第7話

「く、クッキー?」

「そう。クッキー」


 イリニは逡巡しゅんじゅんの末、恐る恐る手を伸ばした。


「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「はいどうぞ」


 中腰になったフリージアからクッキーを受け取ると、イリニはゆっくりとそれを口に運んだ。噛むごとに、バターの芳醇ほうじゅん香りが口一杯に広がる。


「どう?」

「この懐かしい味…… さてはお前、本物のフリージアだな!?」

「そんなのクッキー食べなくてもわかるでしょ! もう、イリニったら」


 昔と変わらぬ無邪気な笑顔。それを見て、イリニは家に帰ってきたような安心感を覚えた。彼の記憶と寸分も違わぬ、いつものフリージアだ。


「クッキー、まだあるけど」

「いただきます」


 イリニは猛烈に腹が減っていた。


「そんな呑気のんきな事してる場合じゃないだろ!」


 ブレットが横槍を入れる。腰を抜かした彼の場所から、ギリギリで瓦礫の下敷きになるのを免れたらしい。


「ブレット。無事で本当に良かった」

「食べながら言うな。俺よりもクッキーの方が大事なのか?」

「…… そんなわけないだろ」

「なんだ今の妙な間は!」

「ごめん」


 クッキーの味を噛みしめながらイリニは謝った。

 その後、フリージアはブレットにもクッキーを勧めたが、彼はそれをキッパリと断った。物欲しそうな視線だけは、誤魔化せていなかったが。


「それにしても、フリージア…… 本当に君なのか?」

「うん。二人とも、二年ぶりだね。ちょっと老けた?」


 そう冷やかすフリージア自身は、髪も肌のツヤも至って健康的で、黒を基調とした貴族なような服装をしていた。


「二年もあれば人は変わるさ。それより、これはどういうことなんだ?」


 ブレットは神妙な面持ちで天井を見上げる。

 崩れたのは一階部分だけではない。穴は二階、そして屋根にまで達し、そこからまだ暗い空が覗いていた。一体何をしたらこうなるのか。


「実は、あんたたちを探してたんだ」


 一言、フリージアは屈託のない笑みで答えた。


「いや、探してたって…… これじゃあ騒ぎになるじゃないか。一先ずここから出よう。この時間なら、もうすぐ……」

「あー、馬車の作戦の事?」

「え、どうしてそれを?」


 虚を突かれたようで、ブレットはぽかんと口を開ける。


「ごめん! あたし、そいつの事殺しちゃった!」


 手を合わせて、頭をちょっと下げるフリージア。まるで小さなイタズラがバレた程度の、簡略的な軽い謝罪。その様子と発言内容との大きな乖離かいりが、不気味さを増長させる。

 イリニとブレットはしばらくの間、呆気に取られていた。


「殺したって…… つまらない冗談はやめてくれ」

「えーっと、イーライって男だよね? あの臆病者、挙動が怪しかったから問い詰めたら、すぐに全部吐いちゃってさ。ブレット、仲間にする相手を間違えたね」

「なぜその名を…… フリージア、ちゃんと説明をーー」


 一歩前に踏み出したブレットのすぐ目の前から、何かが勢いよく突き上がる。彼は短い悲鳴を上げて、後ろに仰け反った。

 それは黒い透明な鉱石のようだ。


「はいストップ。二人ともそこから動かないで」

「フリージア…… ?」


 イリニはようやく口を開く。


「そんな怯えないでよ、イリニ。ちゃんと教えてあげるから。あたしの目的は、そこの女の処分。それから、ブレットとイリニ。あんたたちの拘束。良かったよ。吹き飛ばした女も同じ場所にいてくれて」


 フリージアは淡々と恐ろしい事を述べていく。とても冗談を言っているようには見えない。

 こちらの理解が追い付く前に、彼女は「というわけで」と朗らかに声を上げ手を叩く。


「説明タイム終了! まずはイリニから眠ってもらうね。ちょっと苦しいかもしれないけど、我慢して?」


 フリージアの虹彩が橙色に光る。虹陽術が発動する合図だ。

 イリニは後退しようとする。しかし、後ろには魔王の娘がいるのを思い出し、その場に踏みとどまった。


「冗談なんだよな、フリージア?」

「ううん、本気。私はネクラの忠実なしもべ。あの人のご機嫌取りが私の役目なの。ほら、あの人を怒らせると面倒でしょ?」

「そ、そんな訳ない! フリージアはそんな事する奴じゃない! 脅されてるのか? それなら、俺に話してくれ。一緒に解決しよう。三人がいれば絶対ーー」

「相変わらず優しいね、イリニは」


 微笑を浮かべたまま、フリージアはイリニの首根を掴むと、彼を軽々と持ち上げた。虹陽術により、身体の機能を強化しているのだ。


「ぐっ…… フリージア…… やめてくれ……」

「でも、少しは疑わないと。あたしはもう二年前のあたしじゃないんだから」


 喉に手が食い込んでいく。気管が狭まる。フリージアは本気だ。イリニ必死にもがこうとするが、彼女の手はびくともしない。


「フリー…… ジア……」

「おやすみ、イリニ」


 次第に意識が遠のいていく。視界がもやがかっていく中、フリージアの穏やかな笑みが、死神の如く邪悪に映った。


「やめろぉぉぉ!」


 急に喉の圧迫が消える。続いて、胸から腹にかけて強い衝撃が走った。拘束が解け、地面に落下したのだ。

 彼は痛む首回りを抑えながら、懸命に空気を吸い込んだ。口を思い切り開けて、何度も呼吸を繰り返すが、なかなか苦痛は治まらない。


「はぁはぁ…… どうなってーー」


 やっとの事で顔を上げたイリニ。しかし、眼前に飛び込んできた光景に、彼は言葉を失った。


「もう、ブレットってば。さすがにそれは痛いよ?」


 その声は幾らか寂しそうな響きを持っていた。

 フリージアの左胸から、白銀色の長い刀身が突き出ている。そこに根を張るようにまとわり付く赤黒い液体。彼女の背後にはブレットがいた。


「君がネクラの手に落ちたというのなら、君は俺たちの敵だ……」

「酷い事するようになったね、ブレットは」


 ブレットが剣を引き抜く。すると、フリージアの衣服が一層赤く染まり、それは下の方へと伝っていった。

 彼女はそれを意に介した様子もなく、しばらくの間イリニをじっと見つめていた。彼もまた、彼女の顔を見つめ返す。それ以外、身体が動かすことができなかった。

 

「イリニ……」


 そう呟くと、フリージアは数歩よろめき、イリニの側にパタリと倒れた。


「フリージア!」


 呪縛が解けたかのように、イリニはフリージアの下に這い寄る。うつ伏せに倒れた彼女は、息をしていなかった。


「そんな、フリージア……」 

「早くここから離れよう。じきに兵士たちが集まってくる」

「でも…… !」


 イリニは言葉が続かなかった。ブレットの顔はまるで死人のように真っ青になっていたのだ。その目は、虚空を見つめていた。

 経緯はどうあれ、二年ぶりに会った仲間を自分の手で殺めてしまったのだ。それを目撃したイリニですら意気消沈の至りなのに、その張本人であるブレットが平気でいられるわけがない。


 再びフリージアを見やった。そして、こちらにだらりと垂れていた彼女の手をそっと握る。

 自分よりも温かいそれは、まるで命が未だそこに留まっていると思うほどだ。だが、胸を刺されて生きていられるわけがない。


「わかった、行こう……」


 イリニは急いで魔王の娘を背負うと、まだ覚束ない足取りで二階へと上っていった。


「これが解毒薬だ」


 ブレットに緑色の液体が入った小瓶を渡される。

 三人は二階の階段から、一階へと下っていた。今いるのは玄関前の一室だ。

 先ほどの大穴はこの部屋の中央にできていて、足場はふちに残った幅一メートルほどの床しかない。薬の保管してあった棚が無事だったのは僥倖ぎょうこうだった。


「効き目が出るまでには十分くらいかかる。それまではその子をおぶってやってくれ」

「ああ」


 早速イリニは、手近にあった机に魔王の娘を横たわらせ、その口に薬を流し込んだ。

 手際が悪かったのだろう。途中で、彼女は盛大にむせ返り、薬が彼の顔に飛んできた。それでも、彼女が一向に目を覚さないのは、余程睡眠草の効果が高いからだろう。


「あいつは…… フリージアはイーライを殺したと言っていた…… これからどうすれば……」

「とにかく一度確認してみよう」

「作戦を知られていたんだぞ? 確認するまでもない。もうお終いだ、何もかも……」


 まるで見えない支えが外れたかの如く、ブレットはその場に座り込んでしまう。


「ブレット、ここにいたら三人とも死んじゃうよ」

「そうだ。何をしたって同じだ。あの作戦以外に、国を出る方法はない。俺たちはみんな死ぬんだ…… 俺はもう死ぬべきなんだ……」


 膝の間に顔を埋めたブレットからは、鼻をすする音が聞こえてくる。イリニは静かにブレットの側に向かった。


「ごめん、ブレット。俺が不甲斐ないせいで、お前にあんな事をさせて。それと…… ありがとう。俺を助けてくれて。お前は命の恩人だよ。やっぱり、ブレットがいないと俺は何もできない」


 窓の外の暗闇をぼんやりと見ながら、イリニは続ける。


「確かに今は人生で一番のピンチだ。でも、今までだって色んな困難があった。でも、その度にそれを乗り越えてきたじゃないか。今だって、ブレットが突破口を探し続けてきたから、俺はここまで来れた。まだ終わってなんかいない。俺はお前の努力を無駄にはさせない」


 ブレットは何も言わない。だが、静かに耳を傾けているようだった。


「実は、一つだけ策があるんだ。昨日ちょっと頭に浮かんだだけで、成功するか正直自信はないけど」

「策…… ?」

「ああ。でも、そのためにはブレットの力が必要だ。この国の構造をよく知ってる。何より、どんな時も冷静沈着で、的確な指示を出してくれるブレットの力が」


 イリニはブレットの前に手を伸ばした。


「仲間のためにも、俺たちはここを抜け出さなくちゃいけない。でも、俺一人じゃ無理だ。ブレット、手を貸してくれないか? 昔みたいに」


 ブレットは目をパチパチとさせて、それをしばらく眺めていた。


「ああ、もちろんだ」


 二人の手はしっかりと握られた。


「それで、その策というのは?」

「その前に、とりあえずこの家から出よう。移動しながら話すよ。急がないと兵士たちがーー」

「そうそう。急がないと、みんな捕まっちゃうよ?」


 背筋に冷たいものが走った。聞こえるはずのない声が、すぐ真横から聞こえたのだ。

 そちらを向こうとする直前。視界の端から黒い影が走ったかと思うと、ブレットの身体が影の反対側に飛んで行った。


「ブレット!」


 ブレットは玄関横の壁に力なく座り込んでいた。壁にできた大きなへこみが、その衝撃の苛烈さを物語っている。


「安心して? 殺しはしないから」


 耳元でささやかれ、イリニは咄嗟に横に飛んだ。


「フリージア…… どうして…… 確かにさっきは心臓を……」

「刺されたよ? でも、あたしはそんな簡単に死なないの」


 フリージアは最前と同じ、にこやかな表情を浮かべる。

 乳房の下辺り。そこには服の裂けた跡がしっかりと残っていた。しかし、そこから見えるのは、ゾッとするような赤ではなく、滑らかな肌色。傷のような物は見当たらない。


「まさか、再生したっていうのか…… ?」

「そのまさか。貫かれた心臓を再生させたの」


 あり得ない話だった。

 切り傷くらいなら、その部位を修復させる事に何ら不思議はない。だが、重要な臓器を、それも損傷した本人が治すなど、とても人間業ではないのだ。


「不死身……」

「もう、いくらなんでも褒めすぎ。あたしだって、身体をこっぱ微塵にされたら、さすがに再生できない。不死身じゃないよ」


 一歩、また一歩。フリージアとの距離が縮まっていく。


「と、止まれ!」


 イリニは叫ぶが、フリージアは止まらない。このままでは、今度こそ捕まってしまう。

 彼女の言葉が正しければ、生半可な攻撃は通用しない。やるしかないのか。彼女を、自らの手で殺すしか。

 

(フリージアを殺すなんて、そんな事、俺には…… !)


 二つの相反する意向が激しくせめぎ合い、どちらを取捨すべきか決定できない。片方を選んでも、結局は仲間が死ぬ結果になってしまうのだ。

 イリニはただ、一つの選択が向こうから歩み寄ってくるのを、見ていることしかできない。


 なぜか昔の記憶が眼前に浮かび上がってきた。

 どこかの家の中。ブレットとフリージアがそこにはいた。


『はーい、クッキー食べたい人ー』

『君は本当にクッキーを作るのが好きだな。たまには、他のお菓子を作っみてはどうだ?』

『ふーん、ブレットはクッキーいらないのね?』

『いや…… 別にそういう意味で言ったんじゃなくて……』

『じゃあ、どういう意味で言ったわけ?』


 ブレットはすっかり弱ったような顔をする。対するフリージアは我が意を得たりと、人の悪い笑みを向けていた。


『ほらみんな集まって! みんなの大好きな、フリージアクッキーだよ! ブレットはいらないらしいから、一人五枚ずつねー』

『ま、待て! わかった! 悪かった! 俺も食べたいです! だから俺にもクッキーをくれ……』

『そうそう。最初から素直にそう言えばいいの。改心したブレットにも、特別にクッキーを食べる権利をあげるーー』

 

 そこまで流れた記憶は、突如パズルのように崩れて落ち、黒へと変わっていった。

 気づけば、イリニはそちらへ手を伸ばしていた。しかし、その行為も虚しく、彼の意識は暗い現実へと帰ってきた。


(そんなのだめだ)


 ここで彼女に捕まれば、まず間違いなく全員が死ぬ事になる。そうすれば、あの日向にいるような暖かい空間には二度と戻れない。いや、もう元通りに修復するのは不可能だ。であれば、やるべき事は決まっている。

 全ては自分の双肩にかかっているのだ。

 選ぶんだ。躊躇ちゅうちょはするな。


「許してくれ、フリージア…… !」


 イリニの眼に光が灯った。


照焦暗天しょうしょうあんてんッ!」

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