとんど聞き取れなかった。

 しかし、魔王の娘の決意はそう簡単に揺らぎそうもない。それだけ生じた溝は深いのだ。


「じゃあ、どこか安全な場所に着いたら、答えを聞かせてくれ」

「は…… ? いや、ちゃんと話聞いてた? 私はあなたの仲間になるつもりはないってーー」

「俺は一人ではここまで来れなかった。君の力があってこそ、逃げ切る事ができた。精神的にも助けられた。ブレットの家を飛び出した後、君が目覚めてくれた事がどんなに心の支えになったか。やっぱり、一人は辛い……」


 牢屋に入れられた時などは、看守を話し相手にする事で、どうにか寂しさを紛らわせていた。

 向こうは事務的な事以外、何も話してくれなかったが。それでも、全くの孤独よりかは幾分マシだった。


 ただ、やはり、信頼できる人が近くにいるのといないのでは、天と地ほどの差が出てくる。

 魔王の娘だって、あの時の自分と似たような様な、空虚で鬱々うつうつとした心境に陥っているに違いない。それを放ってはおけなかった。


「ある程度落ち着いたら、歓迎パーティーもしなきゃいけないな。あ、好きな食べ物は? ふかし芋とか? あれなら俺でも作れるぞ? でるんだっけ?」

「勝手に話を進めるな……」


 呆れ返ったような弱々しい声が返ってくる。


「はぁ…… あなたって、本当変わり者ね……」

「え、いや、そんな事ないと思うけど……」

「なんでちょっと困惑してるのよ!」


 会話が途絶えた。


 外からは、船内を歩き回る靴音、船の小さな軋み、それから時々フローターの低い地鳴りのような声がするだけ。

 別段心地の良い音でもないが、今はそれらが子守唄の如き安らぎを与えてくれる。極めて平和な音だ。


 かなり時間が経った。

 安堵あんどのためか、また眠気が襲ってくる。目蓋が重くなり、持ち上げてもすぐに下がっていく。

 少しだけ寝てしまおうか。


「ねえ」

「どうした?」

「聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「何でも聞いてくれ」

「昨日、もう一人の男と話してたでしょ? その時ーー」

「待て」


 イリニは途中で、魔王の娘の口を抑えた。


「何よいきなり! ていうか、あなたが抑えてるそれ、おでこなんですけど。おでこから声なんて出ないんですけど」

「静かに。外の様子がおかしい」


 耳は何かの異音を捉えていた。


 船内を慌ただしく踏み鳴らす音。ちょうど真上の甲板からだ。

 耳を澄ましてみると、男たちがしきりに叫んでいるのが聞こえる。怒声というよりかは、何か驚いている様子だ。だが、どんなに集中しても、その内容までは聞き取れない。


「もしかして、私たちが乗ってる事がバレたとか?」

「そんなはずない。木箱の中身以外には全く触れてないし、他にヘマをした覚えもない」

「じゃあ、何があったんだろ…… ?」

「わからない……」


 名状し難い不安が全身を包み込む。

 大丈夫だ。きっと大した事ではない。そう自分に言い聞かせても、容易に不安は拭えなかった。

 

 もし、イリニたちが乗船している事が勘付かれれば、最悪の場合、船はネクラ国に引き返すかもしれない。二人とも操縦なんてできないから、そんな事をされれば一巻の終りだ。

 しかし、そんな単純な事なのだろうか。


 とにかく二人は息を潜めて、周囲の動きを窺うことに徹する。他にやれることはない。

 すると、存外すぐに騒ぎは収まった。辺りは一変して嘘のように静まり返る。


「あ、あれ? 静かになった」

「そうみたいだな。どうやら、俺たちとは関係ない事だったらしいーー」

「イリニ〜!」


 あまりの恐怖に総毛立つ。

 あり得ない、そんなはずがない。最初は幻聴かと思った。


「今の声って……」


 同じ声を、魔王の娘も聞いていたようだ。


「フリージアだ……」

「出ておいで〜。早くしないと、上にいる無関係な人たちがみんな死んじゃうよ〜?」


 次いで耳に届く絶望的なセリフ。


「なんでここにいるんだ…… どうやって……」

じれったいから、カウントダウン始めます! 三十、二九、二八ーー」

「え? カウントダウン…… ?」


 魔王の娘が困惑気味に尋ねる。


「あいつ、乗組員たちを殺す気だ!」


 言いながら、イリニは箱の蓋を静かに開けた。


「ま、待ってよ! どうするつもりなの!?」

「行かないと。あれはただの脅しなんかじゃない」

「そうだとしても、別にそいつらはあなたの仲間じゃないんでしょ!? それに、あの人間に勝てるわけない!」

「一七、一六、一五ーー」


 問答の間にも、着々と時間が進んで行く。もはや猶予ゆうよはない。

 イリニは答えず、箱から出た。


「魔王の娘はここで待っていてくれ」

「え…… ちゃんと戻ってくるよね…… ?」

「ああ」


 全てを悟ったような悲しげな表情に蓋を被せると、イリニは大急ぎで上を目指した。


「五、四、三、二、一……」

「待て!」

「あ、やっぱりこの船に乗ってたんだ。良かったね、死なずにすんで」


 快活な声でそう言うと、フリージアは船の外へ出していた手を軽くひねった。すると、そこから一人の男が足の方からぬっと出てきて、そのまま宙を舞った。今まで彼女は乗組員の足首を掴んで、ぶら下げていたのだ。

 甲板に放られた男は、悲鳴を上げながら四足歩行で奥へと逃げていく。


「あれ、もう一人の女は?」

「途中で別行動になった。ここにいるのは俺一人だけだ」

「ふーん。じゃあ、そういう事にしといてあげる」


 誤魔化すことはできなさそうだ。


「どうして、俺がここにいると?」

「国のどこを探しても見つからないから、もしかしてと思って。とりあえず今日一番に飛んだフローターに目をつけたの」


 フローターの尾ヒレの方を見ると、黒い竜がピタリとついて来ている。速さは断然竜の方が上だろうから、あれで追ってきたのだろう。

 その向こう側では、既に藍色の空に血のような真紅しんくにじみ出していた。もうすぐ夜明けだ。


「完全に騙されちゃった。あの炎は誘導だったなんてね。相変わらず機転が利くね、イリニは。相手がイリニの事をよく知るあたしじゃなければ、そのまま逃げられたかもしれないね」

「…… ブレットは?」

「それは大丈夫。ちょっと危ない状況だったけど、治療すれば良くなるって」


 フリージアの言う"ちょっと"の程度が気になったが、今は無事であっただけ良しとする。


「本当に、フリージアなんだよな…… ?」

「もう。あのクッキーを味わっておいて、まだそんな事言うの?」


 あくまで冗談っぽく対応するフリージアに、イリニは苛立ちを覚える。


「あの後…… 俺がネクラの護衛に連れて行かれた後、何があったんだ?」

「別に何も? ネクラとちょっと話しただけ」

「そこで何か弱みを握られたのか!?」

「そうじゃないよ」

「じゃあ、どうして! どうして、ネクラの側についてるんだ! あいつのせいで、俺たちはこんな事に…… !」

「どうしてって、それは…… スキュラが…… あれ、あたし、どうして……」

 

 極めて小さな、そよ風が掠めたような声。フリージアの表情に一気に雲がかかる。

 やはり、何かおかしい。どういう事か聞き返そうとするが、強く手を叩く音がそれを遮った。


「はい、お話はお終い。もう逃げ場なんてないから、観念してね?」

「待ってくれ! ちゃんと話をーー」


 有無を言わさず、フリージアが一歩踏み込む。すると、彼女の姿はもう目の前まで肉薄にくはくしていた。


「ぐはっ!」


 腹部の激痛。軽い浮遊感と共に、視界が上へ下へと反転を繰り返す。そして、固い物に全身を打ちつけられ、ようやく動きが止まった。


「手加減なし、か……」


 鈍痛にもだえながら、イリニはどうにか起き上がろうと腕に力を入れる。


「ごめんね、一回で気を失ってもらうはずだったのに。それじゃあ、苦しいよね? すぐに楽にさせてあげるから」

「くっ! 照焦暗天…… !」


 手を伸ばし、うめくように言う。しかし。


「あれ…… ? さっきと同じで、使える気がしてたのに……」


 あの胸がゾワゾワするような、高揚感にも似た感覚はあった。それなのに、また虹陽術が使えなくなっている。


「また、そういうことする。イリニは他人を驚かせるのが好きだね」


 少しの間、動きを止めていたフリージアが再び歩き出す。


「絶対助けに戻るって…… ブレットに言ったんだ……」

「大丈夫。目を覚ましたら、ブレットも隣にいるから。安心して眠って」

「約束…… 勇者になるための……」


 どこからか声が聞こえてくる。


『約束?』

『ああ、そうだ。まず一つ。勇者になるなら、必然的に仲間ができる。一人じゃ、できる事に限度があるからな。お前は適当な奴だから、仲間ができないかもしれん』

『信頼なさすぎでしょ! 俺だって仲間の一人や二人、すぐに作ってやる!』

『まあ聞きなさい。そんなお前にも、もし仮に万が一奇跡的に、仲間ができるような事があれば、その時はーー』


 昨日夢で見た内容の続きだ。

 父のロイは、イリニが勇者になるための条件を提示した。これだけは必ず守れ、と。イリニはそれをいましめとして、勇者になってからも片時も忘れる事なく心に留めていた。

 今でも父の言葉は鮮明に思い出せる。

 

 イリニは四つん這いになりながら、近くに落ちていた木の柄を掴んだ。先には鋼鉄の刃が伸びているに違いない。


「もう、イリニったら。そんなもので何をーー」

「『何があっても仲間を見捨てるな』!!」


 イリニは足に精一杯力を込め、立ち上がる。そして、両手に持った剣を思い切り振り上げた。


 確かな手応え。

 当たった。フリージアの横腹に。


「なっ!?」

 

 短い悲鳴を残し、フリージアは船尾の方まで吹き飛んでいった。


「え、あんな吹き飛ぶのか…… ? 俺そんな怪力だったっけ…… ?」


 そもそも剣で切ったはずなのに。


「ふ、フリージア! 大丈夫か!?」


 我に戻ったイリニは、ついフリージアの身を案じてしまう。彼の心の中では、彼女への仲間意識はまだ消えていないのだ。

 幸か不幸か、返事はすぐに来た。


「モップで女の子を殴るなんて。イリニ、さすがにそれは最低だよ?」

「モップ…… ? 何を言ってるんだ、これは鉄剣ーー」


 イリニは、太い縮れた糸がだらしなく垂れ下がる、穂先ほさきを見つめる。時折、濁った水が落ちていた。


 そうか。これはモップだ。


「なんでモップ!? 剣じゃなかったの!?」


 水を飛ばしながら、イリニはモップを振り回す。

 そもそも、ただの貿易船に都合よく剣が転がっているはずがない。勝手に剣だと思いこんでいただけだ。


「あれ? イリニ、私と目の色お揃いだね」

「め、目の色…… ?」

「そ、私と同じ橙色」


 フリージアはこれ見よがしに、二本の指で目蓋を上下に引っ張る。というか、さっきのイリニの攻撃はほとんどノーダメージのようだ。

 

 それにしても、何の冗談だろう。


 目の色は虹陽術の適性によって、六色に区分される。

 イリニの場合は炎を扱う事ができる、赤色だ。それはどんな事が起ころうが、生涯変わる事はない。その手の専門家がこぞって研究をした結果、そういう結論に行き着いていたはず。

 

「そういえばこのモップ…… やけに重いような……」


 気になって、もう一度先端に目をやる。

 相変わらず水がポタポタ垂れている。しかし、そのモジャモジャの部分は、振ってもびくともしない。


「どうなってるんだ?」

 

 柄を手繰たぐって、その先端に触れてみる。

 恐ろしく硬い。これでは掃除どころか、床を破壊してしまう。


「岩…… ? 橙の虹陽術……」


 岩は、橙の虹陽術でしか生み出せないのだ。


 あり得ない話だが、間違いない。たった今、自分は橙の虹陽術を行使している。


「意味がわからなすぎるけど、もう何でもいい。考えるの疲れたし」


 イリニは石化したモップを構え、奥に立つフリージアを見据える。


「フリージア!」

「どした!」

「お前の身に何があったかは知らない…… でも、お前が俺の邪魔をするなら、少し寝ててもらう! それと、全部終わったら、根掘り葉掘り聞かせてもらうからな! 覚悟しておけ!」

「お〜、いいねいいね! その強い目! 初めて会った時と同じ、あたしの大好きな目だよ!」


 フリージアの目が鋭く笑う。


「楽しもうね、イリニ」

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