第9話
斜め上への勢いが衰えていき、今度は緩やかに降下が始まる。
かなり奥の方に川が見える。だが、目測するに、どうやらイリニたちが着地するのは、その手前の硬い
この速度であれば、確実に死ぬ。
「いやぁぁぁぁぁ!」
先ほどから魔王の娘は錯乱したように叫ぶだけ。
「魔王の娘! 魔王の娘!」
「なにぃぃぃぃ!」
「これ、どうやって着地するんだ!?」
「わ、わかんない!」
「え…… ?」
聞き間違いかと思った。いや、聞き間違いでないと困る。
「だって、逃げる事しか考えてなかったんだもん!」
「じゃ、じゃあ、安全に着地できる術は!?」
「ない!」
キッパリと断言される。
それはつまり、ここで死ぬということ。昨日処刑を宣告された時と同じような衝撃が走った。
だが、まだ諦めるには早い。
「そうだ…… さっきの糸! あれで足場を作れないか? 蜘蛛の巣みたいな感じで!」
「えっと…… クモノス、デスカ…… ?」
「なんで急に片言!? ふざけてる場合じゃないぞ!」
「だって、そんな言葉聞いた事ないんだもん!」
まさか、蜘蛛の巣を見たことがないのか。魔王の娘の故郷ーー タルタロスがどういう所なのか知らないが、そこまで不毛の地なのだろうか。
今はそれどころではない。すぐにでも彼女が理解できるよう説明しなくては。
「糸を縦横に張り巡らせて、クッションの代わりにするんだ! できそうか?」
「縦横に…… わかった!」
案外魔王の娘はすぐに飲み込めたようだ。
先ほど同様、彼女の手がイリニの目の前で合わされる。しかし、中々月祈術は発動しない。新たな術を
何にせよ、地面に当たるまでもう時間はない。この死の瀬戸際で、他力本願しかできない自分に嫌気が差す。
「いくよ…… ! 黒絲・
結晶から数多の糸が噴出される。
それらは家の壁やら軒先やらにくっつき、縦横に張り巡らされ、網のような形になった。蜘蛛の巣とは違うが、あれなら二人の体重にも耐えうるかもしれない。
「ナイス、魔王の娘! これなら、どうにかなるかも!」
「ふ、ふん。このくらい当たり前よ」
イリニは魔王の娘を背負ったまま、糸の網目の中に飛び込んだ。
弾性のある糸は、二人を包み込むと、千切れることなく下に沈み込んでいく。勢いは中々衰えない。
灰色の地面が目と鼻の先まで迫る。そこまで来て、ようやく動きが停止した。
「と、止まった…… ?」
魔王の娘が呟いた直後、伸びきった糸が一気に元に戻ろうとする。二人は再び宙に投げ出された。
「もういやぁぁぁぁぁ!」
魔王の娘の悲鳴が、先に下へと落ちていく。
その後を追って、イリニも地面に落下した。背中に鈍い痛みが広がる。
「し、死ぬかと思った…… 魔王の娘、大丈夫か…… ?」
「まあ、うん……」
声はすぐ近くで聞こえた。だが、それに安堵を覚えたのも束の間。
「またか…… それ、好きだな。月の民の習性だったりする?」
「そんなわけないでしょ!」
魔王の娘は反論しながら、身体を左右にもぞもぞ動かす。どういうわけか、彼女は通りの脇にある植込みに頭を突っ込んでいたのだ。また、角が突き刺さったらしい。
だが、今回は自力でそれを引っこ抜く。すると、不幸なことに、角に付いていた土の
「あー…… 大丈夫ですか…… ?」
「大丈夫に見えるの、これが」
「いや全然」
イリニは全力で首を振る。
恐ろしい殺気だった。尻尾の振り方も、荒れ狂う竜を想起させる。これ以上は触れない方が身のためだ。
そういえば、睡眠草の効果が切れたらしい。
まだ出会って十数時間しか経っていないのに、こういう光景を何度目にしたことだろう。あの角にはやはり意思があるのではなかろうか。
穴があったら入りたくなるとか。穴が無かったら、掘ってでも穴に入りたくなるとか。
「ま、まあ、気を取り直して一旦小道に入ーー」
そう意気込んで、振り返った時だった。
「え」
鼻の先が触れるか触れないかの距離にあったのは、男の顔だ。生首が浮かんでるのかと錯覚し、叫びそうになったが、そうではない。
兵士だ。ちゃんと胴体がある。
「もしかして、さっきからいました…… ?」
「ふっ、その通り! やっと気づいたか、イリニ・エーナス!」
矢庭に男がこちらに手をかざす。そのしたり顔に
「そこを動くなよ? もし動けば、我が最恐の虹陽術が、文字通り火を吹くーー」
「ちょっと声がでかいです!」
男が言い切る前に、イリニが思いきりタックルをお見舞いした。「最後まで言わせて」と悲しげな台詞を残して、男は地面に倒れる。
その時だった。
(なんだこの感じ……)
イリニは妙な違和感を覚えた。
胸の辺りから焼けつくような熱さ。ただ、それは不快なものではなく、むしろ快味なものであった。
彼は胸に手をあてがった。
(まさか、恋…… ?)
そんな訳あるかと、心の内で即座に否定する。今の一連の流れのどこに、恋に落ちる要素があったというのか。
それが何であるか気になるが、一先ず後回しだ。
「魔王の娘! こいつを縛り上げてくれ!」
「わかった!」
ものの数秒で、男は糸でぐるぐる巻きにされた。
「お、おのれ…… 今に見ていろ…… お前たちなどあっという間に……」
男はなおも横風な態度を崩さない。ミノムシのような格好になってまで、よくそんな強気でいられるものだ。
イリニはそんな男の顔をしげしげと見つめた。そして、一つ
(うん、恋じゃないな)
「で、どうするの、この人間?」
「なんか面白い人だけど、これ以上構ってる暇はない。さっさとここを離れよう」
イリニはすぐに走り始める。
そして、これからどうするべきかを思案した。実は、当初思い描いていた逃走経路から、かなり離れてしまっている。どこかで修正しなければ。
とにかく今は脇道に急ごう。
「見ぃつけた」
甘ったるい声と共に、巨大な影がイリニを覆った。
月に雲がかかったのか。いや、そうではない。
心の奥底で、本能が強く警鐘を鳴らす。この場にいては死ぬと。今すぐにここから離れろと。
「横に飛べ、魔王の娘!」
イリニは警告をしながら真横に飛んだ。
すぐ側を何か丸い物体が
後ろを向くと、魔王の娘は腰が抜けたように、その場に座り込んでいた。どうやら避けることができたらしい。
「これは……」
「嘘でしょ…… ?」
家と家の間。脇道への入り口を完全に塞いでいたのは、巨大な岩の塊だ。一体何トンあるのだろうか。
「さすがイリニ。避けてくれるって信じてたよ」
岩の飛んできた方に目を向ける。やはり、声の主はフリージアだ。
「もう、追いつかれた…… !? 数百メートルは離したはずなのに!」
それも、ここに至るまでは全くの直線ではなく、幾つもの曲がり道があったはず。さすがにこの短時間でたどり着くなど、普通の脚力ではありえない。
「たったの数百メートルでしょ? もう、だから、囮作戦を勧めてあげたのに」
「たったの…… ?」
今のフリージアを、常識の枠組みに当てはめてはいけないことを失念していた。彼女はブレットの薔薇の抱擁から生還した、唯一の生物だ。
「魔王の娘、もう一度、あの月祈術で移動できないか?」
「たぶん無理…… さっきので月光をだいぶ使っちゃったから…… 月もここからじゃ見えないし、月光の補給もできない……」
さっきの男に貴重な糸を使うのではなかった。自分の軽率な指示に
「今度はどうやって、あたしから逃げるのかな?」
フリージアは相変わらず
「走るぞ、魔王の娘!」
「え、本気!?」
あまりに程度の低い作戦に、魔王の娘も肝を潰したようだ。だが、現状これ以外の案は浮かばない。
「きゃぁ!」
隣を走る魔王の娘のすぐ後ろすれすれに岩が落下してくる。
「君は俺のすぐ前を走るんだ! フリージアが殺そうとしてるのは君だけだ! できるだけ離れるな!」
「わかった! 離れない! 絶対!」
魔王の娘は追い立てられた小動物のような素早さで、イリニの前に入る。これなら、あの大岩が直撃する心配もなくなるだろう。
それからも岩の雨が止むことはなかった。
走る二人のすぐ横が、瞬きの後、大きなゴツゴツとした岩肌に埋め尽くされる。その度に尋常でない振動と強い風とが容赦なく伝わってきた。
間近にやってくる死の足音と、爆走による疲労で、心臓が異常な速度で収縮する。こちらの限界は近い。
投石に専念しているのかと思い、何度も後方を確認するが、フリージアとの距離は広がらない。彼女は一定の距離を保っていたのだ。
(やっぱり、あいつ俺たちを追い込むのを楽しんでる……)
これはほぼ確信に近かった。
さっきから、フリージアは妙に遠回しな手法を取っている。ブレットに胸を貫かれた時も、すぐには起き上がらず、わざわざこちらに
それは投石の際も同じだ。先んじて声を掛けてきたのは、こちらに予め危険を伝え、避けさせる時間を与えるため。
(昔と同じ、あいつの悪い癖だ……)
イリニにとって、これは千載一遇のチャンスだ。これを活かさない手はない。
「魔王の娘!」
「なに!」
「ちょっと話がある!」
「今!?」
数分間に渡って、岩の脅威をかい潜っていると、道が一気に開けた。目の前には長い石橋がかかっている。
橋を渡り切ると、イリニは急停止し、後ろを振り返った。
「あれ、イリニ。もう降参?」
「ああ…… 今の俺じゃ、逃げ切れるわけがない」
「へえ、素直になったね。いつものイリニだったら、『最後まで諦めない!』って。あたし、イリニのそういうところが好きだったのに」
以前もそんな事を言われたことがある。記憶の改変をされたという線はなさそうだ。
「この二年で、ちょっと大人になったのかもな……」
イリニは自分の腹案を悟られまいと、できるだけ気弱な態度を努める。
だがその実、彼は固唾を飲んで、タイミングを見計らっていた。汗ばんだ手には、冷たい風が心地よいくらいだ。
「そっか。じゃあ、残念だけど遊びは終わりだね」
「ああ、遊びは終わりだ……」
体内の陽光が、色付けされ、そして形作られる。その様子が、鮮明に頭に上っていた。
二年ぶりの感覚だ。
いける。これなら。
「照焦暗天!」
突如目の前の水面から、明々と輝くオレンジの柱が天高く昇って行く。それは周囲の家々を、さらには、空をも明るく照らした。まるで、その箇所にだけ、朝焼けが訪れたようだった。
「できた…… !」
イリニは目の前の炎が消える前に、後ろを向いた。そして、向こうの通りに、奥へ奥へと小規模な火柱を立てていく。もちろん、民家には当たらないよう、細心の注意を払って。
その作業はほんの十数秒の間に完了された。
「魔王の娘! 俺の後に続いてくれ!」
「あ〜! 目が、目がぁ〜!」
「やってる場合か!」
ちゃんと警告してやったのに。
だが、これならフリージアにも同じ効果が期待できる。油断していたから、目を覆う事もできなかったはずだ。
イリニは、目を塞ぎあたふたしていた魔王の娘の手を取ると、そのままある場所へ向かった。「触るな、変態の民」と罵倒しながらも、彼女は一つの抵抗もなく彼に従った。
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