第8話
イリニの虹陽術の一つ。照焦暗天により、フリージアの身体は業火に包まれるはずだった。
「あれ、何も起こらない?」
フリージアはキョトンとした表情を浮かべる。彼女の身には何ら変化も起きていない。
術が発動しないのだ。同じ現象は昨日もあった。
「くっ、また…… ! 昨日、陽光は十分に浴びたはずなのに、どうして…… !」
「そっかそっか。イリニはあたしを傷つけるのが怖かったんだね?」
ほとんど無警戒の様子で、フリージアはじりじりとイリニに迫って来る。
「どうして何も起こらないんだ! 頼む、出てくれ! 照焦暗天! 照焦暗天!」
喉が痛くなるほど声を張り上げるが、結果は変わらない。そもそも、気力でどうこうできる問題ではないのだ。
「はーい。今度こそおやすみ、イリニ」
フリージアの手が、イリニの首へ伸びる。もはや逃げる術はない。
しかし、そんな彼女の手はふいに動きを止めた。
「ん?」
フリージアは足元に視線を落とす。
彼女の足首には、太い緑色の茎が巻きついていた。それには幾つものトゲが生えていて、何本かが彼女の皮膚に貫通している。
「これって、もしかして……」
何かに勘付いたフリージア。
だが、振り向こうとする前に、彼女の後方から十本以上の茎が、口を開けるようにして広がった。そして、彼女を丸呑みにした。
茎は嫌な
「
肩息を吐きながら、ブレットは言う。その
「ブレット!」
「イリニ、その子を連れて、早く逃げろ……」
「逃げろって、ブレットは!」
「この怪我じゃ、どのみち俺は足手まといになる…… 兵士が駆けつけてくる前に早く……」
「酷いよブレット。また、私にこんな乱暴して」
ぐるぐる巻きになった茎の中から、フリージアの声がくぐもって聞こえる。
「嘘だ…… あれを食らって、まだ生きているのか…… !?」
ブレットが驚愕するのはもっともだ。
薔薇の抱擁は、本来大型の魔物をズタズタにするほどの威力がある。あれに捕われた
だが、現に茎の球が歪み始めている。中でフリージアがもがいているのだ。
「急げイリニ! あれはもうフリージアなどではない!」
「でも、ブレットを置いていくなんて、俺には…… !」
「頼む、イリニ…… 俺一人のせいで、君が死ぬなんて耐えられない…… 君だけは生きていれば、我々の勇者パーティーは不滅だ」
ブレットがこちらを見据える。その瞳には、強い決意の光が
「絶対にこの国から逃げ延びてくれ」
「なに言ってるの、ブレット。誰一人、この国から逃さないよ?」
茎の壁が一部突き破られ、フリージアの腕が出てくる。それはボロボロになっているどころか、あの黒い結晶に覆われていて全く傷ついていない。ただ、茎から出た緑の粘液が付着しているだけ。
その様は、さながら卵からかえる悪魔だ。
「行け! イリニ!」
ブレットの悲痛な叫びが、イリニの背中を押した。
「絶対助けに戻る…… ! それまで待っててくれ…… !」
イリニは魔王の娘をおぶると、一目散に家を飛び出した。
大きく欠けた月が、西の空にぽつりと浮かんでいる。玄関に面した広小路には、まだ人影はない。通常、太陽の民は日が昇ってから活動を開始するのだ。
そして、案の定馬車の姿もなかった。
(まだ日は上がってない…… とにかく裏道から、バレないように進まないと…… !)
月の上がっている方角。そのそう遠くない場所から、数人が駆けてくる音が耳に入る。
イリニはすぐ近くの脇道に入った。
月の光を背に、イリニはグングン小道を疾走する。
騒ぎはあまり広がっていないのか、少し離れると、辺りは不気味なくらい静かになった。明かりがついている家も全くない。
どうにか敵の追跡を免れたらしい。すると、張り詰めた心に
「ブレット…… くそっ! なんでこんな事に!」
何度も後ろ髪を引かれる思いが胸中を
「絶対に逃げないと…… ! 絶対に…… !」
「なによ…… うるさいんだけど……」
魔王の娘の小さな声。
大きなあくびの後も、「さむ」だとか「何この揺れ」だとか、明らかにまだ寝ぼけている様子だ。
「目を覚ましたんだな、魔王の娘」
「あれ、あなた…… ん?」
そう言ったきり、魔王の娘はしばらく無言になる。
「って、何これ!? どういう状況!?」
「静かに! 周りにバレたら大変だ!」
「なんでおんぶされてるの!? なんでこんなところにいるの!? 馬車の作戦は!?」
「失敗した。今はプランBの途中だ」
「え…… ? あれ、そういえば、もう一人の人間は?」
イリニは思わず口をつぐむ。
「今は逃げる事だけを考えるんだ。魔王の娘、身体は動かせそうか?」
「本当にその呼び方で通すつもりなんだ…… あ、あれ、身体全然動かない…… どうして?」
「睡眠草だ」
「なにそれ!? 飲ませたの!? 私に!?」
また魔王の娘が喚き始める。これなら、眠っていてくれた方が良かったかもしれない。
「大丈夫。さっき解毒薬を飲ませたから」
「問題はそこじゃないでしょ! ていうか、眠らせといて、結局起こすってどういうこと!? なんで!? どういう意図から!?」
「ちょっ、落ち着いて…… ! 痛い痛い、尻尾は禁止だって! 転んだら危ないから!」
太く意外と硬い尻尾は、イリニの右膝裏を的確に攻め立てていた。
例えるなら、大根でフルスイングされているような痛さだ。そんな経験した事はないが。というか、なぜ尻尾だけ自由に動かせるのか。
「だめだよ、イリニ。そんな奴と仲良くなるなんて」
全身が凍りつくような悪寒を覚えた。イリニは無意識のうちに足を止め、後方を
正面の民家の屋根にそれはいた。白銀に輝く三日月を頂く、ブロンドの髪を
「フリージア……」
「あいつ、私を吹き飛ばした女……」
イリニの首に回された、魔王の娘の腕に力が入っていくのがわかる。顔が見えないから、それが恐怖によるものなのか、怒りによるものなのか判別できない。
「ブレットは…… ブレットはどうなったんだ?」
今は逃げる事が最優先。だが、どうしても聞かずにはいられなかった。
「最初に言ったでしょ? 二人は殺さないって。でも、ブレットは虹陽術を使っちゃったから。助かるかわからないかも」
「どういう意味だ…… ?」
「ネクラ国のルールその一。国民は必要性が認められた時以外、虹陽術の使用を固く禁ずる」
それはつまり、ブレットが何か処罰を受けるということだろうか。
「もう諦めた方がいいよ。今のイリニじゃ、あたしから逃げる事なんて…… あ、その女を
思わぬ提案だった。
「…… そしたら、俺は逃げられるのか?」
「え、どうしてそんな事聞いてるの? 囮とか嫌だからね? 恨むよ、末代まで。お願いだからそれはやめて?」
魔王の娘には取り合わない事にする。
「どうかな。でも、あたしがイリニを見失う可能性は出てくるかも」
フリージアは愉快そうに言う。まるでイリニたちの逃走劇に、興を添えようとしているようだ。
「どうする、イリニ?」
「それはできない」
「あれ、即決? もうちょっと悩んだ方がいいんじゃない?」
「いいや。魔王の娘は、一時的でも俺の仲間だ。仲間を差し出すなんて、何があっても俺はそんなことしないから。それに、十分休憩は取れた」
イリニはこの短時間を利用して、息を整えていた。これなら、また全力疾走できそうだ。
後ろから「仲間」という魔王の娘の小さな呟きが聞こえてきた。
「ふーん。まあ、断られる事は何となくわかってたけど…… じゃあーー」
屋根からフリージアが飛び降りる。
着地をすると同時に、驚異的な加速。
「速っ!?」
「頑張って私から逃げてね?」
後ろから猛烈な勢いでフリージアが接近してくるのがわかる。というのも、一歩一歩、地面を叩き割るような音がしているのだ。
「魔王の娘!」
「な、なに!」
「何か相手を足止めするか、すごく早く移動できるような事できないか? あの月祈術とやらで!」
「そんな事言われても……」
なぜか魔王の娘は渋っている。
「遅いよ、イリニ。もう追いついちゃうよ?」
さっきよりもかなり近くで、フリージアの声。首を回してみると、彼女との距離はもう二十メートルも無いことがわかった。
「頼む! 俺は今力が使えないんだ。君の力がないと、すぐに追いつかれる! あの魔王の娘なんだろ? 何かすごい力を見せてくれ!」
「わ、わかった。やってみる…… !」
魔王の娘は、イリニの胸の前でぎこちなく両手を合わせた。すると、それに呼応するように、彼女の周りを浮遊する結晶が暗く明滅する。
「何をする気か知らないけどーー」
すぐ後ろの小道で、フリージアは膝を屈める。一気に飛びかかるつもりだ。
「
魔王の娘が叫ぶ。
結晶から細長い糸が勢いよく射出される。それは遠の方へと伸びていき、やがてある民家の屋根にくっついた。糸は二つの間にピンと張られた状態だ。
「おお! 何か黒いのが屋根に!」
「結晶を掴んで!」
「掴んだ! それで、後は!」
「引っ張るの!」
「引っ張る…… ?」
どういう事だろう。
「どっちも絶対に逃がさないから!」
真後ろからフリージアの声が響く。驚いてそちらを向くと、彼女の姿はもう目の前だった。
(まずい、このままじゃ…… !)
その時、まるで釣り針に大物がかかったかのように、結晶が前方向へ強く引っ張られる。足が地面から離れた。
「おっ、身体が浮いーー」
袖が千切れる音がする。イリニの身体は屋根の方に向かって、信じられない力で
「たぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
あっという間に、イリニたちは周囲の家々と同じ高さまで浮いていた。
風が痛いほど顔に吹き付ける。後ろからは魔王の娘の長く伸びた悲鳴。
身体が一回転した拍子に、眼下の道に
さっきまで遠くに見えていた屋根が物凄い速さで眼前に迫る。だが、そこが着地点ではなかった。
二人は勢いを殺せず、そのまま屋根を乗り越えて、飛んで行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます