第10話
「もう、虹陽術使えるんじゃん。イリニの嘘つき」
フリージアは大して気分を害した様子もなく、真っ二つに寸断された橋を両足跳びで渡った。
「でも、こんな規模の虹陽術を使ったら、動けなくなるのも時間の問題だよ。ふふふ……」
不気味な笑い声が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。その距離はもう三メートルもない。イリニは自然と全身に力が入っていくのを感じた。
しかし、フリージアの視線は真っ直ぐ、奥の道に向いていた。
通りの炎は未だに消えず、そこから伸びた明かりが波となって、彼女の前面でゆらゆらと揺れている。その明暗が彼女の顔を、時々恐ろしいものに見せた。
「なんでそこで止まるの…… ! あの人間、絶対気付いてるでしょ…… !」
すぐ隣で、魔王の娘がほとんど吐息のような声で叫ぶ。
「いや、まだわからない…… たぶん」
イリニは正直断言はできなかった。
二人は今、フリージアの真横に積み重なった木箱の影に隠れていた。川沿いに建ち並ぶ家々のために、火の光が遮られ、この辺りはひっそりと薄暗い。
凝視でもされない限り、こちらの存在に気づかれることはないはずだ。大通りの方に撒いた火は、二人がそちらに逃げたと思わせるためのフェイクである。
彼女は何をするでもなく、その場で立ち尽くしたままだ。一向にそこを動く気配がない。
魔王の娘の言う通り、こちらの存在に気付いていて、わざとそこに留まっているのか。もしくは、単に休憩しているだけなのか。
どちらにせよ、彼ができる事は息を潜めて、彼女が通り過ぎるのを祈る事だけ。バレたら、それが最後だ。
異変は突如訪れた。
「ぐっ……」
イリニは近くの壁に寄り掛かった。息が荒くなっていく。
それと同時に、彼の目は赤い光を捉えた。
「え、なんか腕輪が光ってるんですけど! 何その画期的な商品! どこに売ってるの!? 私も欲しい!」
「違う…… 好きでやってるんじゃない…… !」
まともにツッコミを入れる余裕もない。
最前、男に触れた時に感じたあの違和感。それとは真逆の、身体の内側を何かが食い破っているような、激しい痛み。
あまりの激痛に声を上げたくなるが、歯を食いしばり必死に堪える。
「ちょっ、大丈夫なの…… ?」
さすがに魔王の娘も、事の重大さに気付いたようだ。
脂汗が止まらず、身体が変に寒い。それに、激しい
「あれ、俺、死ぬ…… ?」
「急すぎるでしょ! な、なに? どうすればいいの?」
「わからない…… た、助けて……」
「そんな事言われても!」
症状はいよいよ悪化していく。もはや、立っているのがやっとだ。
冗談半分だったが、本当にこのまま死んでしまうのではないか。
ぐらつく視界に、目が痛くなるほどの赤い光が照りつける。この腕輪の光と、今の症状に何か関連があるのだろうか。
もうだめだ。
そう思った時、
「あれ、治った……」
「治ったって…… え、仮病?」
「このタイミングで、そんなふざけた事できるか。よくわからないけど、この腕輪の光が止んだと同時に、痛みも引いていったような……」
先ほどから一転、腕輪はだんまりを決め込んでいた。少しの間様子を見ていたが、再び光出すようなことはない。
「なんだ、心配して損したーー あ、いや! 別に心配なんてしてないけどね!」
魔王の娘には悪いが、今は彼女の薄情アピールに取り合っていられない。
(腕輪の光といい、牢屋に穴が空いた時から、訳の分からない事が起きすぎてる……)
それでいて、そのほとんど全てについて答が出ていない状況だ。困惑せずにはいられない。
そんな不可解な事象が順々に頭に流れていき、最終的に一人の少女の像で停止する。イリニはハッとして、木箱から顔を覗かせた。
「いない……」
イリニは慌てて辺りを見渡した。
しかし、目に見える範囲にはフリージアの姿はなかった。上手く彼の策略にはまってくれたのだろうか。
「ねえ、これからどうするの?」
「今のフリージアは、あっちに俺たちが逃げたと思い込んでる。たぶん。だから、今のうちに反対側に行くんだ」
「そう。わかった……」
影がかかっているせいか、魔王の娘の顔色が悪く見える。
恐らく色々な不安が胸中に渦巻いているのだろう。イリニとてそれは同じだ。先の見えない不安ほど恐ろしいものはない。
しかし、彼はそんな負の感情をおくびにも出さない。それが勇者になった時、父と交わした約束だった。
彼は深呼吸すると、魔王の娘の肩に手を乗せた。
「心配するな。何があっても、俺は君とこの国から逃げ出してみせるから。一緒に頑張ろう」
まん丸に大きく見開いた目がイリニを見る。
「さ、触るな……」
小声でそう言うと、魔王の娘はぷいと顔を背け、ノロノロした動作でイリニの手から逃れた。
それから二人は元来た道を引き返した。
イリニの作戦は功を奏し、騒ぎは川の反対側に集中したため、兵士たちは騒々しくそちらに急行していた。
反対に、二人が進めば進むほど、辺りは嘘のように静寂に包まれていく。移動中、運悪く兵士と鉢合わせになるという事はなかった。
(あれだけ暴れたのに、外に出てるのは兵士だけ…… それに、どの家もすごい静かだ……)
普通であれば、何事かと騒ぎ立ててもいいはずなのに。兵士以外は中に留まるよう、訓練されているのかもしれない。
走り回って三十分ほど。ようやくイリニは目的の場所を発見した。
「ここが船着き場…… ?」
イリニの目の前に現れたのは、高くそびえる
昨日ブレットが話していた外観と合致する。
「ここを登るの?」
「ああ。さすがに正面から堂々と、とはいかないだろうから」
「…… 高くない?」
「高い、めちゃくちゃ」
イリニは首を目一杯上に傾けた。
壁との距離が近いせいもあるが、こうしないと頂点が見えないのだ。地面と垂直に伸びていて、側面にほとんど
「魔王の娘、さっきの月祈術は?」
「さっき言ったでしょ。月の光に当たらなきゃ使えない。それに、あんな三日月じゃ、回復するのに時間がかかっちゃう」
月の形も関係してくるとは。
そういえば、ずっと裏道を通って来たため、一度も月明かりに照らされる機会がなかった。それに、今更後戻りするには、リスクが大きすぎる。
考えあぐねていたその時。良い物を見つけた。
「あれだ」
イリニが指差した先には一本の木が。その枝の先が、いい感じに塀の方まで伸びている。
「木…… ? 全然高さ足りないけど」
「いや、いける。俺と君が力を合わせれば」
というわけで、二人はどうにか木を登った。枝はだいぶ太いから、二人が乗っても折れる事はない。
「ほら、ジャンプしても絶対届かない」
魔王の娘は尻尾を枝に巻きつけて、器用にバランスを取りながら手を伸ばす。しかし、それでも塀の半分くらいの高さしかない。
「一人だけなら無理だろうな。じゃあ、魔王の娘。俺の首に尻尾を巻きつけてくれ」
「は…… ?」
「危ないから、きつめにした方がいいぞ」
「いや、一番危ないのはあなたの発言なんだけど……」
白い目がこちらを見る。どうやらただの変態だと思われたらしい。
この誤解を解くのには、中々骨が折れた。
「ぐっ…… 重い、苦しい、辛い…… !」
「し、尻尾が重いだけだから! 私痩せてる方だし! あと、この角も意外と重くて……」
「何でもいいけど、尻尾を締め付けないでくれ…… 息ができない……」
「ちょっと、揺らさないでよ! あなたが倒れたら終わりなんだからね!」
「そこは心配しなくていい! 下敷きになるのは俺だから、死ぬのは俺だけだ! 心置きなく俺を踏み潰せ!」
「心置くわよ! そんな事言われたら、余計嫌なんですけど!」
簡単に今の状況を説明する。
枝を歩くイリニの首に、魔王の娘の尻尾が巻きついて支えとなっている。彼女はその尻尾をギリギリまで伸ばす事で、単に肩車するよりも高い位置まで持ち上げる事ができるのだ。
たどたどしい歩調で、彼はようやく枝の先端付近に到着する。
「よ、よし! せーので、ジャンプするからな!」
「待って待って! せーのって言った瞬間飛ぶの? それとも、一拍空けたりする?」
「言った瞬間! ていうか、それそこまで重要!?」
イリニはちょっと苛立たしげに言い放つ。
どうやら魔王の娘はかなりの心配性らしい。魔王の子孫としての威厳が皆無だ。
「行くぞ…… せーの!」
イリニはジャンプする動作に、少しのためが必要なのを忘れていた。結局一拍遅れて、思い切り真上にジャンプする。
「あ、一拍空いちゃった…… ごめん。そして、飛ぶんだ! 魔王の娘!」
「この嘘つきぃぃぃ!」
とても共同作業とは思えない、恨みのこもった返答の後、魔王の娘は尻尾をバネのようにして飛んだ。
「ぐぇっ!」
尻尾に押し出された形になったイリニは、勢いよく下に墜落する。下が茂みでなかったら、大怪我をしていたかもしれない。
「どうだった? 成功?」
「わ、私の手にかかれば、このくらい余裕よ……」
その言葉通り、魔王の娘は無事に塀を登り切っていた。いや、吊るされてるという表現の方が正しいか。
後ろに少しカーブした角が、さながら鉤爪の如く角に引っかかっていた。見方によっては、塀に彫られた彫像みたいだ。
「お、おぉ…… すごい。魔王の娘の名は伊達じゃないな。結構サマになってる。こんな事、魔王の娘じゃなかったらできなかった」
「あんまり嬉しくない……」
苦戦の末、魔王の娘はどうにか塀をよじ登った。懸垂の要領で、顔を真っ赤にして。「頑張れ!」と声援を送ったが、「うるさい!」となぜか怒鳴り返されてしまった。
壁を乗り越えると現れたのは、視界を遮る物がほとんどない広大な敷地。
奥の方に、巨大な平家がポツリと建っているが、それは竜を収容する
竜は、その賢さと抜きんでた飛行能力から、古来より空の移動手段として重宝されていたのだ。
「何あれ……」
「昨日見た超巨大フローターだ……」
敷地のほぼ中央。
そこには大きなフローターが計六頭、横一列に整然と並んでいた。それぞれの前方には、同じ大きさの木船が同じ間隔で置かれている。
周りに人の姿はなかったが、二人は忍び足でフローターに近づいた。
「よく見たらふわふわした毛が生えてる。意外と可愛いかも」
「フローターの特徴だ。二年前は、もっともこもこしてて可愛かったんだけどな。あ、触らない方がいいぞ? ノミだらけだと思うから、手が真っ赤になる」
魔王の娘は、軽く後ろに飛び退いた。
「それで…… その、大丈夫?」
「ん? 何が?」
魔王の娘は「鼻」と、恐る恐る指を向けてきた。
今イリニは物凄い鼻声になっていた。
「ああ、大丈夫! 壁に鼻を強打して、鼻血がめちゃくちゃ出て、骨折れてるかもしれないけど! ほら、生きてるし!」
「うぅ…… なんかごめんなさい……」
あの魔王の娘はが謝罪するとは。それほどイリニは酷い面をしているのかもしれない。
彼女が壁を登った後、すぐにイリニも壁の乗り越えに成功したのだ。
方法は、近くに都合良く落ちていた長い木の棒を持って、あの枝の先から飛び、木の棒を彼女の尻尾に巻きつけてもらうというもの。
巻きつけるところまでは上手くいった。
それで、とにかく木の棒を上がって、彼女の尻尾を掴もうとした。その時、事件は起こった。
「まあ、次からは、無理そうならもっと早く声をかけてくれ。間違っても、木の棒を離してから『ごめん、もう無理』はやめて。どうにか尻尾に手が届いたから良かったけど」
尻尾を掴んだのは良かったが、そのまま振り子のように、イリニの顔面は壁に激突したというわけだ。
「はい……」
小さい声が返ってきた。
「あれ、何この布?」
魔王の娘が不思議そうに指差す。
フローターの目があると思しき部分には、大きな布が垂れていた。そのちょっと前方には、ランタンがぶら下げられている。
「フローターは光に向かって飛ぶ習性があるんだ。たぶん、これで光を見せないようにして、その場に留めてるんだと思う……」
この当て推量が正しいか、自信はない。
「ふーん。今は寝てるの?」
「そうみたいだな」
実際、先ほどからフローターの低い呼吸音が、あちらこちらからしていた。
愛らしい鳴き声をした、あのふわふわした生物がどうしたらこうなるのか。どうしても信じられない。
「それであなたの作戦っていうのは?」
「察しが悪いぞ、魔王の娘。わざわざこんな所に来たってことはーー」
案を聞いて困惑した魔王の娘の顔を見てから、二、三十分経った。光の届かない狭い空間にも慣れ、身体を丸めていたイリニは危うく寝てしまうところだった。
彼を
「魔王の娘」
イリニは隣で同じ姿勢をしているはずの、魔王の娘を指で突く。感触からして、頬だろうか。少し冷たく、柔らかい。
「起きてくれ。誰かが入ってきた」
「いやぁ、そんなに食べられない……」
「そんな幸せな夢見てる場合じゃないぞ。早く起きてーー」
ガブリ。
伸ばしていた指に、何か鋭い物が食い込んできた。
「あうっ!」
イリニは反射的に指を引っ込める。反対の手でなぞってみると、指には歯形がしっかりとついているのがわかった。
「なにこれ、まっず……」
「当たり前だろ…… まだ、寝てるし……」
「おい、そこ、誰かいるのか?」
外から鋭い声がかかる。
「どうした?」
「いや、その木箱から声がしたんだ」
「声? 何の声だ?」
「わからない。何か甲高い声だった」
男たちは明らかにイリニの叫声について話していた。
「まさか、人が乗ってるとか?」
「そんなことがバレたら重罪だぞ? さすがに違うと思うが」
「まあでも、一応確認してみよう。気になる」
コツコツという足音が、真っ直ぐこちらに向かってくる。
(やばい。どうする…… どうすればいい……)
こんな間抜けなミスで、全てが台無しになるなんてごめんだ。
その時、一つの妙案が浮かんだ。
「あう、あうっ! あうぅ〜ん!」
イリニはさっきの悲鳴を、可愛く加工して発した。
「動物か…… ? なんか凄い気持ち悪い鳴き声だけど」
「ああ、想像を絶するキモさだった。今回は家畜も提供するのか。さすがはネクラ様、豪気なお方だ」
「それなら、あまり刺激しない方が良いか」
「そうだな。俺、動物アレルギーなんだ。ほら、見てくれよ、俺の腕」
「おお、本当だ。
すっかり談笑に夢中になった、男たちの声が離れていく。
良かった。これで一安心だ。心が痛むだけで済んだのなら、安上がりだ。
一息つこうとした時、「あの」という魔王の娘の遠慮がちな声がした。
「ついにおかしくなっちゃったの…… ?」
「ついにってなんだ! そんな兆候一度でも見せたっけ!? くそ、良かれと思ってしたのに、なんでこんな事に……」
イリニは胸を押さえた。
「まさか中までは確認されないよね?」
「わからない。最後に点検作業があったら、たぶん終わりだと思う」
「え、めっちゃ他人事……」
船内はあっという間に、様々な音で一杯になった。
イリニたちが隠れているのは、船の中
これは貿易船のようで、箱の中には大量の布が入っていた。その一部を他の木箱に移し替え、代わりにイリニたちが入ったというわけだ。
それからしばらくの間、彼らは息を殺して外の動静を
目の前に誰かが立ち止まった時は、心臓が飛び出る思いだった。だが、結局誰一人として、この木箱の中を確認する者は現れなかった。
それからさらに、十分ほど。
「何この揺れ…… !?」
突然の大きな縦揺れ。中にいた二人は、箱の蓋に頭をぶつけるところだった。
その強い揺れはほんの一瞬だけで、今度はゆったりした揺れへと変わる。それは川を進む船に乗った時のものと、かなり似通っていた。
イリニは確信した。
「飛んだんだ! フローターが飛んだんだよ!」
「えっ…… ていうことは、私たち……」
「ああ! この国を出られる!」
胸がじわりと熱くなる。
ついに、この国を脱出できるのだ。
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